― 風林堂 ―
ミナムが湯あみを終える頃、ドンジュンとジェルミの二人が、別々の所からミナムを気にしてやって来た。
一時は落ち着きを見せていた二人の仲は、ミニョがミナムに代わって以来ぎくしゃくするようになってしまい、ミナムとジェルミほどではないにしても距離ができていた。
それでもほぼ同時に現れた事にテギョンは目を細めると、二人を交互に見る。
いや、見るというより何の用だと邪険に問う目だ。
これにドンジュンは「明日は斐水に向かうから。」と言い、ジェルミは「ミナムの具合は?」と訊く。
ほぼ同時だったが、ドンジュンはテギョンが答えるよりも早く、ジェルミを見て困ったようにため息をついた。
「ミナムを心配するなとは言わないけど、斐水ではミナムに関わるのは止めて欲しい。」
お願いというよりは命令に近い口調に、ジェルミは今にも飛び掛からんといった顔だ。
「これはミナムの為だけじゃなく、モ・ジェルミ、君の為でもあるんだ。」
ジェルミは部屋の中にいるミナムにも聞こえるほどの声で言い放った。
益々目を細めるテギョンに、戸口に手を掛けるミナム、そしてジェルミは眉間に深い溝を作ってドンジュンを睨み返す。
「どうして僕の為なんだ。」
「それは、」
「それは行けば分かるさ。」
ドンジュンに被さる様にして言ったのはミナムだ。
濡れ髪もそのままに、戸を勢いよく開けて出てきたミナムに、テギョンの目が見開く。
「何を考えてる、髪が濡れたままだぞ。」
出た所でテギョンに掴まり、ミナムは強制的に部屋に連れ戻されると頭に布が掛けられた。
(かっこよく出たのに、これだとまるで女みたいだ。)
布の下でミナムの頬が膨らむ。
ミナムは、ミニョの望んだ完璧な兄である為に自制する事には不満はなかったが、こういうふうに強制される事は好きではなかった。
「自分でするよ。」
ミナムは逆にテギョンを湯桶まで追い立てて、汗を流すように言う。
だがその湯は、二番湯の上にミナム仕様の熱さだ。
テギョンは、カラスの行水ならぬ湯通しほどの速さで汗を流すと、すぐに湯舟を出て、水滴と共に流れる汗を拭く。
それはミナムが、髪を拭いて軽く束ねるまでのごく短い間で、姿を見せたテギョンは、髪はまだ濡れてはいるものの、すっきり準備の整ったその姿にミナムは不思議そうに訊く。
「ヒョンニムって水を飛ばす能力が備わってるの?」
犬が身震いする事で水滴を飛ばすように、テギョンもきっと特殊な力があるのかもと思ったのだ。
だがテギョンは、それを一瞥するように呆れ顔でミナムを見て、「風に当たる。」と言って部屋から出て行く。
後を追ってミナムも部屋を出ると、ちょうどそこに夕餉を知らせる堂徒がやって来た。
堂徒は、テギョンたちを宴の席に案内しながらヘイが同席しない事を告げる。
理由は至って簡単で、ヘイは宗家でないからだった。
ただそれを申し出たのがヘイからなのが、腑に落ちないと言えばそうなのだが、風林堂の宴には楽団も舞もなく、酒も卓上に乗らないのだから参加しなかったとも考えられる。
そしてそれは宴が始まるとすぐにどうでもよくなった。
風林堂の食事は、子供だった時とは違って食べる物がないという事はなくなっていたが、それでもミナムの口には合わない。
できればウズラの醬油煮込みや手羽肉の揚げたもののような、油でテカったものを食べたいのに、目の前にあるのは、薄味の野菜の煮たのや少しの油で炒めた野菜だ。
斐水の隣なのに風林はあっさりとした味を好み、斐水とは全く違う。
だいたいなんで野菜ばっかりなんだろうと思うが、それも今夜までだ。
(明日には斐水に向かう。
そしたらあの屋台であれを食べ、あの店であれも買って、それから・・・・・・)
