灯暗うして"数行"虞氏の涙、夜深うして四面楚歌の声 | 東京大学村上文緒愛好会

東京大学村上文緒愛好会

一つ一つの言葉にこめられた作者の思いがわかったとき、古典は本当に面白いと思った。古典を楽しみたい。その思いが古い言葉の意味を求めるきっかけにもなった。

「多い」「少ない」といったときに、具体的にはいくつくらいの数だと「多い」のか、逆にいくつくらいだと少ないのか、その基準がどこにあるかが問題となる。そこに日本語の発想の一端があると考えられるからである。
日本語では「七・八・九」などは、「多」の意味につながる数字であった。
七重八重花は咲きけれども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき (『後拾遺集』雑五・1154。兼明親王)
(七重八重と花は咲いているけれども、山吹の実が一つさえ無いのは悲しいことだ)
の「七重八重」はどちらも多いという印象で使った語である。「九重」なども同じである。
何年か前の話になるが、日本語では、「七」以上になると「多」の意味になる例があるという話をしていたら、その頃、中国から留学してきていた氏が、「中国では「三」からが「多」い数ですよ」と発言した。そういえば、「三顧の礼」「再三再四」「三拝」など、中国語から日本語にもたらされた語の中には、「三」が「多」の意味で使われている例が思い浮かぶ。
中国語の辞典で「三」の意味を調べてみると、「辞源」では、「多次。再三」、『漢語大事典』では「多数」「多欠」、『中華字海』では「多欠」とあり、「三」がいずれも「多」の意味で捉えられている。「二」には、そのような意味がないから、「三」が「多」で、それ以下ではそうでなく、それ以上だと「多」ということになるのであろう。氏の発言内容は確かめられ、中国語で「三」は「多」であったといってよかろう。「数」の字を使った言葉の中に「数四」という言葉がある。これも、中国語にある語であるが、日本語でも書簡では、「一両日」に継ぐものとして用いられたようである。ここでの「数」は、使用状況から考えて「三」であることは間違いない。このように「数」は「三」になるが、それは、「三」が「多」であるから、「多」を意味する「数」が「三」になったということなのであろう。
このように、中国語の中で、「三」を「多」とすることがあるとしても、この感覚は日本語ではなかなか馴染めない。例えば、「一日千秋」という語がある。この語は、もともとは、『詩経』の『辞源』を見ると、「一日三秋」の項目はあるが、「一日千秋」という項目はない。これだけから結論することは危険であるが、あるいは、「千秋」の方は日本で考え出された語かとも思える。もし、そうであると、日本では「三」が「少」のニュアンスがあるところから、「千秋」に変えられた可能性があるのではないだろうか。その可能性が認められるとすると、やはり「三」は、中国語では「多」の意味になるが、日本語では「多」の意味にはなりにくかったということになるのではなかろうか。
日本語の中で「数」の字は「多」の意味に使われた。その点では中国語でも日本語でも同じであった。ただ、中国語では「三」が「数」に当たった。その感覚は日本語にはなかったようである。それでは、日本語ではいくつという数が「数」の字に当たるのだろうか。
入道相国の嫡男小松殿、大納言の右大将にておはしけるが左に移りて、次男宗盛、中納言にておはせしが数輩の上﨟を超越して、右にくはゝられける。(『平家物語』二・鹿谷)
(入道相国の長男小松殿は、大納言の右大将でいらっしゃったが、左大将に移って、次男宗盛は中納言でいらっしゃったが、多くの上位者を超えて、右大将に加わられた)
平清盛の悪行を述べた条で、その子息達が異例の出世をすることを述べている。その中で宗盛が「数輩」の上位者を飛び超えて上の位に進んだとあるが、このとき、彼が超えた上位者の数は、大納言八人、中納言二人の計十人である。「数輩」は具体的に「十人」であったことになるが、もちろん、ここは、「十」を表すために、「数輩」と「数」の字を使ったわけではない。ただ、「たくさん」という意味を表し、清盛の悪行を示すためには「十人」と具体的に示すよりも、インパクトの強い「数輩」の語を選んだのに違いない。
一人聖体、北蠍の宮禁を出て諸州に幸し、三種の神器、南海・四国にうづもれて数年を経。もとも朝家のなげき、亡国の基也。(『平家物語』十・八島院宣)
(天皇は宮中を出て、いくつかの国を旅して回られ、三種の神器は南国・四国に埋もれて何年も経った。この行為は、国に大変な嘆きをもたらし、国を滅ぼす源である)
寿永三年(1184)二月十四日、平業忠を介して、当時、八島にいた平時忠に送られた院宣の一節である。「一人聖体」は天皇のこと、ここは、平清盛の娘徳子(建礼門院)の生んだ安徳天皇を指す。安徳天皇は、平家都落ちに同行して西国に落ち、最後は平家一門と壇ノ浦で海に入り、八歳で崩御する悲劇の天皇である。「北闕の宮禁」は「皇居」をいう。平家は都落ちの際に、安徳天皇とともに皇位の象徴である三種の神器をも京都から持ち出してしまう。安徳天皇の都落ちの後、京都の朝廷では、すでに後鳥羽天皇が即位しているから天皇の不在はまぬがれていたが、三種の神器だけは代わりとなる物がなく取り戻さなければならない。そこで、平家に対し交換条件を出した。もし三種の神器を都に戻したならば、すでに捕虜となっている平重衝の罪科を許すという内容であり、ここに引いたものは、それを記した文章である。
ここに、天皇が都を離れてから「数年」と書かれている。天皇が都を離れたのは、寿永二年七月十四日、この文の書かれたのは翌年の二月であるから、実質期間はたった七カ月、翌年にかかっているから、一応、足かけ「二年」にはなるが、それにしても、短い期間である。そこに「数年」の語が使われた。となると、この「数年」は「二年」という短い期間を表したかといえば、そんなことはない。ここに「数年」の語が使われたのは、たとえ実質は足かけ二年の短い期間であったとしても、天皇が皇居を出て、都を離れ、さらに三種の神器までが宮中から外に持ち出されている。それは、ただの一日でも許されない大事件であったはずで、その意味でいえば、これは、異例といってもいいくらいの長い期間であったのである。そこで「数年」の語が使われた。もし、これが、例えば、一月に都落ちがあり、八月に書かれるとして、そのときも七カ月ではあるが、同じ年の内であったようなときに、「数年」と使ったかといえば、かなり疑問で、それであれば、おそらく「数月」(『日葡辞書』では「数多くの月」とある)のようにいったのではないかと思うが、『平家物語』の場合は、二年にわたるので、この語が使われたのであろう。

東京大学村上文緒愛好会 (u_tokyo_fumio)
Android携帯からの投稿
第65回東京大学駒場祭

東大生ブログランキング

ガールフレンド(仮)
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村