浮島稲荷神社の参道を出て、喜多院不動通り商店街を西へ進みます。
200mほど進むと喜多院入口交差点。
「 喜多院・成田山 」 と書いてあります。
成田山といえば新勝寺、真言宗です。
喜多院は天海上人が居たことで知られる天台宗のお寺、山号は星野山。
おかしい。
参道に入った、すぐ右にお寺があります。
成田山・川越別院。
てっきり、喜多院の末寺と思っておりました。
天台宗の関東における一大拠点と言ってもよい喜多院 ( 現在の山号は
星野山ですが、元は東叡山、東の比叡山です ) のすぐ隣に、真言宗の
関東における一大拠点の成田山・新勝寺の別院。
住所:埼玉県川越市久保町9-2
門をくぐった右に大師堂と絵馬殿があります。
その左に、稲荷神社が鎮座されます。
その左に、恵美須天が鎮座されます。
その左に開山堂があります。
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開山堂
成田山川越別院本行院は、江戸時代末期に石川照温師によって開創
されました。
師は幼い頃から波乱に富んだ生活を贈る中、両眼を失明しました。
絶望の末に三度も自殺を図ったが果されず、これは神仏が未だ自分を
お見捨てにならないからだと信じ、千葉県の成田山新勝寺に於いて
断食の苦行に入りました。
この修行で見えなかった両眼が少しづつ見えるようになり、遂に満願の
頃には全く平癒することが出来たのであります。
そのため不動明王の大慈悲に心から感激した師は一生を不動明王に
捧げようと新勝寺で出家得度しました。
その後、不動明王の御霊徳を世に広めるために諸国巡礼の旅に出ると
各地で師の徳を慕い集まってくる人が増えました。
そこで地元の有力者達が、師にここ川越の地に安住して戴こうと、廃寺
になっていた本行院を斎行しました。
そして嘉永六年に成田山貫首照輪上人が御本尊不動明王の御分霊を
照御師に授与せられました。
これが成田山川越別院本行院の期限となり、現在に至ります。
( 境内説明文 )
その左に、不動明王が祀られています。
不動明王は、成田山新勝寺、成田山新勝寺川越別院の御本尊です。
本堂に向かって右に手水舎。
花手水。
手水鉢は、狛犬が担いでいます。珍しいですね。
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川越別院について
嘉永六年(一八五三年)開山照温師は、当時廃寺となっていた本行院に
成田山新勝寺貫首照輪上人が開眼された不動明王を安置して再興され
ました。
明治九年(一八七六)成田山の末寺となり、翌十年には管理一切を
成田山に移してより、成田山川越別院本行院として現在に至ります。
開創以来百七十有余年の長きにわたって種々のお願い事の成就を祈る
祈願所として、そして親しみをこめ 「 川越のお不動さま 」 として、
近隣のみならず広く御信徒の参拝をいただいております。
https://kawagoe-naritasan.or.jp/
成田山川越別院の概要
山号 成田山
院号 本行院
寺号 -
住所 川越市久保町9-2
宗派 真言宗智山派
本尊 不動明王
備考 関東三十六不動、小江戸川越七福神の恵比寿天
成田山川越別院は、川越別院成田山本行院と称し、いつの頃からか
「 久保町のお不動様 」 とも呼ばれるようになった。
本尊は不動明王で、内外の諸難や汚れを焼き払い、人々を守るといわれ、
願をかける時などに奉納する絵馬のため、境内には絵馬堂も建立されて
いる。
当寺は、江戸時代も末の嘉永六年 ( 1853 )、ペリーが黒船を率いて
浦賀に来航した年に下総の国新宿 ( 現葛飾区新宿 ) の石川照温が、
廃寺となっていた本行院を成田山新勝寺の別院として再興したのが
始まりといわれている。
石川照温については、次のような話が伝えられている。
農家に生まれた石川照温は、三十歳の頃に目が見えなくなってしまった。
光明を亡くした照温は、ある日のこと自ら命を絶とうとしたが、その時
不思議なことに光を失った眼前に不動明王が見えたので、にわかに
仏道に目覚め、それまでの生活を改めるとともに、有名な成田山新勝寺
のお不動様を熱心に信仰するようになった。
そのかいあってか、失明した目もいつか昔のように見えるようになった
ので、いよいよ仏道に励み、当地に寺を建立し、多勢の信者から
慕われるようになったとのことである。
なお、照温の碑が、近くの中院墓地に建てられている。
昭和五十七年三月 川越市
( 境内説明文 )
本堂からの眺め。
以上。