BAR~凶鳥の黒き夢~

BAR~凶鳥の黒き夢~

世の中を賑わせている事件や本格ミステリーについて語るブログです。

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表紙の「屍人荘」の言葉につられて購入。

vol.52(2012年)掲載の美輪和音の「背徳の羊」のシリーズ物(?)、

「炎上する羊」を最も面白く読む。

普通の地味な主婦が事故現場をSNSに投稿したところ賞賛され、

しだいに行為はエスカレートするが、その真実は…といった筋。

クライマックスに向けて加速する作者の筆致が見事な力作。

 

 

ミステリーズ! Vol.98 ミステリーズ! Vol.98
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団子坂谷中銀座をぬけて千駄木方面へ歩をのばすと、坪内逍遥、樋口一葉、夏目漱石、森鴎外、サトウハチローといった文学史に名を刻む文人の旧居跡が多く点在している。
そして、「坂道と猫」が多いのもこの界隈の特徴である。

「団子坂」―むしろ、D坂といったほうが馴染みやすいだろう。名探偵明智小五郎が初登場した江戸川乱歩の作品「D坂の殺人事件」の舞台となった場所だ。

さて、白梅軒のあるD坂というのは、以前菊人形の名所だったところで、狭かった通りが市区改正で取り拡げられ、何間道路とかいう大通りになって間もなくだから、まだ大通りの両側にところどころ空地などもあって、今よりはずっと淋しかった時分の話だ。大通りを越して白梅軒のちょうど真向こうに、一軒の古本屋がある。実は、私は先ほどから、そこの店先をながめていたのだ。みすぼらしい場末の古本屋で、別段ながめるほどの景色でもないのだが、私にはちょっと特別の興味があった。というのは、私が近頃この白梅軒で知合いになった一人の妙な男があって、名前は明智小五郎というのだが、話をしてみるといかにも変り者で、それが頭がよさそうで、私の惚れ込んだことには、探偵小説好きなのだが、その男の幼馴染の女が、今ではこの古本屋の女房になっているということを、この前彼から聞いていたからだった。二、三度本を買って覚えているところによれば、この古本屋の細君というのがなかなかの美人で、どこがどうというではないが、なんとなく官能的に男をひきつけるようなところがあるのだ。彼女は夜はいつでも店番をしているのだから、今晩もいるに違いないと、店じゅうを、といっても二間半間口の手狭な店だけれど、探してみたが、誰もいない、いずれそのうちに出てくるのだろうと、私はじっと眼で待っていたものだ。―『D坂の殺人事件』

名探偵が贔屓にしていた喫茶店はどこであったろうなどと頭上をぼんやりと見上げながら、ふと思うのだった。

乱歩2散歩で疲れた足を休めるのであれば、その名も「喫茶乱歩」でひと時の休憩。店内にディスプレイされた妖しげな陳列物やまじないのような壁の張り紙を眺めながら、アイスココアを啜るのである。

日暮里駅西口を降りて坂道をのぼっていくと、谷中霊園を少し過ぎたあたりに赤色のポストが見える。そこを左に曲がって細道を進んだところにあるのが朝倉彫塑館である。彫塑家朝倉文夫(1883~1964) が住居兼アトリエとして使用したこの建物は西洋建築(鉄筋コンクリート造り)のアトリエ棟と日本建築(数奇屋造り)の住居棟とで構成されている。黒塗りの壁が落ち着いた雰囲気と厳かな雰囲気を醸し出し、どことなく建物に住む主人の性格というものを窺わせる。設計者は朝倉自身。狷介にして孤高の芸術家がうら若き妻と俗世間を離れてひっそりと暮らしているさまを想像するとミステリマニアは綾辻行人の「水車館の殺人」を思い浮かべるかもしれないが、生憎、朝倉本人は交際も手広く、常識人に分類される人間だったようだ。

朝倉

神社仏閣が周囲に多いのもこの界隈の特徴。地域に密着した商店が軒を連ねて谷中銀座に犇めき合う。夕飯時になると恰幅のいい親父の掛け声に足をとめ、真剣なまなざしで惣菜品を物色する婦人連の姿を見ることが出来る。

