今回は、聖書について書かせていただきたいと思う。

 

キリスト教徒でない私が、聖書から学んだ内容を書かせていただく理由は、天心聖教の神様は、かつてイエスを遣わされた神様でいらっしゃるからである。

 

かつてイエスを遣わされた神様

 

昭和10年1月18日に、神様が初代様にご降臨されて約10年後、神様は、

「我はかつてイエスを遣わした神である」

との御神示を初代様に下された。
そして、

「キリスト教を父とし、その方(ほう)の教えを母として世界を救われよ」

と初代様に御命令あそばされたのである。

この、

「キリスト教を父とし、その方の教えを母として」

という意味を、第二世教主 島田晴行先生は、「父は教えにして母は愛なり」と説かれた。


厳粛なる神様の教えを、キリスト教の聖書(旧約聖書・新約聖書)から学び、そして初代様を通して神様が御現しになられた、深き御慈愛と偉大な御救いに浴して救われよ、という意味である。

 

神様に対する人間の本当のあり方を学ぶ

 

そしてさらに、島田晴行先生は、次のように説かれた。


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このような聖書の中から何を学べるか、と申しますと、真の宗教と真の信仰のあり方です。

では何故それを学ばねばならないかと申しますと、本教の信仰者は長くて十五年間位の信仰です。その間の体験の信仰にプラスして、過去に於ける神様と人間との交わりの歴史をふりかえり、そこから神様に対する人間の本当のあり方を学べということなのです。
何故そうしなくてはならないかと申しますと、信仰とはまず神様に対する人間のあり方から出発するものだからです。
従って本当の信仰者となり得るには、天地創造の由来から今日現在までの一貫した神と人との関係を学ばずしては到底なり得るものではないのです。
このような意味で本教信仰者が聖書を学ぶということは、その信仰を真実にみのらせる為に、大変大切なことであります。

(導きの書「信仰とは何か」より)

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と説かれていらっしゃる。

 

現在は、天心聖教開教後約70年経ったが、この当時は15年しか経っていなかった。


島田晴行先生がこのように説かれていらっしゃることを知り、私も聖書を読むようになった。

ただそのときは、聞き慣れない言葉が多く難しかったため、旧約聖書の「天地創造」や「出エジプト記」、また新約聖書の「マタイによる福音書」の、有名な箇所だけを読むにとどまっていた。

 

しかし何年か前に、先ほどの島田晴行先生のお諭しを、再び読んだことをきっかけに、聖書を詳しく読むようになった。

 

すると、島田晴行先生が説かれた
「本当の信仰者となり得るには、天地創造の由来から今日現在までの一貫した神と人との関係を学ばずしては到底なり得るものではないのです。
このような意味で本教信仰者が聖書を学ぶということは、その信仰を真実にみのらせる為に、大変大切なことであります。」

というお諭しの意味が、よく理解できたのである。

 

「創造主の神様とはどのような御方でいらっしゃるのか」
「神様と人間はどのような関係にあるのか」
そのことを、神様と人間との長い歴史が記された聖書は我々に教えてくれる。


そして神様が人間に求められる信仰は、何千年経った今も変わらないことを、あらためて知ることができた。
 

解釈が難しい聖書の記述

 

しかし、聖書の記述の中には、解釈が難しい箇所もある。

その一つが、異民族に対する「聖絶」である。

聖絶とは、一人残らず滅ぼし尽くすことだ。

 

天心聖教の初代様は、「神様は戦争は大嫌いである」と説かれていらっしゃる。

しかし旧約聖書には、神様の御命令による戦いの記述がいくつもあるのだ。

特にイスラエルの民が、約束の地カナンに入るときに、神様はモーセに、先住民族を「聖絶」するように御命じになられたのである。

 

私は天心聖教徒なので、聖書の教えと、初代様の教えに違いがあれば、初代様の教えがもちろん優先される。

したがって聖書に何が書かれてあろうとも、私が迷うことはないが、キリスト教会に通う人の中には、旧約聖書の「聖絶」の記述が受け入れられないために、洗礼を受けない人もいると聞いたことがある。

 

一般的な道徳観念をもって、この「聖絶」を解釈することは難しい。

しかし、聖書をしっかりと読もうとすれば、「聖絶」の箇所を避けて読み進めることはできない。

 

そこで次回は、聖書に記された「聖絶」について、信仰的に考えてみたいと思う。