ミナムは懐かしい味を思い浮かべて唇を舐めたが、それと同時に気分は重くなった。
斐水でミナムがミニョに戻ったのは随分と前の事だ。
ミニョの記憶もあるといっても、その目はミナム自身に向けられた目だ。 まだ幼いミナムが斐水門の門徒の目に晒され続けたのだ、簡単に忘れる事はできない。
なのに、そこにまたミナムとして戻るわけだから気も沈むというものだ。
ミナムは力なく箸で器を弄び、テギョンはそんなミナムに見る目を細めている。 そして二人を交互に見るジェルミは少しばかり苛立っていた。
予定ではミニョと模諜に戻るはずが、ミナムになってからいろいろと思い通りにいってない事が理由だ。
(なんとかしてミニョに戻る方法を見つけないと。
そしたらミニョを説得して模諜に帰るんだ。)
ジェルミは決意も新たに静かに食事を続ける。
その姿や所作は美しく、あの模諜枢教の継承者だけあって作法も行き届いている。
静かな風林堂の宴で、シヌに次いで相応しい姿で、これはテギョンにはできないものだ。
といっても別にテギョンが汚いわけではない。 ジフンにしてもドンジュンにしても同じだ。
彼らは普通に食べているだけで、儀式を行っているわけではない。 宴とは名ばかりの通夜のように静まり返った宴席でシヌとジェルミが別格なのだ。
この堅苦しさこそミナムが風林堂に馴染めない理由の一つで、風林堂の規律の一つ黙食ゆえだと分かっている。
(楽しく食べるのが悪いなんて、ひどい規律だ。)
シヌに目をやりそう思うミナムは、シヌが嫌いなわけでも苦手なわけでもない。
だが風林堂はすべてにおいて決まりがあり、子供でありながらミニョの完璧な兄でなければならないミナムにとっては、この堅苦しさはとてもつらい規律だったが、シヌは率先してそれを守ってみせて、誰もが守るべきだと示したのだ。
目指すべき完璧な兄、ミナムにとってシヌはその完璧な兄でしかない。
それに対してテギョンは、厳しくはあるがいい加減な所もある兄だ。
(今だって無言だけど、これは規律とは関係ない。
縹炎宗に居た時、食事中にミニョが喋るのを止めたりはしなかった。
修行好きなのも風林堂と似てるけど、上手く言えないだけで違ってる。
ヒョンニムはきっちりしてるくせに、髪は乱れ具合とか、襟元の開き具合とか座り方だってそうだ。
足を延ばして座る宗主なんて初めて見た。)
ミナムのテギョンの印象は、火のように激しく熱く、音もなく燃えている、といった感じだと思う中、フニでさえ喋るのを憚(はばか)るほどの静かな宴を終えて、みな部屋へと戻る。
テギョンは部屋に戻っても無言だったが、ミナムは気にならなかった。
正確には、気にする余裕がもう残ってなかったと言った方が正しい。
座禅に続いて武道に弓の修行にと励んだ結果、空腹が満たされた後に来るのは睡魔だからだ。
今のミナムは、何も考えずに眠りたいという思いが勝っていたのだ。
だからテギョンが喋ろうが喋るまいが、ミナムが部屋に戻って真っ先にした事は布団を敷く事だった。
この風林は部屋が畳敷きのため寝台がなく、畳の床に直接布団を敷く。
(今夜はお酒も飲めないから、絶対に眠れないって思ってたけど、ヒョンニムのおかげで余計な事を考える気力もないよ。)
大きな欠伸を落としたミナムは、テギョンもきっと今夜はぐっすりだろうと思いながら布団に潜り込むと、睡魔に魅入られたように寝息を立て始める。
テギョンもまた、布団の上に身体を横たえてはいたが、ミナムの思惑とは違って、目はパッチリと開いている。
考えなければならない事が沢山あるのだ。
だが思いもしなかったミナムの寝息が、テギョンを眠りへと誘(いざな)う。
