「私はただ運命(さだめ)にしたがって生きただけ」
 
あの世でこう申しているのは、わが国初の総理大臣伊藤博文の妻、梅子さんであります。伊藤博文は明治天皇から「少しつつしんだらどうか」と諫められるほどの女好き。家に芸者を連れ帰り、川の字になって寝た。そんな男の妻になった梅子さん、どんな妻だったか見ていくことにしましょう。


日本初のファーストレディ伊藤梅子


「窮鳥懐に入らば猟師も撃たず、っていうじゃない」

伊藤俊輔(博文)は長州藩士。と言っても足軽の子。でも、維新の志士として、桂小五郎などと共に活発に行動していた。あるとき、対立勢力から命を狙われ、スタコラ逃げ込んだのが亀山八幡宮(下関市)。その境内茶屋でお茶子をしていた17歳の梅子にかくまわれた。命拾いした俊輔。すでに妻がいるのに、美貌の梅子にぞっこん、さっそく手を付けた。その後も何度か会って、関係を続けているうち、彼女身ごもった。当時の女として、これはかなり不利な立場。体面気にする冷酷な武士だったら彼女を亡きものに……という選択肢も。

若き伊藤梅子。伊藤博文ってメンクイだったのか。

「前の奥さんと別れ私を選んでくれた。100%満足よ」

しかし、人の運命ってわからない。この頃、梅子さんの父親がカネに困り、娘を芸者屋に売り飛ばした。梅子さんは小梅の源氏名で芸者見習いに。美貌の持ち主だから売れっ子になるに決まってる。事情を知った伊藤俊輔、さっそく置屋と掛けあって身請けを申し出る。置屋の主人は条件つけた。「あなたのお子を身ごもっている。正式の妻にするというなら……」。俊輔はこの条件あっさり飲んだ。奥さんは離縁。ちょっと残酷だけど、ここまで男の誠意見せつけられれば、梅子さん、女冥利だったのではないでしょうか。


若い時から律儀は律儀な男だったようで……



「夫から女遊び取り上げたら困るのは私だった」

2人が一緒になったのは俊輔25歳、梅子さん18歳のとき。惚れた女房がいれば、しばらくは一筋がふつうですが、俊輔の女好きはビョーキ。酒も飲まず、賭け事もせず、カネにも、地位にも、名誉にも淡白そのもの。国事に奔走するか女と寝てるか、という男ですから、梅子さんは夫の女遊びに関して一切文句を言わなかった。これは賢いやり方。そんな精力絶倫夫の相手していたら、とても身がもたないこと知ってた。セックスは他の女に任せ、浮いた時間を、どんどん出世していく夫にふさわしい妻になるための勉強に費やしたのです。


千円札でお馴染みの伊藤博文。



「夫婦長持ちの秘訣? 良い妻持ったと思わせることね」

かくして夫が総理大臣になる頃の梅子さんは、和歌、英語、ダンスに堪能というスーパーウーマンに。さて、今日も元気な悪妻の皆さん。いまの日本女性は「夫に尽くす」なんていうと、女の敗北みたいに受け取る人多いのでは。考え浅いかも。よく考えてみて。梅子さんのやったことって何? 世の中の最前線で戦う夫の後方支援だけでしょ。それだけで賢夫人の誉れも一生安泰な人生も手に入れ、夫より15年も長生きした。「恋愛が快楽しか対象としないのに対して、結婚は人生を自己の対象とします」(バルザック)。ごっちゃにしないことですね。



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