自分の思い通りのままに、「自己(self)」をimpression(表現)することができたならば、それは「完璧な自己開示」なのだから、それこそ、友人がたくさんできたり、親密な関係を結ぶことのできる友人やパートナー、家族が増えていくということにつながる...という見方も、一方ではある...とは思っている。しかしながら、自己(self)をimpression(表現)していくということは、同時に、「(myselfを)知っている人たち」を増やしていくということに他ならない作業・行動(activity)でもあるので、それだけ、「自分の意見・主張」を「説得(persuade)」し、「納得(convince)」してもらう必要性が生じる母集団が大きくなってしまう...ということにもつながってくると思う。もちろん、そのことそれ自体については、たぶん、良いことでも、悪いことでもないのだろうが、言ってしまえば、「発言の自由度(freedom of opinion theory)」のようなものが、どこかlimit(制限)されてしまうかのようなsense(感覚)を同時に持ち合わせることになるとも言えることだろう。そもそも、ビジネス書や自己啓発書においても、「何」を書いたか、「何」を言ったのか?よりも、「誰」が書いたか、「誰」が言ったのか?のほうが、より重要性が増してくる。人というのは、「何を言ったか」ではなく、「誰が言ったか」によって、その意見を取り入れるか否かが、大きく分かれてくる...といった脈絡が書かれていた。したがって、英語で言えば、whatよりもwhoが優先される...ということになるのだが、このことは、選挙戦のような一種の一方向的なビジネスライクな関係性で成立しうる関係性などをのぞき、より、その真価を発揮するのは、あくまでも「プライベートな時間」・「プライベートな関係」の上においてである...ということができることだろう。
ただ、実際には、実際問題として、この「自己開示」をするための前提条件として、「ある一定以上の"信用"」が求められてくるため、それまでの期間(積極的な自己開示をするまでの期間)は、あくまでも、自分自身の「可能性」を探し求めに行く旅に出つつも、スキルを身につけるなどの「自分磨き」をしていく...いわば、internal feel and understand myself(自分自身の内面により意識を集中する状態を保つこと)に、多くの人たちは、時間を費やしていくことになることだろう。いわば、そのためのツールの一つとして、カラオケや漫画・アニメなどの娯楽と呼ばれるものや、英会話や将棋、楽器演奏などの趣味と呼ばれるものがexist(存在)していると言うこともできるだろう。
そして、学生時代や社会人経験を経て、いわゆる身近な人間関係が構築されることになるのだけれども、自分自身の「発言」を、ただ単に「面白おかしく、面白がって聴いている」だけの状態の人と、親密な関係を結んでしまうと、そこには、経験上、何らかのリスクが伴うような気がしてならない。もちろん、若いころは、そのような関係性は関係性で、それはそれでありだな...とも思っていたし、自分自身が、その人たちとの関係性があったことで、ここまで苦労させられてなければ、「そのような関係性は、関係性でありだな」で、終わっていたのだけれども、今現在の僕は、僕自身に対して、そのように説得することは、絶対に不可能になってしまった...と言わざるを得ない。