続き記事ですのでまだの方は最初の『ミコラ・レベド前編 生まれから大戦中』からお読みください。
エアロダイナミック作戦(AERODYNAMIC)
1948年春、CIAは、30種類以上の移民グループを調査し、OUN-UPA(UHVR)を主要なパートナーに選びました。
しかしCIAは、UPAの調査は不正確で、UPAを過大評価し過ぎました。
UPAはバンデラの記事で出てきましたが、ウクライナの森林地帯でソ連にパルチザン活動をしていたOUNの軍事組織です。当初は優勢でしたが1948年にはソ連の諜報員が内部に浸透。また残虐な行動により民衆の支持は急速に失われていきました。
そんなUPAをCIAはこのように評価しました。
『UPAはウクライナの多くの地域で活動し、民衆の支持があり、ソ連との戦争になれば、ソ連の後方に10万人のパルチザンが現れることになる』。
CIA、英、西独、伊の諜報機関は連携し、UPAへ資金・物資の支援と訓練施設を提供、諜報員の訓練を実施します。
そうしてソ連領ウクライナにエージェントを空輸する作戦を行いました。この作戦にはレベドも関わっていました。
しかし、ソ連諜報機関は完全に西側の動きを把握していました。
CIAがソ連支配地域に投入した85人のエージェントのうち、約4分の3がほぼ即座に捕らえられ、その場で拷問または殺害されました。中には捕まり、転向し、ラジオ通信で欧米に偽情報を発信した諜報員もいました。西側は、ソ連が作ったダミー組織に資金援助して、金をだまし取られたりしました。
惨憺たる結果になった作戦原因は、CIAがUPAが既にソ連諜報部によって壊滅寸前だったのを理解していなかったからです。
CIAが公開したAERODYNAMICの文章。
プロローグ社
エアロダイナミック作戦の大失敗により、CIAとZP/UHVRは直接的なゲリラ戦を諦めます。代わりに宣伝と接触作戦に切り替えました。
レベドら民族主義者達は武装蜂起を諦めて、平和的な路線に切り替わることを余儀なくされました。
1953年、ニューヨーク市マンハッタンに『プロローグ社』が設立されました。表向きは「西洋で権威あるウクライナ関連の出版社」ですが、その実態は、CIAに支援されたウクライナ民族主義者達の会社でした。他の活動が縮小するなか、プロローグはZP/UHVRの代名詞となっていきます。(UHVR本体は、逮捕や殺害により壊滅状態になっていました)プロローグの社長に、アメリカの市民権を得たミコラ・レベドが就任します。
プロローグは、西洋の自由・人権の素晴らしさ、ウクライナ民族主義の良さ、ソ連の共産主義の悪辣さをラジオや様々な出版物を通じて、ソ連国内、ウクライナに向けて発信していきます。
プロローグが出版したものの例をあげると(1960年代から1980年代のもの)
- 自由世界におけるウクライナの人権擁護とソ連反体制運動の権威ある声『定期刊行物スチャズニスト』
- ウクライナ蜂起軍(UPA)の戦いを著者の経験に基づいて書いた小説『安息の秋』
- 1972年のウクライナ反体制派裁判に関する『サミズダート文書集』
- 『ポグロム・イン・ウクライナ』
- ミコラ・レベドの『UPAの歴史』
出版物ではロシア人・ユダヤ人・ポーランド人、時には穏健派ウクライナ人を虐殺してきたOUN-UPAの歴史は、ホワイトウォッシュされ、UPAがウクライナ国内の少数民族、特にユダヤ人を守り戦ったとまで書かれていました。これは終戦後からレベドがやってきたことです。
今日、ウクライナから発信されている歴史は、このレベド達が長年発信した情報が元になっています。それに基づけば、ウクライナ民族主義者達は、偉大で勇敢にも悪のナチス・ソ連とも戦い。民衆に指示され、悪いことは一切行わない、輝かしい英雄達なのです。
『もしウクライナ独立の英雄達が非道なことをしていたという情報があるなら、そららはすべてソ連(ロシア)のプロパガンダである』と言うのが彼らの主張です。
プロローグの定期刊行物「スチャズニスト」。
赤軍パルチザンをテーマにした表紙のプロローグ書籍。
「プロローグ」編集者達
左から右へ - ミコラ・レベド、Yuriy Shevelyov、Myroslav Prokop、不明、Nina Ilnytska。
上の画像2点の出典:Ще одна книжка "Прологу" з обкладинкою типу про радянських партизанів
配布
当然、これらの出版物はソ連内では禁止されます。
これらの”ブツ”は、ウクライナ人に同情的なハンガリー、ユーゴスラビアの協力者がウクライナに持ち込みました。1959年以降、西側への旅行が許されるソ連市民が増えるにつれ、プロローグは流通が増していきます。
こうして、プロローグは、ソ連国内へウクライナ民族主義への肯定的な態度を増加させると共に、ソ連反体制派とのネットワークを構築しました。
1960年代にプロローグが入手した情報は、詩人や反体制派のデータから、ウクライナ西部のミサイルや軍用機の位置まで多岐にわたっていました。1970年代初頭までに、あるCIA高官によれば、プロローグは「ソ連ウクライナの人口4000万人に対するCIAの活動手段」となっていました。
ミコラ・レベドによるオーストラリア「GPアワー」への訪問。スルタン・ナザルバエフ氏とオーストラリアOUN代表団メンバー。 ©ピドゴーロデツキー (メルボルン、1960年)
ソ連の対抗策
1970年代からソ連当局も知恵を絞り始め、ソ連国内の反体制派の大量検挙や、検閲を強化します。KGBの検閲をかいくぐるため、CIAは、『健全なタイトルで、本の中心に禁制文章が記載されている本』などを発明します。
出版物以外にもUPAの歌が入ったオーディオ・カセット、Tシャツ、ステッカーなど様々な分野へと拡大しました。
今日、アゾフやウクライナ政府が世界的広告宣伝が上手いのは、こうした長年の経験と、西側とのコネクションがあったわけです。
拡大
1977年、カーター大統領の国家安全保障顧問であるズビグネフ・ブレジンスキーは、これらのCIA作戦を高く評価します。そのため、ウクライナだけではなくソ連の周辺国へ拡大されます。作戦名も『PDダイナミック』へ、さらに『QRダイナミック』へと変化していきます。
QRダイナミックで活動の中心は、『ニューヨーク=ミュンヘン』から、『ロンドン=パリ=東京』へと拡大しました。
東京事務所を中心に、中国、チェコスロバキア、ポーランド、エストニア、リトアニア、ラトビア、ユーゴスラビア、アフガニスタン、ソ連中央アジア、ソ連太平洋海洋地域、ウクライナ・カナダ人などに活動を拡大した。
著名なジャーナリスト工作員に記事の代金を支払っていた。これらのジャーナリストは、スウェーデン、スイス、オーストラリア、イスラエル、オーストリアにいました。
また、ジョージ・ソロスがスポンサーとなるロシア人権団体の工作員と連携しました。
『ミコラ・レベド後編 冷戦崩壊』につづく。