青雲譜69「青雲荘の仲間たち」Z

「京都の夜」2

2次会は、居酒屋だ!

当然ながら、京都の夜は、やっぱり混雑していた。

「ええっ!掘り炬燵みたいな長テーブルに20数名、座れるんだって?」

『よくまぁ、確保できたもんだ!』

『坂西君!君の力は、本当に大したもんだなあ!感心、感心!』

熱気ムン、ムンの“ごったがい”状態でも、大平君や卒業以来はじめて会った門馬君たちとの会話は弾んでいた。

それにしても『不思議だなぁ?』

『雑踏なのに、言葉がよく聞き取れるんだよな?』

多分に、関西弁や京都弁だらけの中で、6年間つちかわれた秋田弁なまりが、妙に浮き上がり響きわたっていたのかもしれない!!

「実は、京都の大徳寺がさあ、うちの菩提寺なんだよ!それで、親父の納骨を兼ねてさ、今回、同級会に出席した訳なんだよ!」

「へえー、大徳寺が菩提寺なんだ!さすがに関西の名家!出自の違いを感じるな!」

「確か、門馬の親父さんは、大学の教授だったんだよな!急に亡くなったの?」

「ううん!亡くなったのは、かなり前なんだけど、なかなか納骨できないでいたのさ!それで!」

「そうか!僕も両親亡くしているしなぁ!もう、みんな、そういう歳になったんだね!」

「そうだね!実に、時の流れは、速いもんだ!」

「光陰矢の如し!貝原益軒は“養生訓”の中で、老後の月日の流れは、若き日の十倍なり!と言ってるしね!」

「だから、一日を十日とし、十日を百日とし、一月(ひとつき)を一年とし、時日(ときひ)を惜しみ、一日(ひとひ)たりとも、いたずらに過すべからず!と、書いてるね!」

「うん!ん!」

「そう言えば、40年ぶりくらいにさぁ!みんなにこうして会ってみると、なおさら大池君に会えないことがさぁ、僕には残念に思えてしょうがないんだよ!」

「そうだね!あの徹マン・アトムになぁ!」

「沖田は、大学の後半、結構親しく付き合っていたんだろう!」

「うん!きっかけは、麻雀メンツだったな!」

「徹マン・アトムのとおり、体力勝負でネ!朝方になると、やたら強かったな!」

「麻雀が腐れ縁さぁ!」

「それからはね!いつも、僕の車で送り迎え!麻雀も、授業も、病院実習もネ!」

「ポマードつけて、頭は決めていたけどネ、超真面目のいい奴だったんだ!」

「でもね、門馬君のような“都会人”でないところがさぁ、実は欠点だったかもネ!」

「融通が利かなくてさ、何でも一人で頑張ればさぁ、できるもんだと思い込んでしまってるところだよ!」

「田舎もんは、単独突破型が多いからネ!」

「実際ところ、僕も、このタイプだったんだなぁ!」

「でも、俺はネ、三吉アパートや青雲荘に来て、いっぱい揉まれたから良かったんだよ!」

「特に、芹沢さんにね!」

「勉強ばかりしてるな!って、邪魔されるんだよ!」

「風呂に行くぞ!喫茶店に行くぞ!呑みに行くぞ!サウナに行くぞ!ってね!」

「ところが、違う日もあったんだよ!今日は、グループ学習に参加するぞって!沖田は、一人で勉強してるから、グループ学習してる優秀な奴ら知らないだろう!って!」

「参加してみたら、確かにみんな優秀だったな!教室で見る姿とは違ってたんだ!」

「芹沢さんの口癖になるけど、「効率の一番いい学習法とは、耳学問だ!」・・これ、正しいと思うな!特に、医学部ではね!」

「それで、三吉アパート、青雲荘でもね、授業はさぼってばかりいたけどさぁ!誰かがコピーしてきた情報は、三人寄れば文殊の知恵で、できるだけ共同で解釈するよう努めてきたんだ!特に秋原君とはね!それが、僕らなりのグループ学習法だったんだ!」

「大池君にも、一緒にグループ学習しよう!って、誘ったんだけど、一人でやるからいいって断られてしまってたなあ!」

「医療や学習は、結局のところは一人でやるべきもんなんだけど、実社会においてはさぁ!仲間との付き合い方とか、周りの人たちとも、うまくやっていく術(すべ)とか言ったものも大切になってくるんだよね!」

