― 風林堂 ―

 

 風林堂の朝は早い。

 朝餉の前に風林堂内を掃除し、その後で修行を行う。

 テギョンたちも同じように起床し、それぞれに部屋の掃除を済ませると、修行ではなく荷造りを始める。

 それは朝餉の後、すぐに出発する為だ。

 斐水は風林の隣とはいえ、舟を乗り継ぐ一日がかりの行程だ。

 それもすんなり行く事ができてであって、もし何かあれば到着は夜になってしまう。

 だが、風林に着いた時のように、どこかの宿に一泊ということはできない。

 斐水の状況も分からないし、斐水門の状況も分かっていないからだ。

 ドンジュンは模諜枢教の教徒はその殆どが撤退したとだけ告げ、ミナムに関する事は言いにくいのか、口を閉ざしている。

 なにより気になるのは、斐水に到着後のミナムの反応だ。

 そのミナムは、体力消耗によってぐっすり眠れたようで、朝の目覚めはよかったのだが、布団から出ようとして突然に奇声を発し、今も身体を動かすたびに声を上げて悶絶の表情を見せていた。

 テギョンはそれを冷ややかに見つめ、嘆息交じりの憂えた声で言う。

 

 「鍛錬不足だ。」

 

 相変わらずの要点だけの一言には、心配とか気遣いといったものを含んでいない冷然さだが、ミナムは一言も返せないだけで気にもしていない。

 テギョンもそれ以上言う事なく部屋を出て行こうとする。

 

 「ヒョンニム、どこに行くの。」

 

 追い掛けようとした途端「あうあう。」と悶え、テギョンはそれを見て鼻で笑う。

 

 「散歩だ。」

 

 答えてくれたのはいいが、ミナムは連れて行ってよと言おうとして手を伸ばしただけで「おおお」と唸ってもんどりを打つ。

 

 (ダメだ、ここはさっさと荷造りして、柔軟でもして体を動かして歩けるようにしておかないと。)

 

 テギョンとの散歩を諦めたミナムは、立つたび、座るたびに悲鳴を上げる太ももを擦りながら、泣き顔を浮かべて荷造りに勤(いそ)しみ、部屋を出たテギョンはまっすぐにカン堂主の所に向かっていた。

 昨日の疲れなどまったく残っていない身体は、軽快に山道を歩き菩提門をくぐる。

 迷うことなくカン堂主の住まいに向かうが、ふと足を止めたのは、それまでテギョンを照らしていた朝日が遮られて、影を落としたからだ。

 テギョンはその影を作っている鐘楼を見上げる。

 立派な張り出し屋根、その上に広がる空には雲一つなく、微風。

 テギョンはここにカン堂主と話す為に来たが、空を見上げている間に考えを変える。

 

 「ファン宗主。」

 

 戻ろうと踵を返したテギョンに、カン堂主が声を掛ける。

 

 「ここまで来たのに戻るのかね?」

 

 テギョンの背に続けて訊いたカン堂主だが、考えを変えたテギョンは躊躇った。

 実際ここに来ると決めるまでにも随分迷ったのだが、本来の彼はあまり迷う方ではない。

 慎重でありながら、即断即決で物事を進めていく。

 群れる事もせず、誰かを当てにする事もない。

 だからこのような疑問を持った事は今までになく、なによりその事に躊躇っているといえた。

 テギョンはその躊躇いを隠すように、カン堂主を見つめる。

 

 「ファン宗主はシヌと同じでまだ若いのに、考えが過ぎるようだ。

 それも生い立ちを考えれば無理はないとは思うが。」

 

 立ち去るでなく、こちらに身体を向けるでもないテギョンに、カン堂主は穏やかな声でそう言うと、テギョンの目をまっすぐに見て近づいてくる。

 

 「他宗家には関わらないと言ったが、力を貸さないわけではない。

 昔ミナムを預かったように、風林堂にできる事なら力になるが、それも相談あっての事だ。」

 

 間違っていると思うかと、訊ねるような目のカン堂主に、一度は流れに任せる事にしたテギョンだったが、再び考えを変える。

 

 「カン・シヌが動くのは風林堂の考えなのか。」

 

