風葬はいいなあ。
時間とともに風化し、微生物、動植物の栄養となって自然に還る。
波に打たれる場所にあるというのは独特。
と岡本太郎は言った。
岡本太郎にとっては、
『生』も『死』も同等だった。
彼は『死』を特別『忌』とする心が『冒涜』と解釈していた。
1966年12月26日。
岡本太郎らが沖縄久高島の『風葬の場』に立ち入った日。
彼が勝手に棺桶を開けて撮影したと吹聴されているが、これは全くのデマである。
この場所には太郎以外に10数人が入って島民に案内されていた。
彼らはあらかじめ許可をもらって取材している。
その時のメンバーも記録にある。
画家の大城皓也、大嶺政寛、
写真家の水島源晃、山田實、
琉球新報社・琉球放送・沖縄タイムス社記者、
その他研究者ら数名、
共同通信社那覇支局長だった高橋氏、
そして岡本太郎と岡本敏子。
久高島のクボー御嶽。
わたしも行ったことがある。
入口にある『立入禁止』の看板の向こう、カーブの向こうに目を凝らした。
ありありと脳裏に蘇る(?)禁忌の空間。
わたしは『そこ』へ行ったことはないが、
わたしの意識は密林のカーブした小道を走り抜けて『丸い空間』に躍り出た。
そこに広がっていたのは何もない空間。
香台だけがポツンとある無の空間。
そんなイメージが既視感を伴ってわたしの中に生まれた。
岡本太郎はなぜ『沖縄』に惹かれたのか?
『生』と『死』を同等のものと捉えた彼は、
境界線を超えたそこに『聖なるもの』を見たに違いない。
私はこのような、
いわばとり残されたところに、
古くから永遠にひきつがれて来た人間の生命の感動が、
まだなまのまゝ生き働いているのではないかと思った。
たとえば『なまはげ』の行事などに──
男鹿半島。
その旅の中、
岡本太郎は東北に生きる人々の顔つきに、
東京人が忘れてしまった『人間的深み』を感じ取った。
彼が直感で目指した東北は、
彼の中で確信に変わった。
東北には縄文の、日本の生命がみなぎっているのだ、と。
なまはげは鬼であり、
怪物でありながら、同時に人間でもある。
そのどちらでもあるという『交錯』に意味がある。
これは沖縄で感じた『生』と『死』を超える価値観と同じものだった。
縄文の深みは、境界線のなさ、相反するものの『交錯』にこそあるのだ。
岩手、花巻温泉。
岡本太郎は『鹿踊り』を見た。
低い太鼓の音と共に人が獣となって踊る姿を見た。
彼は歓びのあまり小躍りしてシャッターを切ったという。
それはもう鹿ではない。獣。
そしてそれは又人間そのものの気配でもある。
人間。動物。どっちだかわからない。その凄み。
人間が動物を食い、動物が人間を食った時代。
あの暗い、太古の血の交歓。
食うことも食われることも、生きる祭儀だった。
どうも私は人間よりも動物の方にひかれるらしい。
今日の人間があんまり温帯植物のように、無気力に見えるせいだろう。
岡本太郎は、
秋田の『なまはげ』や岩手の『鹿踊り』などの日本固有のもの、
動物的とも言える人間の原始の生命力を全身全霊で愛した。
そしてそれが大陸文化によって惰性的に近代化し、変質し、滅びていくことを、
強く憎んだ。
岡本太郎は、
中尊寺に蝦夷(エゾ)の気配を感じ、
狩猟民族と共に世々生き抜いてきた馬の姿を追った。
彼は東北に『爆発する民族のエネルギー』を求めた。
日本民族として本来の姿を取り戻すための希望は『東北』にあるに違いないと。
沖縄と東北。
岡本太郎を魅了したものは──
それらの地の『血の中』に受け継がれた『日本の根っこ』なのかも知れない。