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 戸倉公民館(旧:南三陸町立戸倉中学校)を出発し、次に向かったのは「南三陸町立戸倉小学校」があったところだ。東日本大震災の津波で校舎が全壊し、今は更地になっている。語り部の人からの説明がなければ素通りしてしまうところで、かつて小学校があった面影はどこにもない。震災後は別の小学校の校舎を借りて授業をしていたが、2015年10月、高台に新校舎が完成し、現在に至る。

 

 震災前までは、戸倉小の「避難場所」は「校舎屋上」となっていた。いわゆる「垂直避難」というものである。しかし、東日本大震災が起こる2日前(2011年3月9日)に少し大きめの地震があり、そのときは校舎屋上に避難したのだが、教職員の間から「本当にここ(校舎屋上)が避難場所でいいのか」という声が上がったという。そこで、山あい(高台)にある神社が新たな避難場所となり、翌3月10日には実際に避難訓練が行われた。

 

 そして東日本大震災が起きた3月11日は、あの大きな揺れから「津波が来る」と直感した教職員・校長先生により、「高台への避難」(水平避難)が指示された。校庭への一次避難や点呼も省略し、とにかく迅速に高台にある神社へと避難した。その結果、在校児童と教職員全員が難を逃れた。津波は校舎の屋上よりも5m高いところまで押し寄せ、震災の10日前に完成した体育館も津波に飲み込まれてしまった。

 

 そして語り部の方から、「石巻市立大川小学校」の話が出た。私のブログでも度々書いているが、学校管理下にあったにも関わらず、東日本大震災の津波で全校児童108人中74人、教職員も11人中10人が犠牲となった案件だ。戸倉小とは正反対の案件だが、語り部の人からは「同じ宮城県にある小学校なのに、僕は大川小学校のことは全然知らなかったのです」と話があった。そして、「遺族でもない、部外者の僕が(大川小に)行ってもいいのかと思い、現地(大川小)に足を運べなかった」ということも話していた。

 

 建物の直接の震災被害だけでなく、語り部さんご本人の「思い」を聞けるのが、「語り部バス」の特徴だと思う。私はこれまでに石巻、気仙沼、陸前高田を巡ってきたが、同じ市内であっても、人々の防災意識が大きく異なることを知った。テレビや新聞でで報道される震災関連のできごとも、人によって捉え方が大きく異なるのだと感じた。

 

 そして、前回の記事でも少し書いたが、戸倉小での一件も、「語り部バス」に乗って初めて知ったことだった。先述した「石巻市立大川小学校」の一件は、学校管理下にあったにも関わらず、多くの児童と教職員が亡くなり、その後の対応を巡って裁判にもなったことから、センセーショナルに報道された。しかし、戸倉小をはじめ、在校児童生徒・教職員が全員無事だった「石巻市立門脇小学校」や「陸前高田市立気仙中学校」、「宮城県気仙沼向洋高校」のことは全くといっていいほど報道されていない。犠牲者が出なかったことは喜ぶことではないのか?生きていてはいけないのだろうか?

 テレビや新聞の報道は人の涙を誘いたいのだろうか?だからこそ、大きな被害や犠牲のあった施設や土地のことばかり報道するのだろうか?語弊があるが、「感動の押しつけ」「お涙頂戴」とはこういうことなのだと思う。

 

 震災の話ではないが、闘病もののドラマなどでも、闘病の末に亡くなられた人の話が大きく取り上げられることが多く、「完治」「寛解」した人の話が取り上げられることは少ない。あるブロガーさんから聞いた話では、子宮がんと闘っていたアイドルの女性は、闘病中はテレビや雑誌の取材が多く来ていたそうだが、寛解してからはパタリと途絶えてしまったという。当該ブロガーさんはそのことに対し、「治ったらいけないの?」とブログに書いていた。

 

 

 戸倉小学校の跡地の次に向かったのは、ホテル観洋が所有する民間の震災遺構「ブライダルパレス高野会館」だ。本当はこの記事で書く予定だったが、このまま書くと長くなり過ぎてしまうため、次の記事にて書くことにする。そして、次の「高野会館」でも、語り部さんから、「報道では伝えられない事実」を知ることになる。

 

 それでは次回に続きます!分かりにくい写真と長い文章の記事になってしまいスミマセンでしたm(_ _)m