予期せぬ事態が発生していました。コンサートを終え、解放感で満たされるはずたった僕の体は、「悔しさ」という苦いものが混ざっていました。もっと練習しておけばよかったという「後悔」のようなものではなく、あんなに練習したのに結局俺はこの程度の音しか奏でられないのかという、自分に対する苛立ち。解放感めがけて練習してきたのだし、直に消滅するだろうから、最初はこの感情に対して見て見ぬふりをしていました。しかし、直に消滅するどころか、なかなかいなくなりません。時間が経つにつれ膨張し始めると、もはや解放感に浸る時間など微塵もなくなりました。

「おい、どうしたっていうんだい。終わったのだからそんなに悔しがることないじゃないか。テレビの仕事だってこんなに悔しくなることないのに…」

にもかかわらず悔しさで破裂しそうになる体。どうしたらいいのか。どうやってこの感情を発散すればいいのか。

「結構、あるじゃないか…」

厄介なことになりました。都内のピアノ・ホールを検索しています。

「結局、一万回の練習よりも、一回の本番。練習と本番は根本的に別物だから、僕に足りないのは本番の数なんだ!」

こともあろうに、ピアノ発表会なるものをやろうとしているではありませんか。

「ちょっと待ってよ。いまは衝動的になっているだけで、一週間後にはきっと忘れている。それに、みんな褒めてくれたじゃないか。東京フィルをバックにあれだけやれたら大したもんだぞ!そもそも、キミはピアニストではないのだから。キミはタレントとして、充分、役目を果たしたんだ!」

「タレントとして?そんなのまったく意味がない!僕はひとりの人間として納得がいかないんだ!いくら練習で弾けたところで、そんなの、やったけど家に忘れましたっていう宿題を忘れた言い訳と同じ。届けられなければ意味がない。僕に、どんな音が届けられるのか、自分で確認したいんだ!」

 こんな未来が待っているなんて。どうして僕はいつも大変な道を選んでしまうのでしょう。こうやって歩んできたから、いまこの場所にいるのでしょう。どんなに周りが褒めてくれても、大目に見てくれても、自分が許せない。自分が納得しない。でも、このエネルギーこそ、紘子さんからのギフトでした。

 注いだ情熱が悔しさに変換されるわけですが、あのときの努力は、「中村紘子」という大きな存在があったから。生半可な気持ちで向き合っていたら、いま、ここまでのエネルギーは生まれていなかったでしょう。あらためて、ピアノに対する想いに気付かせてくれました。客席から眺めた光景が、いまだに脳裏に焼き付いています。自分の音を届けたい、自分のピアノを奏でたい。その気持ちこそ、彼女からの贈り物。こうやって、人の人生に影響を与える者こそ、天才と呼ばれるのでしょう。

「自分の音を届けたいんだ…」
 
 そんな風に思ったのははじめてでした。もう、だれにも止められません。いま体の中にある感情を、手放してはいけない。

「この感情を、このエネルギーを、時間で薄めたくない」

そのとき、フーマンが誕生しました。

 彼は、ピアニストでも、それを目指しているわけでもありません。ただ、ピアノと羊を愛する男。衝動的でいいのです。途中、やらなきゃよかったと後悔もするでしょう。それを潜り抜けた先に、きっと、見たことのない景色が待っている。たとえ失敗しても、それが僕の音であれば。それが、僕のピアノであれば。僕の奏でる音。第3楽章は、ピアノが主役のようです。








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