「大池は、そういうのが苦手みたいだったなぁ!きっと、真面目さが、災いしてたと思うよ!」

「卒業してからは、山形の新庄総合病院に勤めていたようだけど、一人ぼっちできつかったのかなー?実際、外様って言うのはネ、ホントきついよ!」

「門馬君や大平君みたいに、大学に残った人はさぁ、それはそれなりに大変さはあったろうけど、一般病院とか他の大学の医局へ出ての外様って言うはさぁ、それは、それは、途轍もなくきついもんだよ!」

「一人ぼっちで、無視されて、ましてや秋田出身なんてアホ扱いさ!」

「でも、仕方ないな!本当に恥ずかしいくらい無知なんだから!」

「開き直るしかなかったよ!僕は!」

「大池君も、きっと、大変だったと思うな!」

「どんなにバカにされてもさぁ、“負けるもんか!”って、胸に秘めながらさぁ!俺は、愛想笑い浮かべながら馴染んでいこうと努めていたけどネ!大池君には難しかったのかな?」

「“徹マン・アトム”だったから?」

「そう、ガリガリの単独突破型だったからね!」

「今だったらなぁ!スマートフォンのラインなんかを使って、もっと気楽に話も出来て、相談にものれたと思うんだけどなぁ?」

「僕が、仙台の第1外科に入局した時だから、そう卒後3年目だったはずだよ!」

「仙台はさぁ、伝統があって、“しきたり”が厳しく、新米医局員にとってはさぁ、“超”がつくほど忙しいところなんだ!」

「4人部屋を持たされてさぁ、入院登録名簿は、“墨汁の筆書き記帳”なんだぜ!」

「カルテ作成、指示簿記入、手術所見記載、標本作成、検査結果整理、術後病態チェック、術後処置、勿論Opeでは“鈎引き”!終わっただけで、ヘロヘロ状態さ!・・・その他に、早朝での野球の特訓だぜ!もう、“くたくた”だったよ!」

「慣れない仙台での医局生活!自分のことで、もうアップアップの状態だったんだ!」

「だから、今、大池君のこと思うと、本当にラインがあったら良かったなぁと思うよ!だって、電話では、どんな風に言葉をかけたら良いか戸惑うし、手紙では、重たすぎるだろう!」

「こんな中、突然、山形の米沢で小児科クリニックを継いでいた早山君から電話が来たんだよ!」

「「沖田!実はなぁ、大池がさぁ、自らの命、絶ってしまったんだよ!」って!」

「えっ?な、なんだって?・・・俺、何も言葉が出なかったなぁ!」

「「俺は同じ山形県人だし、告別式に出るけど、沖田!お前、卒業のころ一番親しかったんだろう!出席するんだったら一緒に行こうよ!」って、早山君に誘われたんだ!」

「山形の左沢線(あてらざわせん)!・・これはさぁ、北山形駅から大江町を結ぶ鉄道で、一面がサクランボ畑なのでフルーツラインと呼ばれているんだ。」

「確か、寒河江(さがえ)という町で、下車したな!一面銀世界で、途轍もなく雪が多かったよ!」

「駅からは、下屋(げや)が、アーケードのように連なっており、雪のない歩道が確保されていたけど、周りには、2,3メートル、雪、積もってたなぁ!」

「告別式は、大きなお寺でさぁ、古刹として有名な?・・・慈恩寺だったのかなぁ?朱色に染まった太い柱ばかりが、やたら目に浮かんでくるんだよね!」

「葬式はね、あんまり記憶に残ってないんだけど、友人の弔辞だけは、はっきり残っているよ!」

「大池君は、幼い頃から、頭が良くて、成績はクラスでいつも1番でした!将来の夢は、大きくなったら、みんなの役に立つような立派なお医者さんになることです!って、いつも言っていたのに、こんなに早く亡くなってしまうなんて・・とても残念でなりません!って!」

「あの大池君がさぁ!寒河江で、神童だったんだよ!」

「俺さぁ、泣けて、泣けてさぁ!・・・涙、ボロボロでさぁ!」

「俺の気持ち、・・・わかる?・・・俺たちの知ってる大池君がだよ!」

「あいつはさぁ、子供の頃“できすぎ君”だったんだよ!一目置かれる“憧れ君”だったんだよ!・・・?」

すると、突然、離れた席から、罵声が!

