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 南三陸町震災復興祈念公園にある「祈りの丘」で手を合わせたあとは、「旧志津川駅跡」へと足を運んだ。復興祈念公園の「祈りの丘」へ向かっている途中、ホーム跡が見えており、気になっていた。

 なお、旧志津川駅のホームの下にトンネルがあるが、これはかつて駅舎とホームを繋いでいたものである。

 

 現在の「志津川駅」の写真はコチラ。2022年10月に「道の駅さんさん南三陸」がオープンし、それに伴って志津川駅も写真の建物の中に移転した。建築家の隈研吾さんがデザインを手掛けており、震災伝承施設「南三陸311メモリアル」、観光交流施設「南三陸ポータルセンター」も併設されている。

 

 

 現在の「志津川駅」は気仙沼線BRT(Bus Rapid Transit、バス高速輸送システム)の駅となっており、列車は来ないが、かつてはJR気仙沼線の鉄道駅であった。鉄道駅としての志津川駅は1977年に開業し、2008年には砂浜をイメージしたサンドベージュの塗装が駅舎に施された。ところが、東日本大震災の津波で駅舎と線路が流失してしまい、ホームだけが残った。2012年8月にBRTで仮復旧し、復興工事の進捗により移転しながら営業してきたが、2020年4月に鉄道事業が廃止されてしまった。

 鉄道駅があった跡地は線路跡を舗装するなどして再整備され、JR東日本から南三陸町に貸与という形で、震災遺構として保存されている。

 

 「さいきの駅舎訪問」というサイトに、震災前から現在に至るまでの志津川駅の駅舎の写真が掲載されていますので、ぜひご覧下さいm(_ _)m

 

 

 旧志津川駅跡は外観のみ見学可となっていた。震災で残ったホームには駅名標が取り付けられているが、これは後から取り付けられたものだ。

 

 駅名標の裏には震災前の志津川駅の写真が掲載されていた。

 

 外からホームを見てみる。雑草が生い茂り、自然に還ろうとしている印象を受ける。

 

 遺構となったホームの上に点字ブロックが散らばっているのが確認できた。この点字ブロックが、かつてここに鉄道駅があったことを物語っている。

 

 「被災地と鉄道」のことは東日本大震災発生当初からずっと気になっていた。これまでのブログ記事で何度か書いてきたが、私が大学4年生だった2012年10月頃に、「児童英語指導法」という授業で「自分の好きなものを『英語のみ』で紹介する」というものをやったことがある。ただし、「英語のみ」といっても、日本人の先生がところどころで助け舟を出してくれる。

 私は「これから乗ってみたい鉄道」として三陸鉄道のことを紹介した。甚大な被害を受けたにも関わらず、震災からわずか5日後に運転再開した区間(陸中野田〜久慈間)があることが、三陸鉄道に興味を持ったきっかけだった。

 

 私が大学4年生だった2012年当時では、北リアス線は小本(現:岩泉小本)〜田野畑間が不通であり、南リアス線は盛〜釜石間の全線で不通であった。

 三陸鉄道の紹介を終えたあと、先生から日本語で「なぜ、中々復旧しないと思いますか?」と質問されたのだが、私はその質問に答えられなかった。お恥ずかしながら、「被害が大きかったから、復旧に時間がかかっているのだろう」としか考えていなかった。

 

 震災被害を受けた鉄道が復旧するのにかかった時間は様々である。数週間、数ヶ月単位で復旧した路線もあれば、何年もかけてようやく復旧した路線もある。先述した三陸鉄道は、震災から3年後の2014年4月に北リアス線と南リアス線の全線で復旧している。常磐線は震災から9年後の2020年3月に全線で復旧している。しかし、その裏で、震災から9年経って、鉄道事業の廃止を決めた路線もある。それが志津川駅を含む、JR気仙沼線の柳津~気仙沼間と、JR大船渡線の気仙沼~盛間だ。

 

 復旧か廃止かを決めたのは、「今後の利用が見込めるか」ということなのだろう。三陸鉄道の場合、沿線が山がちな地形であり、鉄道代替の大型バスが通れるような道路が少ないという事情もあって、鉄路での復旧が進められた。常磐線の場合、東京と仙台を結ぶ幹線であり、貨物輸送などの需要もある。また、東北本線が不通になったときの代替ルートとしても残しておく必要があったため、9年かけての全線復旧が進められたのだろう。

 

 しかし、鉄道事業の廃止が決まった大船渡線・気仙沼線の一部区間では、線路や駅舎の流失といった被害の大きさだけでなく、被災を機に、震災以前からの人口減少や車社会化がさらに進んでしまった。そのため、「多額の費用をかけて鉄道で復旧させても、その後の利用が見込めない」と判断されたのだろう。

 当該区間では人口が少なく、車社会であるため、バスや車による移動が便利なのだろう。また、BRTだと復興工事の進捗によるルート変更や、バス停の新設が容易に行えるというメリットもある。実際、気仙沼線・大船渡線BRT運行開始後に新設された駅(バス停)は多く、これまで鉄道でアクセスしづらかった病院や学校、観光施設などへのアクセスが容易になっている。

 

 BRTの運行開始から10年以上が経ち、「鉄道よりもBRTのほうが便利」と感じている住民も多いのかもしれないが、「かつてこの地に鉄道が走っていたこと」が忘れ去られてしまわないか?と不安になる。

 自分でも上手く表現できないが、鉄道は「意義」や「需要」があって建設されたものだ。三陸沿岸地域の場合、東日本大震災以前にも度々津波被害を受けていること、大消費地から離れており、交通が不便な地域であることから鉄道が建設された。都市部の鉄道と比べると本数も利用客も多くはないが、車を運転できない学生やお年寄りにとっては貴重な交通手段だ。また、鉄道は定時性に優れ、一度に沢山の人や物を輸送できる。そのメリットが必要とされていたからこそ鉄道が建設されたのだ。どんなことがあったとしても「震災前の姿」を忘れないで欲しい…と思わずにはいられなかった。

 

 

 復興祈念公園内の道路に「志津川高校(現:宮城県南三陸高校) 高台 避難路」と書かれている。復興祈念公園の一帯は津波浸水区域であるためだ。

 

 宮城県のキャラクター「むすび丸」が描かれた単管バリケードを発見。キャラクターものを見かけると即座に写真を撮ってしまう(笑)

 「単管バリケード」という名称だが、この写真を画像検索にかけて初めて知った。

 

 多忙につきブログの更新が遅くなってしまい、申し訳ありませんでしたm(_ _)m

 それでは次回に続きます!