知的活動の中心としての和歌 | 東京大学村上文緒愛好会

東京大学村上文緒愛好会

一つ一つの言葉にこめられた作者の思いがわかったとき、古典は本当に面白いと思った。古典を楽しみたい。その思いが古い言葉の意味を求めるきっかけにもなった。

知的活動の中心としての和歌
前に引用したユーリ・ロトマンを中心とした記号論学者のグループは、文化を非遺伝的なメモリーと見なし、「文法志向」(grammar-oriented)と「テクスト志向」 (text-oriented)という二つの主要なタイプを区別した。「文法志向」の文化は、意味するものが内容であると主張するので、「内容志向」になっている。それに対して、「テクスト志向」の文化は、表現形態を表現するので、「表現志向」とも呼びうる。前者においては、まず従うべき規準やルールが成立して、人の行動とふるまい、創造と表現など、すべての営みはこうした基準とルールに即して行われる。一方、後者においては、ルールは、前もって出来上がるのではなく、具体的なテクスト、表現、習慣など、文化的実践そのものから自然に成り立つものである。だから、前者にとっては「正しいものが存在すべき」なのであり、後者の道理は、「存在するものが正しい」となる。
それに対応して、教育や伝統伝達の目的も異なる。前者においては、目的は規準やルールを身につけることであり、後者において求められているのは、優れた作品や表現などの前例を覚えることである。そして、「内容志向」の文化の最も代表的な知的活動は学問 (science)であるのに対して、「表現志向」の文化においては、それは詩歌 (poety)なのである。
どの文化も多様的なので、どちらのタイプにも完全に当てはめることはできない。しかし、そのいずれかが主要な傾向として現れる。たとえば、古代ギリシャの文化に根を持つ西洋文化においては、「内容志向」の傾向が強い。一方、近代以前の日本文化は、驚くほど「表現志向」のモデルに合っている。

和歌とやまと言葉の発展が密接に繋がっているのと同様に、古代日本文化が「表現志向」の特徴をもつことと、その文化における和歌の役割とのあいだにも、密接な関係があるといえる。つまり、和歌が主要な表現形式として定着したので、「表現志向」の傾向が強くあらわれた。一方、「表現志向」の傾向が強くなるにつれて、和歌が最も活発な知的活動として公認されるようになった。
こうして、和歌は、テーマが自然と心という二つに絞られていたとはいえ、表現力を磨き複雑な連想ネットワークを発展させることによって、世の中のあらゆることについて考察し表現できるようになったのである。
つまり、和歌は教養社会においてはコミュニケーションの一般的手段だったので、哲学的議論のメディアにもなったわけである。こうした重要な側面を無視して、和歌の読みを、現代の社会における詩歌の地位に絞ることは、日本の大事な知的遺産を見失うことになりかねないのではないか。

世の中の理や存在の意味を問わない文化はありえない。文化圏によって異なるのは、方法と手段のみである。その手段は、古代ギリシャにおいては哲学的対話や議論だったのに対して、平安時代の社会においては和歌だった。それだけのことである。
真名 (漢字)と仮名の使い分けのため、和歌のテーマは自然と心という二つに絞られたが、しかし一方、こうしたテーマの制限こそが、時の流れのなかで、和歌とそれを基にした物語など、古代日本文学の普遍性を確保した。確かに、政治的・社会的思想は、人類の進歩の原動力になっているが、古びるのが早まっており、次から次へと新しいアイディアに変わっていくのも事実であろう。世の中にかわらぬものがあるのだとすれば、それは人の心なのではないか。生活様式も、考え方も異なっていても、人間はあいかわらず喜んだり悲しんだりしているのだから。
つまり、本来「はれ」の場は真名の特権であり、仮名にとってはタブーだったので仮名文字の世界は、自然と心という、存在のエッセンスそのものに焦点を合わせることができた。一つの時代が生み出した「タブー」は、やがて時代の移り変わりとは無縁になる「自由」をもたらしたわけである。
東京大学村上文緒愛好会 (u_tokyo_fumio)
Android携帯からの投稿
第65回東京大学駒場祭

東大生ブログランキング

【お誕生日情報】本日のバースデーガールは「村上文緒」 (CV:名塚佳織さん)です。
ガールフレンド(仮)
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村