青雲譜34「注文の多い学生アパート」P

「僕の脚は、凧の足」2

母親は、96歳と長生きした。

90歳の時、卒寿!兄弟、姉妹、みんなで、カラオケ大会をして祝った!

東日本大震災の時は、母親と二人、病院裏の宿舎の部屋で、雑談をしていた。

本棚は倒れ、棚の上のスピーカーは、落下。

部屋の中央で、ソファーに座っていた母親を、身を挺して守った。

この後は、原発事故も発生してしまい、1か月以上は部屋を出ることも出来なくなった。

母親は、足腰も弱り、認知症も見られるようになっていた。

それ故、舜司は、自分の介護施設で預かるように手配した。

数年は良かった。

しかし、ある晩、グループホームのトイレで転倒。

右大腿骨頸部骨折。

白河の総合病院で手術。

術後は、病院の指示通り、完全介護なので付き添えない。

自分が在籍していた病院なので、忖度してしまったのがいけなかった。

今、思えば、すぐに自分の老健施設に引き取ればよかった。

一か月、退院の指示が出るまで置いてしまったのだ。

認知症は、入院中、急激に進行していった。

父親の時と同じ過ちを犯してしまった。

傍に、ついていてやれば良かったのだ!

後悔ばかりである。

高齢者に対する術後の完全介護は、悪しき制度である。

1日に、看護師とのふれ合いは数回しかなく、夜間は全くの孤独!

認知症にならない方が、珍しい現象なのである。

退院後、老健のリハビリスタッフと、必死に起立歩行訓練に取り組んではみたが、失敗に終わった。

母親は楽な方ばかり選んでしまうのである。

全く、歩こうとはしなかった。

車いすに座っていれば、至れり尽くせり、致し方無かったようである。

 

老健施設に来てからも、認知症は?と言えば、残念ながら、進行するばかりであった。

話す内容は、母親の実家のことばかり!

自分の妹と、自分の両親の心配!そして、「踏瀬の家はどうなっている?」「田圃は、どう?」「畑は、どう?」・・・実家の生計の心配なのである。

 

唯一、子供の話となれば、長男舜一くらい。

残念ながら、父親のことも、他の子どものことも、ほとんど会話には出てこなかった。

「母さん!俺わかるの?」

「わかるに決まってるだろう!」

「舜司だよ!何だろね?この子は?」

「母さん!小さい頃さ、鶏が、イタチに食べられて、血を吸われちゃったじゃない!それでさ、俺!頑丈な鶏小屋を作ったんだけど、イタチは利口でさ、地面に穴を掘って入っちゃうんだよね!悔しかったな!覚えてる?」

「そう、そう!舜一は気が弱くてね!血を見ると真っ青になって倒れちゃうんだよ!」

「あの子は、本当に優しい子だネ!鶏やウサギが、イタチや犬に食われたのを見たら、可哀そうだから、もう、生き物は飼わないって、泣いちゃってネ!ほんとに優しい子なんだよネ!」

舜司は、悲しかった!

防御対策を講じて、あれこれ苦労した話をしようとしたのだが、母親から出て来るのは、長男舜一の話だけだった。

親というものは、差別しているわけではないのだろうが、長男と末っ子のことだけは、一番記憶しているようである。

残りの子供の記憶となれば、付録であって、金魚の糞的存在であったようである。

だからこそ、真ん中の子供たちは、ことさら親へ対する恋慕の情が強いのだろう!

思えば、戦争時代においても、国からして差をつけていたはずである。次男、三男坊に、率先して赤紙を配り、戦地に向かわせたはずである。

舜司は、ねっからの反体制派であった。

“思想的に”ではなく、“心情的に”である。

幼少のころから、学校の先生たちの依怙贔屓に反発、叔母さんたちの理屈に合わない話にも反発、親同士の世間話にも、理不尽なことを感じ取ると、すぐに、口をはさんだ。

実に、こましゃくれた子供であったのだ!

舜司は、両親への思いは強かったが、ことさら、べたべたした親孝行の定番じみた対応は取らなかった。

母親の認知症は、ますます進み、食の細さから、胃瘻造設までしたが、体力の回復は望めなかった。

会話も少なくなり、恍惚の人そのものになって行った。

呼びかけても、眼は遠くを見ており、反応がなかった。

もう、遠い人になっていたのだ!

寝たきりの植物人間的状態が、3か月も持続していただろうか?

老健施設より、連絡が入った。

「呼吸は、喘ぎ呼吸で、脈も止まりそうです。」と!

駆け付けると、今にも、呼吸が止まりそうであった。

「気管挿管!アンビュー!」

バックを数回押した。

心電図モニター、stand still、直線になっていた。

『終わりだ!』

『母さん!駄目だね!終わりだね!』

こうして、母親の人生は幕を下ろした!

享年96。

「大往生!」兄、姉、妹が言う。周りの人も言う。

母親の兄弟、姉妹で、一番の長生きであった。

その通りである!

母は、静かに逝った!

ろうそくの灯が、静かに燃え尽きるように!

映画のThe endだ!

微笑む母親の顔が、小さく、小さくなっていく。

遠くに、遠くに、点のようになって、消えて逝った。

 

舜司の凧は、急に、バランスを崩した!

きちんとした体制が保てないのだ!

舜司は、慌てた!

『なんだ?この頼りなさは?どっかへ飛んで行ってしまいそうだ!』

舜司は、眼下を凝視した!

母親が見えない!

「母さん!母さん!恐いよう!・・助けてくれよー!」

「何なんだよ!この頼りなさは?半端ないよー!」

舜司は、フラフラするこの不安定さに、恐怖を感じた。

とんでもない方へ、クルクル回転して、墜落してしまうのではないかと!

その時、舜司は、ふと、思った!あることに気付いたのだ!

「そうだったのか!母さん!分かったよ!分かったよ!」

「キラキラするクモの糸が、凧(たこ)糸だったんだね!」

「まったく、気付かなかったよ!」

「母さんと俺は、クモの糸で繋がっていたんだね!」

「母さん!だから、俺は、安心して飛んでいることが出来たんだね!」

「母さん!・・母さんが、死んじゃったから、糸が消えちゃったから、俺、こんなにフラフラなんだね!」

「母さん!もういいよ!わかったよ!母さん!」

「父さんも、とっくに居ないし、俺、もう、何処へ飛んで行っても、いいよ!」

「俺、何処へ行くのか知らないけど、墜落するまで、飛ぶしかないんだろう!浮かべるだけ浮かんで飛んでいくよ!」

「それが、僕の運命なんだよね!もう、わかったよ!」

「今まで、守ってくれて、ありがとう!・・母さん!ほんとうに、ほんとうに、ありがとう!」

 

舜司は思った。

クモの糸は、へその緒なんだって!

そして、気持ちいい天空は、母親の羊水なんだって!

気持ちいいそよ風は、母親の自分に対する囁きだって!

 

医者というものは、人を、特に母親を1秒でも2秒でも、長生きさせておかなくちゃいけないんだ!

クモの糸を切っちゃいけないんだ!

植物人間と言われても、生かしておくべきなんだ!1秒でも、2秒でも!

幾つになっても、子供は子供!

安心して子供たちが飛んでいられるように!

医者は、悟りきった坊さんや、牧師なんかにならなくてもいい!

延命にだけ、尽くす人間でいいんだ!

クモの糸を切らないようにすべきなんだ!

そうだよね!かあさん!