谷中銀座2

薄暗い沼地や淵といったものには、どことなく人を惹きつける趣があって、殊に夕暮れ時や薄暮の時間帯にそのような場所を通りかかると、聞こえるはずもない足音が幻聴のように頭のなかにこだまし、ふと振り返ると後ろには誰もいないといった経験をすることがある。名状し難き闇への恐怖から歩調は自然と早くなる。まるで何者かが、私をその暗い水底へと引きずりこまんとしているかのような錯覚を覚えるからだ。

先日、目白近辺を歩いていると、学習院大学の校内に『血洗の池』と呼ばれる池の存在があることを知った。この池は堀部安兵衛が”高田馬場の仇討ち”の後で返り血を洗った池なのだそうだ。自分の目で確かめてみたいという衝動に駆られ、門を潜ろうとしたのだが、生憎年配の守衛の鋭い目つきに睨まれて止む無く退散する仕儀となった。

全国各地にはこういった類の話は溢れている。私の実家、愛知県豊明市にもこんな伝説が残されている。

2005年1月28日(金)朝日新聞 (朝刊記事の抜粋)
 往時しのぶ絶景と木陰  /  愛知・豊明の鎌倉街道
 
京都と鎌倉を結んだ鎌倉街道。江戸初期に東海道が整備されるまでは幹線道路だった。
往時をしのんで歩こうと、愛知県豊明市に足を向けた。
中略
枯れ草に包まれ、古さびた感じの皿池の脇を過ぎ、道に迷ったかと不安になった頃、「名勝地、二村山入口」の道標。緩い坂を上り、雑木の茂る山に入った。
木の間越しに3体の地蔵尊を納めた堂が見えてきた。頭が欠けのは「峠地蔵尊」。盗賊の熊坂長範が襲った村人の身代わりになって、このお地蔵さんが切られたという伝説がある。

血の付着した刀を池の水で注ぐのだが、刀に付着した血は拭ってもいっこうに消えてなくならない。

私は水辺のほとりに佇む度、恐怖に身が竦む。
日中、外を出歩いていると汗ばむ陽気になって来た。
春は一年で一番好きな季節。

心地よい微風が頬を撫で、冬のあいだ雪のしたで辛抱していた種子が一斉に芽吹く。自己の殻に閉じこもり、ともすれば逃げ出してしまいたいと怯える私に向かって、ただ生きていくこと、それだけの素晴らしさを教えてくれる。


写真は今年の正月に泊まったホテルにて撮影したもの。
機械仕掛け、からくり人形、古時計。
何故だか私はそんなものが昔から好きだった。


著者: 加藤 実秋
タイトル: インディゴの夜

第十回創元推理短編賞受賞作として「ミステリーズ!」誌に掲載された加藤実秋のデビュー作。『インディゴの夜』は、まさに痛快の一言に尽きる。

健康実用書のライターとして働く高原晶にはもう一つの顔があった。渋谷にあるホストクラブ<club indigo(クラブ インディゴ)〉のオーナーというものである。メインのターゲットは、二十代、OL、学生、フリーターといった女性たち。彼女は同業の編集者、塩谷とともにクラブの共同経営に乗り出した。

「なんでホストクラブって店も従業員もワンパターンなの?もっとバリエーションがあってもいいじゃない」

「クラブみたいなハコで、DJやダンサーみたいな男の子が接客してくれるホストクラブがあればいいのに。そしたら、行きたい女の子大勢いるよ」

店は軌道にのり、着実に客足を増やしていった。
来年には青山か麻布あたりに二号店を出そうかといったその矢先…。
上客のひとり、古川まどか謎の死を遂げたのである。
泣かないで僕のマリア
抱きしめる君の肩に
こんなにも悲しく 時間が流れて
うつむいてた 涙の夜に 雨音だけ Blueに響く
なにもかもが いとしい頃を
振りかえれば想いに揺れる
Don't you believe
嘘は 何ひとつないけれど
君の心の色 にじませた 罪だけがただ苦い

