これからは現代ウクライナに繋がっていく、ウクライナ・民族主義(ナショナリズム)を3人の男を中心として書いていきます。
一人目は、イェベン・コノバレッツ。彼こそがウクライナ民族主義の源流で、非常に人望がありバランスの取れた男でした。
二人目は、ステパン・バンデラ。コノバレッツより20歳年下で、現代のウクライナ民族主義者最大の英雄であり、一方で多くの虐殺に関わったとされる評価が別れる男です。怒りの化身のような人物です。
三人目は、ミコラ・レベド。バンデラと同じ歳に生まれたこの男は、テロ組織の秘密警察長官として激動の時代をくぐり抜け、冷戦期にCIAの下でプロパガンダ作戦を行い、米国で天寿を全うしました。
ウクライナ民族主義がどう変化し、最終的にはCIAによって変節していったのか見ていきましょう。
イェベン・コノバレッツ
最初の男は、イェベン・コノバレッツ(日本語読みがまだ確立されていないようで読み方が色々あります。イェブヘン、イェヘン・コノヴァレッツ、イェヴヘーン・コノヴァーレツィ。宇Євген Коновалець、英Yevhen Konovalets)
彼は、現代ウクライナの民族主義者を代表する英雄の一人です。
2021年に発行された記念コイン。
出典:2 Hryvni (Yevhen Konovalets) - Ukraine – Numista
幼少期
イェベン・コノバレッツは1891年6月14日、リヴィウ近郊のザシキウ村(Зашків)(現在はリヴィウ州ザシキウ地区)に生まれました。
- 祖父ミハイロは、ギリシャ・カトリック教会のザシキウ村教区司祭として長年務めていました。
- 父ミハイロは、地元の学校の校長。
- 母マリアは、聖職者の家系の出。
- 叔父二人も司祭で、コノバレッツに大変影響を与えました。
つまりコノバレッツは、ウクライナ人の知的階級出身でした。
ガリツィア地方
(文字引用者)出典:Historical maps around Ukraine
ここでコノバレッツの生まれたガリツィア地方について説明します。
ガリツィアは、古く10世紀は『ルーシ』の一部でしたが、その後タタールの侵攻後に、ポーランドに支配されました。その支配は400年以上続きました。
1772年、最初のボーランド分割により、1772年からはオーストリア・ハンガリー領になりました。オーストリア支配で100年以上経過し、ポーランド人優位は変わらなかったものの、ロシア帝国支配下の東部ウクライナに比べれてば、ウクライナ人への教育や権利は守られ、ウクライナ人の民族意識が盛り上がった。またオーストリアは、聖職者の教育に力を注ぎ、教育階級のほとんどを聖職者が占め、聖職者がウクライナの知的階級と政治を形成していきます。コノバレッツはまさにそのような家の出でした。
それでも地主・領主達のポーランド人が支配層、その下に商人ユダヤ人、農村中心のウクライナ人が一番下の階層でした。ポーランド人とウクライナ人の対立はガリツィアの日常でした。
ガリツィア地方の比率
- ポーランド人25%(都市中心、地主)
- ユダヤ人12%(都市中心、商人など)
- ウクライナ人60%(農村中心、貧しい)
このガリツィア地域は、ロシア(ソ連を含む)には1939年まで一度も占領されなかったという点で他のウクライナ地域と異なります。こうした歴史背景から、ガリツィア地方は、”自称”ウクライナ文明の中心地、ウクライナ民族主義の中心地として、他のウクライナ地域とは違う意識を持つようになりました。民族主義者達は大抵このガリツィア出身、これから取り上げる3人の男もいずれもガリツィア出身です。(今だからこそ知っておきたいウクライナのすべて | 【翻訳商社】ノーヴァネクサス)(ウクライナ人民共和国 - Wikipedia)
コノバレッツの学生時代
コノバレッツは、故郷の村に3年制民俗学校と4年制神学校で初等教育を修了。コノバレットはこの時代、二人の叔父、ヴォロディミール神父と、オレスト神父から大きな影響を受けました。
1901年から1909年、ガリツィア州都リヴィウで中等教育(日本の中高一貫教育に相当)に通います。
1905年、中等教育時代のコノバレッツ。
出典:Євген Коновалець у революційну добу 1917—1921
コノバレッツの学生時代は、1902年の農民ストライキ、ウクライナ学生デモによるポーランド人との衝突、1908年学生によるガリシア州知事を暗殺など、ポーランド人とウクライナ人の対立が深まっていた時期でした。
知的階級出身で、使命感に燃えるコノバレッツは、中等教育時代、彼は繰り返し仲間にこう言っていた。
「ウクライナ人は、(ポーランドによる)捕囚によって奪われたものを手に入れるべく、できる限りの知識を身に付け、良い学生であろうと努めよう。」コノバレットの政治への関心は高く、学生運動の秘密サークルに参加した。彼の成績はトップクラスで、周りには仲間達が集まり、そして彼は民族主義者でした。
1909年、リヴィウ大学法学部を経て、ウィーン大学へ留学。途中、1912年の1年間のオーストリア軍の兵役召集を中尉として過ごした後、1914年に大学を卒業します。大学ではウクライナ史の全課程を修了しました。
この時代コノバレッツは、ガリツィア、ウクライナでも流行していたマルクス主義には興味を示さず、代わりにナショナリズムに傾倒し、ウクライナ学生運動の指導者として活躍します。愛国紙「ヤング・ウクライナ」やその他の出版物に記事を書いたりします。また当時の大学はポーランド人が運営していたために、リヴァウにウクライナの大学を開設する闘争を行い、短期間逮捕されました。
1910年代、法学部時代のコノバレッツ。
出典:Євген Коновалець у революційну добу 1917—1921
近代ウクライナ
1914年にサラエボでオーストリア皇太子夫妻が暗殺されたことをきっかけに第一次世界大戦が勃発します。
9月2日、コノヴァレッツはオーストリア軍に動員されます。
第一次大戦についてはここでは触れません。
出典:中学受験:第一次世界大戦を単純フローで分かりやすく | かるび勉強部屋
翌1915年6月、彼は戦闘中にロシア軍に捕らえられ、以後2年ほどロシアの収容所で過ごすことになった。この捕虜時代には、ウクライナ捕虜同士で宣伝活動と組織作りに励みます。
同じ捕虜収容所にいた盟友アンドリー・メルニク(メルニクとコノバレッツは、ウクライナ人を弁護する弁護士の娘二人それぞれと結婚する予定であった)は、コノバレッツをこう語っている。
「言語と人間関係の知識、人々への巧みで平等なアプローチ、仲間の患者に対する友好的な態度により、彼は収容所長の同情と収容所の囚人全員の信頼と尊敬を短期間で得ました。コノヴァレッツは収容所の人々のスポークスマンとなり、軍司令官のオフィスやツァリツィン(訳注:収容所のあった場所)の他の機関のすべての事例において、考えられるあらゆる問題に介入した。」(Євген Коновалець у революційну добу 1917—1921)
1916~1917年の捕虜時代のコノバレッツ。
出典:Євген Коновалець у революційну добу 1917—1921
『イェベン・コノバレッツ中編』につづく。