ウェストミンスター小教理問答 問96 | 日本人とキリスト教

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■ウェストミンスター小教理問答書を中心として

問96 主の晩餐とは何であるか。

 

答 主の晩餐とは、キリストの御定めに従って、パンとぶどう酒を与えること、また受けることによって、キリストの死が示され、そしてふさわしい陪餐者が身体的、肉的にでなく、信仰により自身の霊的栄養と恵みに成長することのために、キリストの体と血と、そしてそのすべての祝福にあずかるものとされる礼典である。

 

 我々が救われるのは確かに信仰によってである。これは間違いない。しかし、信仰には、信ずる対象である神の言を知ると云う知性の働きが必須である。(1) では、知性にとって、礼典はどのような意味があるのか。礼典はキリスト者と非キリスト者とを区別すると云う意味で「しるし」なのではない。パンとぶどう酒と云う「しるし」には意味がある。キリストは、パンがご自身の体、ぶどう酒がご自身の血を意味するものと定められた。即ち、それらは、キリストが我々の為に与えられたこと、しかも、我々の贖罪の犠性として与えられたことを意味する。しかし、そのようなキリストの我々に対する意味は、聖書により明白であって、礼典は不要なのであろうか。キリストとの交わりは聖言の教える意味の理解だけで十分なのだろうか。確かに我々の思想と行動とを導くものとして知性は第一である。(2) しかし、知性は第一としても我々の存在は知性だけではない。礼典行為には、知性だけに置き換えることができないものが有る。我々の認識は確かに知性に指導されなくてはならないが、その知性は、見たり触れたり食べたり飲んだりと云う感覚に補わなければ、弱いものである。我々は感覚的な存在でもあるからである。これは動かすことのできない現実である。この「見える(即、感覚的な)言」(3) によって、我々は聖霊のお働きを通して、霊的に臨在しているキリストと交るのである。

 



(1) cf. ローマ10:17
(2) Vantil, Intro.P31
(3) カルヴァン「綱要」4-141-6