 テギョンは簡潔に、率直にそう切り出した。

 これはこの先シヌの動きを予測する上で必要な事だった。

 シヌが風林堂の考えに沿って動くのと、私情があるのとでは、その行動が違ってくるからだ。

 この疑問は他宗家とは関わらないはずの風林堂にあって、シヌがミナムと斐水門に言及した事に起因している。

 平たく言えば、シヌが『斐水門に戻るな』とミナムを説得しようとした事に、ただただ違和感を覚えたからに過ぎない。

 つまりカン・シヌにコ・ミニョへの恋情があるなら、それも考慮しなければならないというのが、一晩考えて確認したかった疑問だった。

 それがぼんやりと空を見ている内に思ったのだ。

 恋情があるならシヌはミニョを、たとえミナムであっても害する事はないと。

 なによりカン・シヌは、モ・ジェルミとは違い感情的な男ではない。

 そう思ったからこそ、一度は問わずに行こうとしたのだ。

 

 「風林堂は他宗家の問題には関わらない。

 ならカン・シヌが、この先、斐水門に向かうのは私情という事になる。」

 

 そしてこれをカン堂主に告げるのは、どこか陰口のようでもあると思ったからでもあった。

 対するカン堂主は、ふむと感慨深そうに頷く。

 

 「シヌは幼いミナムを、ひと月ここで面倒見た事がある。

 その時シヌにはミナムの状態を病と伝えたのだが、なぜそのような病にかかったかは分からないとしたのだ。

 事実、分からないのは間違いではなかったが、シヌは疑問だったのだろう。

 『なぜ女の子が男だと言うのか』

 のちに、シヌはその疑問を調べ始めた。

 風林堂は他宗家の問題には関わらないが、ミナムを預かったのはコ門主からの相談があっての事、そしてそこに生じた疑問、情報を得るのは宗家としては必要な才、それゆえ黙認し見守ってきた。

 あの子も多くを語る子ではないが、斐水門の事情は理解している。 

 ただこの事情は私からファン宗主に話すべき事ではない、それはシヌも同じだ。

 といって、コ門主が話すかどうかも分からないから、これが答えになればいいのだが・・・・・・

 コ門主の嫡男、コ・ミナムは早世し、ミニョの病を斐水の民は知らない。

 そして斐水門は、斐水の民に、娘ミニョの存在を伏せていた。」

 

 真顔で言ったカン堂主に、テギョンはしばし考えて訊く。

 

 「それが模諜枢教に連れ去られた時に、何も手を打たなかった理由か。」

 「そうだ。」

 

 カン堂主は眉間にしわを寄せて頷く。

 まさかと思いながら訊いたテギョンも重い顔だ。

 かつて模諜枢教に斐水門の娘が連れ去られても、表立って動きがなかった事はテギョンも承知している。

 

 「一年前、コ門主には打つ手がなく、知らぬを通すしかできなかった。

 わざわざ連れ去ってまで殺しはしないと考え、斐水の民を守る唯一の術と黙認するしかできなかったのだ。

 しかしコ・ミニョが逃げ出した事で、斐水にもこの風林にも教徒が押し寄せて、コ門主が隠し続けた娘の存在と隠した理由を暴いた。

 さらに教徒は、どこかに隠しているのだろうと斐水の都を荒らした事で、民はコ門主に怒りを抱いているはずだ。

 そのような状況の中に、ミニョでなくミナムが戻ればどうなるか。

 ミナムをミニョに戻す術は分からず、原因も分かっていない。

 もし戻るのに前回同様の歳月が必要ならば、最初にコ門主が託した通り、ミナムはここに居るべきだ。

 シヌはそう考えていたが、私の考えは違っていた。

 これは隠し通して解決できる事ではない。

 隠していたからこそ模諜枢教に突かれ、この結果となったのだ。

 コ門主がモ教主と正式に話をつける為には、コ・ミニョの存在を公にするべきだと私は思う。

 そしてこれが風林堂の考えだ。

 だが考えは考えであって、行動する事とは違う。

 本来なら風林堂が間に入るべきだが、利害問題に取られかねないからこそ動かないのだ。

 しかし昨夜になってシヌは、風林堂の掟に反するがファン宗主と共に事の解決に当たりたいと言って来た。

 私情といえば私情だが、風林堂の考えであるのも事実だ。

 そこで考えたのだ、風林堂は表立てないが、縹炎宗は違うと。

 縹炎宗は偶然巻き込まれたように見えるが、ミナ・・・・ミニョを助けたのは何か考えがあっての事。

 ならばこの問題を託すべきだと、決めたのだ。」

 

 これを聞いてもテギョンは少し考えるだけで、困った顔も驚いた顔も、それこそ眉一つ動かす事なく泰然と受け止めて一礼をしてその場を離れる。

 むしろ残されたカン堂主の方が、戸惑いがその顔に浮かんでいる。

 