うつらうつらと目を閉じると、そのまま眠りの中に落ちていく。
シヌとの修練は心地よい疲労感を残していて、ミナムと同じでこのままぐっすりと眠れるだろうに思えた。
だがテギョンはミナムとは違う。
かすかな物音にも反応してしまう習性が身についている。
歩いてくる足音、獣とは違う人の気配、むくりと身体を起こしたテギョンは、大の字になって寝ているミナムに目をやり、滑るように部屋の外に出る。
「起こしたか。」
寝ていると知って戻ろうとしたカン堂主は、戸の開く音に振り返って声を掛ける。
だがテギョンは、それには答えずに部屋から離れていく。
少しぐらいの話し声では起きないだろうと分かっているが、それでも寝ているミナムを気遣っての事だ。
テギョンは少し行った所で振り返った。 が、やはり何も言わずに少しばかり怪訝な顔でカン堂主を見るだけだ。
「いつもこうなのか。 音はさせなかったはずだが。」
「目に映るものだけが、見えるものとは限らない。
音も同じ、静寂であっても音がないわけじゃない。
不穏な音でなくても自然でない音にはつい反応してしまう子供の頃からの習慣のようなもの。」
「自然でない音に警戒して出てきたのか。」
「用があってか、それとも別の目的か、人の気配を察すれば確認するのは当然の事。
風林堂に限らず、この世に安心できる所はない。」
「そう思うのは縹炎がそうだからか。 縹炎の話は実に興味深い話だった。
縹炎では警戒を緩められないだろうからな。」
「・・・・・・古(いにしえ)の魔物は獣の如き姿をしていたと聞いたが、縹炎のあれは確かに魔物と呼べる物だった。
だが、あれは目に見える。
むしろ怖いのは心を惑わす舌を持つ魔物の方だ。
それはどこにでもいる人の中に潜んでいて、姿を見せない。」
この言葉にカン堂主は妙に納得した。
(風林堂内に他宗家の鼠(ねずみ)が潜んでいると言われても、あり得ないと突っぱねただろうが、妬みや嫉妬と言ったものは誰でも持ち合わせているものだ。
それがいつどのような形で芽生えるかは分からない。)
カン堂主はテギョンの手の中にある剣に目をやった。
この若い宗主の力のほどは分かっていないが、火を吹く剣の事は彼を語る上で外せない事の一つで、シヌからの文にも書かれていた。
(あの剣を、手に取ってみたいと思っている堂徒は多いはずだ。)
そう考えながらカン堂主は、テギョンがずっとこのような環境で育ってきたのだと納得するように頷いた。
「シヌでさえ疲れて寝ているが、ファン宗主は疲れ知らずのようだ。」
これにテギョンはまた、呆れが混じった怪訝な顔をする。
こんな話をする為にここに来たとは思えないが、話す事が残っているとも思えない。
だから父親ほども年上の堂主に対してもこんな顔になる。
「模諜枢教の継承者には気を付けた方がいい。」
カン堂主のこの言葉に、テギョンはまた怪訝な顔をしたが、表情はそれぞれに少しずつ違っている。
最後の顔は真剣に訝しんでいるって顔だったが、カン堂主の意図がテギョンに分からないという事ではない。
「今の模諜には大小かなりの宗家があるが、考え方が違い統一が成されてない。」
「・・・・・・」
「モ教主は枢教殿の殿上に居て滅多に姿を見せず、水面下で繰り広げられる宗家間の職権争いを操っているとの話だ。
ファン宗主はそこに投じられる駒のようなもの。
モ教主はファン宗主を利用して、敵対勢力を排除しようと考え、敵対する宗家もまたファン宗主の力を利用してモ教主の力を抑えようと考えている。
つまり税などは二の次で、」
「俺を呼び寄せるのが目的だった。」
ため息交じりにテギョンは言う。
「だが俺を呼び寄せてどうする?