最近巷を賑わせている集団自殺について思いを馳せる時、必ず脳裡に浮かび上がってくるのは、マリアのことだった。それでも私が死にたい症候群を知ったのはごく最近のことである。彼女についてはこれまでにも多くのことが語り尽くされ、今更私などがくどくどと述べ立てるまでもないだろう。

集団自殺 中心は「T-BOLAN」元妻

埼玉県皆野町の駐車場で男女7人が集団自殺した事件で、中心的立場となった東京都文京区の無職女性(34)が1999年に解散した人気グループ、T―BOLANのボーカリストの元妻だったことが15日、分かった。自身もアーティスト名「メリーメリーマリー」の女性ボーカリスト、マリアとして98年9月にメジャーデビューしていた。

2人はT―BOLANが人気を博していた94年7月に極秘結婚。

しかし、出産直後から、離婚へ向けた話し合いがスタートした。マリアはその理由を自身が開設したホームページ「死にたい症候群」の中で「多重人格障害(12人)と診断される。てゆうか、バレる」とつづっている。このHPに幼少時代に父親から受けたという暴力など、つらい過去も告白している。

結婚生活は協議離婚という形で終えん。その後、マリアは歌手デビューを果たした。それでも、私生活では再婚した新たな夫の暴力にも悩んでいたといい、幼少期に受けたマリアの心の傷は最期まで癒やされることはなかったようだ。(デイリースポーツ)


年端もいかない少年少女まで巻き込んで、この世で生きることに絶望した人たちはネットで知り合った見ず知らずの人たちと集団自殺を遂げる。彼らはそこでお互いどんな言葉を交わし、最後の瞬間までぬくもりを求めながらも、その願いも虚しくこの世に別れを告げていく。

マリアよ、君は何を望み、一体何処へ向かおうとしていたのだ!


 もう、十年以上も昔のことになる。当時、田舎から東京へ上京してきたばかりの私は大学近くの代田橋に四畳半一間の部屋を借りて住んでいた。受験勉強からの開放感のせいなのか、それほど熱心に大学の講義に顔を出すことはなかった。昼ごろにベッドから抜け出すと、そのまま校舎の隅のほうにあるサークルの部室へと足を運んだ。ドアを開けると大抵部屋の中には誰かがいて、お互いに顔を見合わせると特に理由もないのにくすくすと笑い合った。運がいい時には、昼食時に先輩からランチをおごってもらえることもあった。同級生や先輩たちと過ごす時間はとても楽しく、そのうち誰かが講義に出る為にぽつぽつと席をたち始めるまで、何時間も時を過ごした。

 講義が終了すると、部の練習場へ向かうために京王線に乗車して八幡山へと向かった。この練習場で、日が落ち、もう的の姿が見えなくなる時間まで洋弓の練習にうち込んだのだ。締めは芦花公園の周りをぐるりとランニングするというものだった。体は悲鳴をあげたが、さらに一年生には的をかたずけたり、畳に防水シートをかぶせる、などの雑用が課せられていた。しかし、私は雑務をきびきびとこなしていった。同学年の女子に気になる存在の人がいて、彼女にいいところを見せようとはりきったのである。

 Nは世間ずれのしていない、いい意味での“お嬢さん”だった。私は大抵女性と話すときに視線を合わせることができなかったり、ぶっきらぼうだったりする。会話をしていてもぎこちなくなってしまい、途中で話につまって気まずい沈黙が流れてしまうのだ。Nは美人で、誰にも人当たりがよく、私が会話をしていても苦痛を感じない女性だった。私は彼女の前でなら、本当の自分をさらけだすことができると思っていた。部の用事などで彼女の家へ電話を掛けたりした時などに、電話口にでる彼女の「はーい」という間延びした声はどこか家庭的な感じがしてチャーミングだった。彼女とのたわいもないお喋りは常に楽しかった。

