村八分という言葉も、もはや死語になりつつある。仲間外れを意味する言
葉であるのは知っていても、これが成立した江戸時代において、まさに死
活に繋がる制裁であったことをどれだけの人が承知だろうか。

これは個人の好き嫌いのレベルの問題ではなく、村全体が決定するリンチ
と同様のものであった。特定の家に対して村八分の処置が決定されると、
その瞬間からその家は孤立する。道での挨拶はむろんのこと、村での買い
物さえ許されない。完全な絶縁状態に追いやられてしまうのだ。

ただ、火事と葬式のときばかりは例外として村の住人の扱いをされる。そ
れで、二分だけを除いた絶縁、つまり村八分の言葉が生まれた。

今のように車でどこにでも簡単に出掛けられる時代ではない。農作業の手
伝いもして貰えないとなれば、冗談ではなく、その村でまともに生きてい
かれなくなる。ほとんどの場合、犯罪者を出した家にこの措置が取られた
ようだが、怪しい物を扱う家に対してもおなじ制裁が為された。

いわゆる犬神遣いとかイズナ遣いと呼ばれるものだ。西洋で言うなら魔女
である。日本に魔女狩りの記録は見当たらないけれど、特定の家に対して
犬神遣いだと断じて村八分にするやり方は魔女狩りとおなじことだ。

さほどの証拠もないのに、噂ばかりで制裁を行う点も似ている。いや、西
洋よりもっと悪質と言えよう。西洋では個人に罪が集約されるだけなのに、
犬神遣いの場合の村八分は家族や親戚にまで及び、しかも何代にも亘って
絶縁状態が続けられる。悲惨を通り越して異常としか思えない。

民俗学の研究が盛んになりはじめた頃、この犬神遣いに向けられた村八分
は単なる迷信の産物だと片付けられていたのだが、近年になって意図的な
絶縁であることが分かってきた。犬神遣いとされた家の歴史を丹念に辿っ
てもその証拠は一切出てこない。

そして、たいていの家に共通点が見られる。よその地域から新たに村へ移
り住んだ者か、養蚕や商家を営んで大金持ちになった者なのである。村で
羽振りを利かせている者がほとんどだ。その家にる日、犬神遣いの噂が流
れる。

まともにしていればあれほど金を得ることができない。裏で犬神を操って
人間をたぶらかしているに違いない。ああいう者を身近に近付ければ、い
つしか犬神に取り憑かれてしまう。金持ちへの反発も加わって、この噂は
どんどん浸透する。やがて村八分が決定する。

よほどの大金持ちなら村人との交流がなくなっても構わないだろうが、商
家だと致命的だ。村のだれ一人としてその店から買わなくなる。村の取決
めなのだ。店を畳んで村を出て行くしかない。村人たちの思う壷となる。
目障りな相手を追い出すことに成功したのだ。それが、すなわち犬神遣い
の発生ではないかと考えはじめている。

金持ちを疎外する方法として犬神遣いというものを巧みに利用したのであ
る。悪質な策と思えるが、それ以外に金持ちに対抗する手段がなかった、
とも言える。

この犬神遣いと類似した忌避は全国に多く分布していて、いずれも大地主
やよそから移って来て成功した家がターゲットにされている。ところが、
なぜか東北地方には少ない。

狐遣いの話がごくわずか残されているだけだ。柳田國男は憑き物に関する
迷信は文化程度の低さによるものだと類推しているが、それなら東北にもっ
と多く見られていいはずである。これは一つの謎だ。

しかし、ザシキワラシに六部殺しの痕跡を見付けて氷塊した。ザシキワラ
シなら岩手に広く分布している。

柳田國男がザシキワラシを可愛らしい子供と限定したことによって混乱が
生じたに過ぎない。犬神やイズナ、オサキ、クダ狐といった怪しの物とザ
シキワラシはまったく同質の存在だったのである。



キラキラフミワートキラキラ