 「父上。」

 

 物陰から姿を見せたシヌが、カン堂主に声を掛けた。

 

 「聞いていたのか。」

 「偶然、耳に入って来たので。」

 

 盗み聞くつもりはなくても、風林堂の者は総じて耳が良く大抵は聞かないようその場を離れるなど気を付けるのだが、今回ばかりは話しの内容が気になってしまったのだ。

 

 「シヌ、コ・ミナムを助けたいとするファン宗主に異心はないと思う。

 それでもこの先は注意が必要だ。

 ファン宗主には言ったが、模諜枢教がどのような動きを見せるか分からない以上、心するんだ。」

 

 カン堂主は模諜枢教の野望と斐水門の内紛を憂い、利害と裏切りに頭を痛め、ふと昨夜のテギョンの言葉を思い出すのだった。

 

 

― 斐水への路 ―

 

 慌ただしく朝餉を食べ終えると、テギョンたちはカン堂主に一泊の礼をして風林堂を出発する。

 テギョンの竿を、杖代わりにして歩くミナムを気遣うのは、テギョンでなくドンジュンだ。

 突き抜けるほどの青空の下、風林の都を抜けて防壁代わりの竹林に入る。

 サラサラと風が立てる笹の音、前後左右と同じ竹が続き、緑の迷路がグルグルと回る。

 頑丈な壁ではないが侵入を防ぐ立派な防塞で、シヌが居なければ迷っていただろう竹藪を抜けて、風林から一番近い川へと向かう。

 斐水は、元は水害で出来た幾つもの中州だったが、水路で繋いで一つの大きな都を作り上げたのだ。

 ぐるりと囲む川の外にも村は点在し、どこの村にも渡し舟の船着き場がある代わりに、都へと続く道はない。

 幅の広い川もあれば、狭い川もあり、流れが緩やかな所もあれば、急流でごつごつと岩にぶつかる川もある。

 侵入を阻む事を目的とした水濠(すいごう)であり、川によって乗れる舟も変わるのだ。

 

 テギョンたちは朝早くに出発し、歩き続けて頭上に太陽が来る頃、最初の目的の村に到着した。

 斐水の都はこの川の向こう側で、交易の為の商船も乗り入れできる船着場のあるこの村は、いわば斐水の表玄関のような村であり、テギョンがかつて過ごした村でもある。

 交易が盛んな事もあり、にぎやかな村だがここには宗家がなかった。

 宗家への依頼は、舟を乗り継いで都に行かなければならない、だからこそテギョンは、ここで仕事を見つける事ができたのだ。

 だが、当時とはどこか空気が違う。

 人はいるが昔の陽気さはなく、誰もが戸を閉め切って見知らぬ者に顔を背ける。

 テギョンは一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに元に戻して歩き続け、フニは懐かしそうに指さしては、テギョンに向かって話しかけていた。

 

 「ヒョンニム、ここに住んでた事があるの。」

 

 ミナムが気づいて話しかける。

 

 「そうなんですよ、私もここに居たんです。」

 

 テギョンではなくフニが応える。

 

 「実はここでね、宗主と再会したんですよ。 って、これって前に話したことありましたよね。」

 

 言うとフニは小さな目を細めて笑う。

 

 「小さい村なんですがね、風林の都と斐水の都、その両方の真ん中くらいにあるんで、どっちからも人が来るんです。 

 そうそう大きな舟を泊められる船着場があるんですよ。  

 今も変わっていないんでしょうかね、ああ急いでなければ色々と見て回りたいところですよ。」

 

 フニの懐かしそうな声は耳に届いていたが、ミナムはもう別の事を考え始めていた。

 ミナムが気を取られていたのは、この先の、かつて溺れた水域の事だ。

 

 (あそこでまた川に落ちればミニョに戻るんだろうか。)

 

 ふと湧いて来たこの疑問に囚われて、ミナムは歩いても、話しかけられても上の空で、舟に乗せられてもぼんやりとしてしまい、舟の上から川の水を覗き込んでいた。

 

 「コ・ミナム。」

 

 テギョンの声に心臓が跳ねる。

 特別大きな声でもないのに、なぜ驚いたんだろうと考えながら振り向くと、テギョンが真顔で見ている。

 

 「なっ何?」

 「・・・・・・これより、俺の傍を離れるな。」

 