「みんな神童なんだよ!自分ばかり“できる!”と、思ってんじゃねーよ!みんな、地元じゃ“できてたんだよ!”」

「えっ?・・・何?」

「俺は、俺は、お前らの思っているような気持ちで言ってんじゃねーよ!」

「大学での付き合いだけでは、その人物については、何も知らないんだ!って、言ってんだよ!」

「何でもかんでも知りつくしているような“ふり”してんじゃねーよ!・・・くそー!」

「俺はね、馬鹿になんか全然してないよ!自分と同じだ!って、言ってるんだ!」

「俺だって、小さい頃からずーッと、医者になりたいって言ってきたんだ!」

「まあ、まあ、沖田!気にするな!」

「“揚げ足”を取ってるだけだから!」

「くそー!こっちの話に、聞き耳立ててんじゃねーよ!まったく!」

「山の頂上から見る眺望(ながめ)は、登った人にしかわからないんだ!登ったこともないのに、登ったふりして野次ってんじゃねーよ!むかつくなー!」

「俺はね、告別式に出席して、現地の人の生の声を聴いて、大池君も自分となんら変わらない人生を送ってきていたんだなって!身をもって感じたんだよ!そう言ってんだよ!」

「まぁ、まぁ、気にするなよ!あんなの無視!無視!」

「大池はネ、実は、俺なんだよ!俺の心と大池の心は、同じだったんだよ!」

「俺は、いつだって、自分の命を大切に思って生きてきたよ!」

「なら、大池だって、自分の命は、大切に思えていたはずだろう!」

「なのに、どうして、あいつはさぁ・・・?」

「くそー!」

「一体、何だったんだろうネ?あいつの方からは、何にも言ってこなかったし!俺は俺で、何にも気づかないでいたなんて!」

「だから、今でもすごく悔やんでいるのさ!どうして、手を差し伸ばしてやれなかったんだって!」

「実際、まったく予期していなかったんだよ!」

「「おう!大池!元気?」って、いつでも言えるはずだって、軽ーく、考えていたよ!」

「言い訳になるけど、外科医としてのスタートが1年遅れて始まり、研修歴も1年足らないというハンデを持ったまま医局で生活して行く自分には、大池君のことを気にする精神的余裕が、全くなかったというのが現実だったんだ!」

「うん!うん!わかる気がするよ!沖田の今の気持ち!」

「ちょっと、意味合いが違うかもしれないけど、裕福な欧米人の貧しい人を憐れむようなチャリテイー精神と違い、同じ貧しき者が、“なけなし”のお金をチャリテイーする気持ちに近い!って、言いたいんだよね!裕福な欧米人の高慢な見せかけだけの同情心と一緒にするなって!ネ!」

「そう!みんな“おんなじ”なんだって思えてこそ、本当の、本物の“思いやり”と言う”情”が生まれるんだって言いたいんだよ!」

「なのに、あいつらはさぁ、カッコばかりつけて、いい子ぶってさぁ!まったく!」

・・・・

・・・・

「よーし、じゃぁ、沖田君!気分変えてさぁ!学生の頃に戻って、久しぶりに、歌でも歌ってみない!」

「ええッ?・・・大平君!・・君はさぁ、歌、うまいけどさぁ!俺、音痴なんだぞ!」

「そんなことないって!気持ちが込もっていれば、みんな、いい歌なんだよ!」

「そうかなぁ?・・・」

「・・・・じゃぁ、大池君の気持ちも込めて、「酒よ!」でもやってみようか!」

かくして、京都の同級会の夜は、40数年ぶりに舜司の調子外れの「酒よ!」という歌で、“締め”とあいなったのである。

 

 

追伸

老健施設で入居者の方々と歌を歌うことが多い今日この頃!

海援隊の「贈る言葉」を練習して歌おうと思いました。

歌詞の途中、

“さよならだけでは、さびしすぎるから 愛するあなたへ 贈る言葉!”

突然、涙がこみ上げてきました!

京都、札幌、東京と3回の同級会に参加しましたが、解散時、路上で、芹沢さんも、坂西君も、一言だけ言い残して、いとも簡単に消え去ってしまったからです。

「じゃあ、な!」

舜司にとっては、“さびしすぎました!”

京都で、札幌で、東京で、「コツ、コツ」と自分の靴音だけが響き渡り、切なさが一気にこみ上げてきて、むせび泣いてしまったことを思い出します。

札幌の芹沢さん!

京都の坂西君!

大都会に住んでいるんだから、「こっちに来る機会があったら、その時は、連絡しろよ!」

これくらいは、言ってほしかったなぁ~!

田舎に住んでいる舜司には言えぬ言葉です。

あ~あ!舜司はいつまでたっても、甘えん坊です。