※震災遺構の写真があります。閲覧の際はご注意下さい。

 

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 高野会館(外観のみ)を見学したあとは、語り部バスの車窓から南三陸町防災対策庁舎を見た。私にとっての防災対策庁舎は、震災直後の瓦礫だらけの町に建っているものというイメージが強かったが、震災から12年が経った今では、きれいに整備された復興祈念公園の中に建っている。緑の芝生の上に建っていると、赤い骨組みとのコントラストを強く感じる。

(車窓からの写真は撮れませんでしたが、ホテル観洋を出たあとに行った「南三陸町震災復興祈念公園」で撮った防災対策庁舎の写真を先行公開します)

 
 

 そして、ガイドさんが「遠藤未希さん」の実際の避難放送を聞かせてくれた。今までに何度もテレビ等で聞いてきたあの音声だ。しかし、未希さんの声よりも、背後で鳴っている防災無線のサイレンのほうが耳に残った。

(下記のリンクから、未希さんの実際の放送音声を聞くことができます) 

 

 

 遠藤未希さんは震災当時24歳で、南三陸町の危機管理課に勤める公務員であった。仕事中に激しい揺れに襲われ、未希さんは防災対策庁舎2階にある放送室に駆け込み、津波襲来の可能性があること、すぐに高台に避難するよう促す放送を行った。

 

 当初の津波の高さは「6m」と予想されていた。ところが、実際には15mを超す大津波が襲来し、高さ12mあった防災対策庁舎は建物ごと津波に飲み込まれてしまった。防災対策庁舎で勤務していた職員53人が屋上に避難したが、43人が津波の犠牲となった。助かったのは無線アンテナに掴まっていた町長ら10人ほどであった。

 

 津波が来る直前まで放送を続けていた未希さんも津波に飲み込まれてしまい、震災からおよそ1ヶ月半後に志津川湾で発見された。津波襲来直前まで住民に避難を呼び掛け続けたことから、「天使の声」と称賛され、公立学校の道徳の教科書にも掲載された。未希さんの呼び掛けに救われた人が多かったのは事実だが、「美談」として取り上げるのには違和感を感じてしまう。自分が職場で「震災絡みの酷い発言」を受けてからは尚更そう考えるようになった。

 

 職責を全うすることも大事だが、逃げて欲しかった。誰に何と言われようが、生きていて欲しかった。未希さんのお母様・遠藤美恵子さんの著書「虹の向こうの未希へ」でもそう書かれていた。

 

 未希さんご本人は、大好きな南三陸町の住民の命を守りたいという思いで、最後まで放送を続けていたのだと思う。未希さんだけでなく、他の職員も同様で、「町民のために」という思いで動いていたのは事実だ。そして何よりも、15mを超える大津波が南三陸町を襲うことなんて考えもしていなかった。当然、高さ12mの防災対策庁舎が津波に飲み込まれてしまうことも…。

 

 しかし、その後の報道では先述のとおり、未希さんのしたことが「天使の声」として称賛された。震災直後、私が大学生だった頃は「すごいな〜」と思っていたことがあったが、仕事をするようになり、さらにあの「理不尽な発言」を受けてからは、これは美談として取り上げるものなのだろうか?と疑問に思うようになった。

 

 今まで4回、震災慰霊の旅をしてきたが、あの「理不尽な発言」と向き合いながらの旅でもあった。あの発言を受けてから4年が経った今でも友人や知人に話してしまうし、そんな自分に嫌気がさして、震災慰霊の旅をやめようかと思ったこともある。他人から見れば、「もう忘れなさい」「気にしないように…」と言われることなのだが、だからといって「なかったこと」にしてしまうのも違うと感じる。

 

 「自分を犠牲にしてまで他人を助けた」というニュースが沢山流れたから、私はあの「理不尽な発言」を受けることになったのだろうか?職責を全うすることは確かに大事なことであるが、危険を冒してまでしなければいけないことなのだろうか?危険から逃げることは人間として当たり前のことではないのか?生きていてはいけないのだろうか?遠藤未希さんの一件は「美談」ではなく、「津波てんでんこ」の意味を問い直すきっかけにしなければいけないと考える。

 

 

 防災対策庁舎の説明が終わったあとは、ホテル観洋に戻って、「語り部バス」のツアーは終了となった。1時間の所要時間はあっという間に過ぎていった。「語り部の人からの話を聞きたい」と思って乗った「語り部バス」であったが、テレビや新聞で報道されない話も知ることができた、貴重な機会であった。

 

 語り部のガイドさんの言葉で特に印象に残っているのは、「『風化』以上に、『なかったこと』になっていく」というものだ。かつて戸倉小学校があり、現在は更地になっているところをバスの車窓から見たとき、「震災前から南三陸町で暮らしているけれど、(戸倉小の跡地が)以前から『何もなかった』ところのように思えてしまう」とガイドさんが仰っていた。

 

 東日本大震災で津波被害を受け、町の姿は大きく変わってしまった。かつては海沿いまで家やお店が建ち並んでいた地区が「非可住区域」に指定され、巨大な防潮堤が建設されて、高台に登らなければ海は見えない。この生活が「当たり前」になって12年が経っているのだ。震災前の姿を思い出せなくなり、人々の記憶から「なかったこと」になっていくのも無理もないのだろう。

 

 「人は二度『死』を迎える」と言われており、一度目は魂が肉体を離れたとき、二度目はその人が生きていたことを知る人間がいなくなったときであるが、町の記憶においても同じことが言える。災害の悲惨さ、恐ろしさだけでなく、震災前の町の記憶をどう語り継いでいくかを考えていかなければならないのだ。震災前の記憶を語り継ぐことは、生きていた人達の記憶を語り継ぐことでもある。

 

 語り部バスツアーが終わったあとは、志津川観光タクシーさんに電話してタクシーを呼び、このあとの目的地「南三陸さんさん商店街」へ連れて行ってもらった。

 

 長々と書いてしまいスミマセンでしたm(_ _)m それでは次回に続きます!