※震災遺構の写真があります。閲覧の際はご注意下さい。

 

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 戸倉小跡地の次に立ち寄ったのは、ホテル観洋が所有する民間の震災遺構「ブライダルパレス高野会館」だ。ブライダルパレスという名前のとおり、南三陸町では数少ない総合結婚式場であった。震災当時、高野会館では地域住民(高齢者)による芸能発表会が行われており、その最中に地震が起きた。
 
 高野会館の外観。バスから降りて見ることができた。(ただし、内部は立ち入り禁止のため見ていない)入口には「Bridal Palace」と書かれていたと思われるが、地震と津波の衝撃で剥がれてしまっていた。
 
 私以外にも、バスの乗客が次々と降り、写真撮影などをしていた。黄色い丸で囲ってあるのは東日本大震災の津波到達ラインで、あの日の津波は建物の4階にまで達した。しかし、芸能大会に参加していた327人は高野会館のスタッフの迅速な判断により、建物の屋上に避難して難を逃れた。そして犬2匹も屋上に避難して助かっている。
 
 震災が起きたとき、パニックになった参加者は一斉に外に出ようとした。ところが、「垂直避難」の判断を下した高野会館のスタッフが、「生きたかったら、ここに残れ!」と仁王立ちして制止したという。参加者達を屋上に誘導し、327人の参加者と犬2匹の命が救われた。しかし、スタッフの制止を振り切って外に出た参加者も8人おり、そのうちの6名は命を落としてしまったという事実もある。
 
 前回の記事で取り上げた「戸倉小学校」では、高台の神社に「水平避難」して助かった。しかし、高齢者が多数集まっていた高野会館では、建物の屋上に逃げる「垂直避難」をして助かった。多くの人の命が救われた事実は変わらないが、避難の方法・手段が大きく異なっている。
 
 何がその後の運命を大きく左右したのだろうか?建物の構造、立地、避難者の年齢層、「逃げる場所」の有無など考える点は沢山ある。高野会館の場合、「建物が無事だった」というのが一番大きなところだろう。実際、高野会館は「津波避難ビル」に指定されており、建物の基礎は通常の倍の強度で設計されていたという。
 
 高野会館のスタッフが「垂直避難」を決断した大きな理由として挙げられるのが、「避難者の年齢層」だ。先述した通り、高野会館に集まっていたのは高齢者で、最高齢の人は90代後半だったという。あの震災が起き、「津波が来るだろう」と判断したスタッフは「高齢者の足では、高台に避難していたら間に合わない」と感じ、「垂直避難」を指示したと言われている。
 
 戸倉小学校のケースでは、当時の校長先生や教職員が高台へ避難する「水平避難」を指示して難を逃れたと、語り部ガイドさんから説明があったが、実際にガイドさんが指さした「高台」はとてつもなく遠いところにあった。写真などがないので読者の皆さんには分かりにくいが、まさに「山の上」にある。小学生や若年層の住民は急いで高台に避難できるかもしれないが、お年寄りや障害を持つ方ともなれば、「水平避難」では助からない可能性もある。

 臨機応変な判断、決断がその後の運命を左右するのだろうが、本当に大きな災害が起きたときに自分はそのような判断ができるのだろうか?重い現実を突きつけられたような気がした。そういう私の姿を見て、あの「理不尽な発言」をしたのだろうか…と考えてしまうのだが、やはり納得いかない。「そんなの放っておけ」「忘れろとは言わないけど気にしないほうがいい」と言われるのもよく分かるが、私にとっては忘れることなんて一生ないし、事あるごとに思い出すだろう。

 災害は起きないのが一番良いことだが、起きてからでないと分からないことは沢山ある。大事なのは「平時」のときの備えなのだろう。高野会館では定期的に避難訓練を行っていたし、戸倉小学校では、震災前の地震を機に避難場所の見直しを行っていた。避難計画も「一度策定したら終わり」ではなく、定期的に見直しを行っていく必要がある。また、学校や福祉施設などでは、児童生徒や利用者の特性に応じた見直しも必要なのだと感じた。
 
 「語り部バス」のツアーも終盤に入ってきた。防災対策庁舎のすぐそばには、このあと行く「南三陸さんさん商店街」が見えた。
 
 次の記事では、車窓から見た防災対策庁舎と、そこで避難を呼び掛け続けた「遠藤未希さん」の放送を紹介していく。それでは次回に続きます!