 それはどういう事だろう。

 ミナムはそう思いはしたが分からないわけではない、むしろ考えられる理由が幾つかあって、そのどれなのかが分からないだけだ。

 そして分からないままにテギョンに向かって、分かったと頷いたのだ。

 これをヘイは冷めた目で見ていた。

 今朝ギリギリで天界から戻ったヘイは、天界からの追手を気にしていた。

 だから余計な事は喋らず、出来るだけおとなしく歩いて来た。

 本当なら馬車を取り上げられて、荷を持たされた時点で、重いやら足が痛いといった言葉が口をついて出るところだが、騒ぎだけは起こしたくなかった。

 それでも数刻過ぎれば不安も落ち付く。

 舟に乗ったヘイは、ミナムを睨むまでに落ち着きを取り戻していたのだ。

 ただ人間界の数刻など、天界では瞬きするほどの時でしかないわけで、今追手がないからといって気付かれていないとは限らないのだが、どれほど天を仰いでも追手がかかる兆しは見えない。

 ただ、それでもここで騒ぎを起こすべきじゃない。

 だから我慢しているし、何よりミナム相手に言い争っても無意味だという事も分かっている。

 ヘイはミナムを睨みながら、天界で盗み見てきた書を思い返した。

 

 (思った通り、水神の娘が人間に転生し、火神を守ろうとして命を落としていた。

 つまり、人間に堕ちても恩着せがましい事を続けていたわけね。

 どうりでテギョンさんがミニョを気にかけるわけよね。)

 

 もちろん人である以上、前世の記憶がない事はヘイも分かっている。

 だがミニョは人でもテギョンは火神で、何かしら引っ掛かっているいるのだろうと推測できる。

 でなければテギョンがミニョを気にかける理由が見つからない。

 

 (記憶はなくても、これだけ続くのには因縁があるという事で、それを断ち切れてないから繰り返してるのだわ。

 こんなに長く続くとは天界だって思ってなかったはず、だとしたらあの梅香楼だって、天界が火神の為に送った使いだったんだわ。

 それに大事な事は火神が天界に戻れなければ、私と火神の未来がないって事よ。

 これが一番の問題ね。

 テギョンとミニョの縁を切り、火神の転生を止める。 

 その為にすべきことはミニョの排除?

 だけどこれってミニョが死なないようにしなければって事になるの?)

 

 この結論はヘイにとっては面白くない。

 さらに問題が複雑なのは、ミニョがミナムになった事だ。

 

 (ミナムになったって事は、天の采配?

 この因縁を断つ為の?

 ミナムはミニョのようにはテギョンを助けないって事?)

 

 テギョンに助けなど必要ないと思うヘイだが、たとえそうだとしても二人を引き離すべき事には変わりはない。

 となると今度は、ミナムが言ったテギョンについて行くって言葉が、ヘイには苛立たしく思えてくるのだった。

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~

遅くなったうえに長くなりました。汗うさぎ

ヘイの天界での事を、

外伝にしようと一時間も考えて止めたのは、

所詮書いたところでテギョンとミニョのバックヤード、

面白くもなんともないよな~と、思い直したからなんだけど・・・・・・。

 

話しも長くなると不安が付いて回るので、

ここでざっくり、語っておきます。

今のテギョンは火神と似て非なるもの設定になっている点。

火神が何度も転生を繰り返した結果、

今の人間みを持ったテギョンが完成したという事を、

ヘイが知るという目論見で考えてた外伝。

 

なんでこんな事をというと、

今のテギョンって書いてて『これはテギョンじゃない』って言いたくなるところがあるのよ。

勿論ちゃんと理由があっての事なんだけど、

こうも長くなってくると、

どこかで埋めておきたいって心理が働いてしまったの。

結局、開き直って先に進む事にしたのだけどね。滝汗

 

とは言っても小心者なので、ここでちょっとだけ補足。

テギョンとカン堂主の会話で、テギョンが持った疑問。

もちろんこれには嫉妬が含まれているんだけど、

ここのテギョン気付かない上に、置き換えも完ぺきなの。

 

普通なら気に入らないやイライラを10出すとしたら、

ここのテギョンは1出るか出ないかなのよね。

布団の上で考えている時には、

ちょっとくらいは口が尖っていたんだろうけど、

カン堂主に話す時点では、もうすっかり整理されている、

つまり萌えポイントが書けないって言うのが、

いえ私の文章力では萌えを匂わせられないのが、

不安だったってだけの事よ真顔。(書いてスッキリチーン

 

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