宗家間の問題に、俺が首を突っ込むと、どうして思うんだ。」
テギョンは一頻(ひとしき)り首をひねって考えたが、これはどうにも理解不能だ。
テギョンの性格からして、正義の味方を気取って、そんな面倒ごとに進んで首を突っ込む気など、さらさら持ち合わせていない。
だがカン堂主がやって来てまで言うのだから、一笑に付して終わらせるのにも引っ掛かりが残る。
「模諜に残る言い伝えに、模諜の闇を火が照らすというのがある。
これは私の憶測だが、ファン宗主が動くかどうかは問題ではなく、その火を吹く剣が利用できると考えているのかもしれない。」
カン堂主は自分の考えを確認するようにゆっくりと言い、テギョンはカン堂主を見る目を細めて、手の中の剣に目をやる。
たとえカン堂主の憶測が当たっているとしても、これだけではまだ答えは出せないからだ。
ただしこれまでは漠然としていたものが、考える方向性が見えてきた。
テギョンは口の端を僅かに上げる。 だがすぐに眉間に影が落ちた。
ミニョが模諜枢教に捕まっていたのは、夢と関わるのかもと考えると、上がった口角もまた下がる。
ミニョがミナムに変わった事や、ミナムが付いて行くと言っている事も考えの中に入れておかなければならない。
五里霧中だったものが暗中模索に変わったくらいで、光明は差したわけではないのだ。
「わかった、カン堂主の情報を無にしないよう心して斐水に向かう。
だが風林堂としては俺が模諜枢教と対立する方が益があると思うが・・・・・・」
首を傾げたテギョンに対してカン堂主は堂々と答える。
「風林堂は道義に反する事はしない。
話し合いの場で言わなかったのは、あの場に模諜枢教の者が居た事とファン宗主が粗暴なだけの宗主でないと確認する必要があったからだ。
聞こえていた噂はひどいものだったからな。」
その噂がどのようなものかはテギョンも知っている。
テギョンが頷くと、カン堂主は背を向けた。
(彼はあの生い立ちで、どのようにしてこのように達観するに至ったのか。)
そう思いながらも、カン堂主は来た道を戻り、テギョンもまた黙って寝床に戻ったが、眠るというより考える為に目を閉じる。
一方、一人外されたヘイは、邪魔が入らないのを良い機会と天界に戻っていた。
宴を辞退してまで戻ったのは、それが時を要する事だからだ。
一介の人間に過ぎないミニョの過去を知る事は、石ノ神の力では不可能だが、神の劫は天界が記してあるはず。
火神の劫が分かればおのずとミニョの過去も分かる、だが問題はそれを盗み見る為には保管してある場所に忍び込むしかない事で、これには時を要する。
それに、もし見つかればという不安が石ノ神にはあった。
だからこそこれまでは二の足を踏んでいたのだが、ミナムはテギョンについて行くと言い、このままでは何もできずに一緒にいる二人を見続ける事になる。
そう思うと苛立ちが募り、やはり過去を知って方策を探る事が一番だと、この時を利用したのだ。
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とうとう自転車操業状態です。
ストックはなく、水曜までノートに向かい、
木曜から入力してのギリギリ更新ですよ。
(めっちゃ先行き不安)
更新後は次回分のノートに向かいます
その次回は、この風林堂を出発(するはず)
(まだ一文字も書いてないので確定できない)
頭の片隅にヘイが読む書を、外伝で書けないかとも思っていて、
(だから一文字も書いてないので書けるかどうかが分からない)
それより早く先に進めって気持ちもあるので、
もし外伝すっ飛ばすなら、後書きにでもまとめるかという、
ユラユラ状態
でもね、やっとミニョが戻って来る斐水よ。
テギョンの手前、おとなしくしていたヘイだって、
悪だくみを開始するわよね。