 夏は唐突に終わりを告げた。
 長野の菅平での合宿を終え、東京に戻ってきて一ヶ月ほどがたった頃、彼女の態度が急によそよそしくなったのである。理由はすぐに知れた。こんなのはどこにでも良くある話だ。同じサークルの、私が親友だと思っていた男と彼女は付き合いだしたのである。彼は私が彼女に寄せる気持ちを知っていたのにである。私という男は、よくよく甲斐性のない駄目な性分に生まれついているものらしい。あまつさえ、私はその男に「彼女のことを大事にしてやれよ」というような意味のことを言い残して身をひいたのだ。

 そんなことがあってしばらくして、私はサークルの先輩の家に一度だけ泊めさせてもらったことがある。いい男同士がお互いにお酒を飲みながら慰めあっている図なんて、いまから思えば噴飯ものだ。私が酔ってクダを巻くと、「まあ、男と女の仲なんてようワカラへんな。くよくよしたってしゃあない。なんとかなるもんや」私は何が「なんとかなるのか」納得できなかったが、上手くその気持ちを言葉にすることができなかった。オーディオデッキからは、その当時流行っていた、槇原敬之の「もう恋なんてしない」が流れていた。その先輩も失恋をしていたのだった。

 もうあれから随分時が経過した。私は変わったのだろうか?それとも依然あの頃のままのように「引き立て役」でしかないのか?答えはまだ出ない。
正月は蓼科高原で過ごした。辺り一帯は降り積もった雪のせいで真っ白に覆われていた。私は「密室のトリック」のことばかりを考えていた。「雪密室」という言葉がある。そこには本来であれば「あるべき」ものが見事に消失しているのだ。犯人が残した足跡がそれである。
私はミステリー小説が好きだ。
なかでも、綾辻行人『十角館の殺人』や有栖川有栖『月光ゲーム』など、外部との接触が取れない状況で発生する、所謂「陸の孤島」ものの連続殺人劇が好みだ。
第一の殺人が起こり、それをめぐって登場人物たちのあいだでは悲喜こもごものドラマが繰り広げられる。警察と連絡が取れないが為に助けを求めることもできない。従って自分達で犯人を捕らえるしかないのだが、捜査がすすまぬうちに第二、第三の殺人が発生し、謎はいよいよ深まるばかりである。内部犯行説まで巻起り、お互いに疑心暗鬼に陥るさまも、人間の真の姿を見るという意味ではこれほど舞台化に適したものはないのではないか。



著者: 麻耶 雄嵩
タイトル:

前年、麻耶雄嵩が発表した『螢』はこうした「陸の孤島」もののなかでも秀逸な作品だ。

大学のオカルトスポット探検サークル「アキリーズ」の面々はサークルのOB佐世保に誘われて京都府の山間部にたたずむ黒いレンガづくりの別荘「ファイアフライ館」を訪れる。この別荘ではかつて天才ヴァイオリニスト加賀蛍司によって弦楽八重奏曲団の団員六人が惨殺されるという事件が起きていた。佐世保は建物内部の装飾を忠実に事件当時に似せて再現している。一年ぶりにこの館を再訪したメンバーだが、ただひとつ異なるところがあった。この館を訪れる半年前に女子メンバーのひとりが“ジョージ”と名乗る連続通り魔によって命を奪われていたのである。
その館で肝だめしを行なった翌朝にはやくも第一の殺人事件が発生した。豪雨の為に外の世界と連絡のつかないメンバー。そして「ファイアフライ館」に秘められた謎とは!?

この話は「館」自体が物語の主役なのだ。
犯罪小説においてWhy?なぜ犯人はこのような犯罪を犯したのか?という理由が語られるが、往々にしてトリックにばかりこだわりすぎて犯行に至る動機の説明が不十分なことが多い。そうした意味では加賀、あるいはジョージが犯行に至る動機こそが本作品のハイライトなのだ。
唯一の瑕疵は叙述トリックの使用法だ。その為に犯人自体は早い段階で見破ることができる。結末に読者に大胆な一本背負いを喰わせるつもりが、極端に言及を避けてきたがために、読者に「何かあるな?」と思わせてしまうという欠点を孕んでいる。

加賀蛍司の残した旋律がいつまでも頭の底に響く。
タカタカタ・タータ・タカカカタン。