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 防災対策庁舎を見たあとは、震災復興祈念公園にあるモニュメントなどを見学した。

 

 

小学校1年生だったあの日、この目で見たものは

まだ私の中で鮮明に生き続けている。

どうかこの町が大好きだったあの日のように

活気と人々の笑顔であふれる町に

なりますように。

 

 このモニュメントは大阪府枚方市のゆるキャラ「みっけちゃん」のTwitterで度々紹介されており、私自身も気になっていた。

 震災当時、小学校1年生だったということは、2023年の現在では19歳~20歳になっているということになる。当時小学校1年生だった若者には「あの日の風景」はどのように映っていたのだろうか。そして、南三陸町が「活気と人々の笑顔であふれる町」になっているだろうか。

 

 そしてこのあとは「祈りの丘」に向けて歩みを進めた。「祈りの丘」の頂上には、東日本大震災で犠牲になったおよそ800人の名簿が納められている「名簿安置の碑」が設置されている。また、南三陸町復興祈念公園の一帯は津波警戒区域に指定されており、「祈りの丘」は一時的な避難場所としての役割も果たしている。

 

 「祈りの丘」へ続く道は「記憶のみち」と名付けられ、東日本大震災発生から津波襲来までの経過が時間に沿って刻字されている。写真に撮りながら歩いて行った。

 

 14:46、東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)発生。

 これが全ての悲劇の始まりだった。

 

 14:49、気象庁、大津波警報(予想高さ6m)発表。

 地震発生から3分で大津波警報が出たことになる。しかし、それでもこの時点では本当に大津波が来ることなど、誰も予想していなかっただろう。

 

 登ってきた道を振り返る。周囲は草が生い茂り、民家はない。

 

 15:14、気象庁、大津波警報(予想高さ10m以上)発表。

 地震発生から約30分経って、津波の予想高さが大幅に引き上げられたことになる。とはいえ、それでも実感がわかなかったに違いない。

 

 登ってきた道を再び振り返る。本当にこの辺り一帯が津波に襲われたとは思えないくらい、静かな景色が広がっている。

 

 高度が上がるとかつての中心市街地を見渡せる。写真中央に写る建物は「ブライダルパレス高野会館」、黄色い丸で囲ってあるのは「ホテル観洋」だ。目の前を遮る建物がないため、遠くの建物がよく見える。

 

 15:25、大きな津波が漁港に押し寄せ、防波堤を越える。

 予想高さ10mの警報が出てから、11分後のことであった。

 

 15:30頃、煙を巻き上げ、市街地の建物の多くが流失し始める。

 

 15:35頃、巨大津波が襲来、市街地が壊滅。

 その先に続く言葉はない。「市街地が壊滅」という言葉があまりにも重かった。人々の生活も思い出も、何もかもを破壊していった。

 

 コンクリートの「記憶のみち」を登り切ると、その後は白いタイルの「高さのみち」を登っていくことになる。「高さのみち」は志津川地区を襲った津波の平均の高さ「16.5m」に設定されている。

 これまでのブログで何度も書いているが、当時の津波の映像を見てもピンとこないところはあるが、防波堤を越えたあとは急激に水位が高くなっていったのだろう。あの防災対策庁舎を飲み込むような大津波が来たのだ。そして、周囲を見渡しても「高台」と呼べるようなところはほとんどない。逃げたくても逃げられなかった人も多かったのだろう…。

 

 

 「高さのみち」を登りきり、ついに「祈りの丘」に到着した。

 

 こちらが冒頭で説明した「名簿安置の碑」だ。犠牲になった南三陸町民、そして町内で亡くなられた方を合わせた804人の名簿が納められている。そして碑には公募で選ばれたメッセージが刻まれていた。

 

 

いま、碧き海に祈る

愛するあなた

安らかなれと

 

 

 私も海に向かって手を合わせた。あの日、津波に流されていった人はどんな気持ちだったのだろう。家族や親しい人を見送った人は今、何を思うのだろう。東日本大震災は「今も」続いている。復興にゴールはない。そして震災から12年が経った今では、「震災伝承」という新たな課題もある。

 

 次の記事では、かつての「志津川駅跡」を見た感想を書いていきます。それでは次回に続きます!