こんばんはニコニコ

みなさま、お疲れ様です

今日はお婆ちゃんの命日
29年前の今日亡くなりました
お昼頃だったか
お昼過ぎだったか忘れたけど
そんな時間帯だったと記憶している

この頃
わたしはまだ小学生だったので
死について考えることは
ただ、悲しいってことだけでした

そして、その3日後に
阪神淡路大震災があった。
火葬が終わった翌日だったので
一日ズレていたら
お婆ちゃんは、しばらく
旅立つことが出来なかったのです

わたしたちが住んでたとこも
しばらくの間
インフラは復旧しなかった。

お婆ちゃんは
亡くなる3年前に、乳がんになった。
しこりがあったのを放置してしまい
そこそこ進行してから発見されたので
手術をして胸を切除したけど
その後、転移も見つかり
3年目に亡くなってしまった

お婆ちゃんの闘病中と同じ時期に
オトンが仕事で大火傷を負って
入院していたのもあり
オカンは2人の病院へ通い詰めだった

最後のほうには
オトンもお婆ちゃんと同じ病院に
転院することができ
オカンの負担はほんの少し軽くなった
いつもオカンはしんどそうだったけど
大人になったいまは理解できる
大変なんてものじゃなかったと思う

病院に毎日行くだけでも大変なのに
心理的なことも、とても辛かったと思う
オカンがお婆ちゃんに会いに行く時
エレベーターの中で笑顔を作ってから
病室に向かってたことを
大人になってから知った

オカンが小5の時にお父さんが病死した
だから、わたしは
オカンのお父さんを知らないから
お爺ちゃんって呼べる人が居なかった
オトンのほうの父親は
少し訳ありだったので
ほぼ会うことなく他界した

オカンは父親が亡くなってから
それから母子家庭で育ってきたから
母親に対する想いは
人一倍強かったのではないかと思う
苦労したであろう母親に
親孝行できないまま闘病を支える日常に
オカンは辛かったと言っていた

家にはわたしたち子供3人が居て
学校にも送り出さないといけない
末弟なんて
まだ5歳だったから、手もかかる

お婆ちゃんのことも、オトンのことも
わたしたち3人のことも
何一つ手を抜けない環境は
本当に辛かっただろうと思う

書いてて、いま、ふと思った
そういえば
オカンの兄である伯父
ほとんど姿を現さなかったな
確かに伯父も病弱で
人工透析を受けてはいたけれど
それにしても
伯父も伯母も
ほとんど関与しなかったと思う
オカンがたった1人で戦ってた
今だったら
伯父に一言、物申してしまいそうだ。
そんな伯父も、もう他界している。

わたしは一番上だから
いつも家の用事を任されていた
子供心に
オカンのことが心配だったのと
わたしが頑張ろう!!と意気込んでたのと
それと同時に親が2人とも家に居ないとき
少し不安だったりもして。

そんな小学5年生のときの記憶。

わたしは小さな頃から
お婆ちゃんの家によく1人で行った
歩いてすぐのとこに住んでたから
何かあるたびに行っていた

家でのことを全て報告して
とにかく、お喋りな子供だった
そのたびに、お婆ちゃんが大笑いするから
たくさん話した
親に怒られたら泣きながら行った

けれど、弟とわたしが喧嘩をしたら
いつも、わたしが怒られていた
子供心に理不尽だと思っていたけど
それもまたいい思い出ではある

弟がまだ小さかった頃
お婆ちゃんの入れ歯を欲しがった
「僕もあの歯がほしい」
大人は可笑しくて仕方なかったらしい
弟からしたら
取り外しが可能なことが魅力だったのか

お婆ちゃんと
どこかに行った記憶はない
いつもお婆ちゃんの家の記憶
たまに
わたしの家にお婆ちゃんが来てた

お婆ちゃんと特別な思い出って
ないような気もするけれど
けれど、今でもオカンと話すから
そういう意味では
お婆ちゃんはずっと
わたしたちの中で生きている。
思い出と一緒に、お婆ちゃんが
ずっと気持ちの中にいる。

「わたしたちの中で生きている」
よくそんな台詞を聞くたびに
違和感を持っていた若い頃。
けれど、今となっては
その意味が分かる気がする。

本当に大切なことって
若い頃には気付かないことがある
「若いのに、しっかりしてるね」
って言われたことは多々あった
けど、本質は若さそのもので
分かったフリや、ごまかしがあった
知らないことだらけなのに
知ったかブリをしてるような
背伸びをしているような。

歳を重ねて、経験が増え
自問自答を繰り返す中で
気付かされることが多いことを知る

大切なことは何か??
思い知らされるたび
若かった自分の「しっかりしてた」
なんてものは、いかに
脆かったかということにも気付き
とても恥ずかしく思ったりもした

お婆ちゃんの存在は
小さなわたしには居場所でもあった
今日はいつも以上に
とてもたくさん思い出している


※次に咲きそうです


それでは、また明日ニコニコ