それでは6/29(土)、広島前乗り編の旅行記を綴っていきます!

 午前7時台に起床し、千葉の自宅を出て東京駅へ。9:30の東海道新幹線「のぞみ21号」に乗って広島駅へと向かう。およそ4時間後の13:27に広島駅に到着した。広島は2015年以来、9年ぶりに訪れたが、9年ぶりに訪れた広島駅は改修工事の真っ只中であった。

 まずは昼食を食べるため八丁堀の「お好み村」へと足を運ぶ。広島駅から広電(路面電車)にのって八丁堀電停で降り、Googleマップを頼りにお好み村まで歩いた。そして私は「文ちゃん」(ふみちゃん)という店に入った。実は9年前(2015年)にも
訪れている。そば入りの「スタンダードお好み焼き」を頼んだ。ごちそうさまでした!

 お腹を満たしたあとは歩いて本日の宿「ドーミーイン広島」へと向かう。「お好み村」が入るビルのエレベーターのすぐそばに、お地蔵さんがあった。私は2015年にもお好み村を訪れているが、全く気付かなかった。

 このお地蔵さんは「新天地地蔵尊」というらしい。このお地蔵さんが建立されたのは1992年のことであるが、当時「お好み村」のビルを経営していた住田一也さんが建てたという。住田さんは戦時中はインドネシア・スマトラ島の戦線にいて、のちに帰還されたが、妹さんと弟さんを原爆により亡くされた。原爆で命を落とした多くの子どもたちの供養の意味を込めて、地蔵尊が建立されたという。

 今では多くの修学旅行生や観光客が訪れる都市に発展したが、楽しい旅行ができること、美味しいものが食べられるのもやはり「平和」な世の中だからこそ…という願いを込めたのだろう。住田さんは地蔵尊を建立した1992年に70歳で亡くなられたが、「平和」への思いがいつまでも受け継がれていって欲しいと願った。

 15時頃に今回宿泊する「ドーミーイン広島」に到着。ホテルに大きな荷物を置き、しばらく休んだあとは平和記念公園に行き、平和記念資料館で展示を見ることにした。

 16:30過ぎにホテルを出て、平和大通りを通って平和記念公園へ行く。外は曇っていたが、川が穏やかに流れていた。川沿いに建ち並ぶ高層マンションと穏やかな川の対比に美しさを感じる。

 平和記念公園の前で、「広島市立第一高等女学校」(現:広島市立舟入高等学校)の慰霊碑を見つけた。こちらも9年前の旅行では気付かなかったものである。
 あの日、1〜2年生の生徒541人と教職員7人が木挽町(現:中島町)で建物疎開の作業にあたっていたが被爆し、全員が亡くなった。他の場所にいた上級生・教職員も合わせると676人が亡くなり、広島市内の学校では最も多くの犠牲者を出した。

 写真では見えにくいが、慰霊碑には3人の少女が描かれている。そして、中央に描かれている少女は「E=mc²」と描かれた手箱を抱いている。これはアインシュタインによって提唱された「相対性理論」の公式である。この慰霊碑が建立された1948年当時、連合軍の占領下にあった日本では原爆の被害を表立って語ることができず、「原爆」という言葉が使えなかったためだと言われている。


 慰霊碑のそばには沢山の折り鶴が手向けられていた。折り鶴は鎮魂の象徴なのだろう。

 慰霊碑に刻まれた「E=mc²」の公式を見て、「文明の光と影」みたいなものを感じる。ネットで「相対性理論」を検索してみたものの、文系人間の私にはどうしても理解が難しいものがあり、原爆とどのように関係があるのかピンと来ないところもある。

 小学生のときに読んだ「キュリー夫人」(ラジウム・ポロニウムを発見した科学者)の漫画伝記で、キュリー夫人が「私はとんでもないものを見つけてしまったのではないかしら…」と呟いていたシーンを思い出す。キュリー夫妻によって発見されたラジウムが出す放射性物質ががん治療などに利用されるようになった。さらにその後も原子についての研究は進み、良いとされた技術や特徴はやがて戦争に使われるようになった。

 放射性物質に限らず、人間が発明・発見したものが戦争に使われていった例は沢山ある。ライト兄弟が発明した飛行機もそのひとつだった。私にとっては「国内外問わずどこへでも行けるもの」というイメージしかないが、ライト兄弟の弟であるオーヴィル・ライトは晩年、飛行機を発明したことを悔いていたという話を聞いたことがある。どんなに優れた文明や科学技術も、結局は使う人次第なのだ。人や物を壊すためではなく、「平和」のために使って欲しいと願わずにはいられなかった。

 それでは次回に続きます!