― 風林堂 ―
誰かが話している途中で、テギョンが口を挟む。
そんな事はこれまでに一度もなかった。
(もしここにフニ宗士がいれば、きっと信じられないって顔で驚いたはずだ。)
カン堂主を除く誰もがそう思ったが、考えればフニがいればテギョンが口を挟むはずがない。
それは絶対にフニが口を挟むからだ。
それほどにこの昔話は退屈な話だった。
とはいえ模諜枢教の目線では大筋こそ違いはないが、細部や表現の仕方は変わってくる。
ジェルミが教えられたのは、甲州が梵国と姫乙を助けただった。
まぁそんな事はどうでもいいんだけどとジェルミは思う。
この退屈な話はまだ先が長いからだ。
ただカン堂主も察したように、「ここから宗家の話になる。」と言い、お茶で喉を潤すと、講義を続けるかのように話し始めた。
「甲州は梵国と姫乙を手に入れ、名を陽(ひ)の国と改めた。
甲州は模諜、梵国は風林、そして姫乙は斐水と名を変え、模諜と風林の間には新たに光焔と言う都が作られた。
斐水からこの二都市を通って水の道を作る為だ。
指揮を執るのは模諜の貴族で、彼らはその血脈こそが最も尊く優秀だと考えていて、彼らならどの地も滞りなく統率すると考えていたし、水の道を模諜の都まで引けると信じていた。
しかし・・・・・・そう上手くはいかなかった。」
カン堂主は感慨深げに嘆息する。
「光焔には、甲州から続く模諜の風習を持ち込む事ができた。
だが、斐水と風林には先住の者がいる。 それぞれに習慣やしきたりが出来上がっているのだから、そこに新たな風習を持ち込んだところで、すぐに馴染むはずがない。
問題だったのは水のない模諜に、水の何たるかが分かるはずがなかった事だ。
広大な平地に暮らし、風林の気候を知るはずもなかった。
彼らは模諜と同じように治めようとして、失敗を重ねる。
なにより一番大きな失敗をもたらしたのが、水の道だ。
むやみに水を動かした事で、雨が降ると溢水(いっすい)するようになった。
だが斐水に住んでいた者が声を上げても、模諜では溢水を被害とは考えなかった。
だが、僅かでも溢水は溢水だ。
気にすることなく掘り進められた水の道によって、風林の地も被害を被ることになる、斐水に大雨が降り堰(せき)が決壊し、作業途中の水路に水が押し寄せるとそのまま氾濫を起こしたのだ。
斐水は壊滅的被害を被った。
中州は水に浸かり、家は流され人も流された。
工事を行っていた者だけでなく、模諜の貴族も命を落とした。
水は斐水に止まらず、この風林にも及んだ。
風林では人や家が流される事はなかったが、作物が全滅した場所があり、水の届かなかった作物も水が運んだ病によって立ち枯れた。
それでも、模諜にとっては念願の水だ。
一度の失敗で断念する事はできないと、斐水の再建と水路工事に労働力が送り込まれた。
しかしどれほど頑張った所で自然には勝てない、作っては流される事が繰り返され、そのたびに模諜の貴族は命を失うか、生き残りはしても財産が流される憂き目にあうのだ。
やがて斐水に貴族は来なくなった。
貴族が移り住むには、斐水は野蛮な地だと判断されたのだ。
代わりに送られたのが罪人と兵だ。
兵は屈強で罪人は使い捨ての労働力となる。
問題だったのは、溢水が起きない道を作る事だが、これは容易ではなかった。
雨が降れば水が溢れ、その水が引くまでは何もできない。
監督役の兵の中で、位が上の者は下位の兵に仕事を任せて光焔まで戻り、そこで時を潰しては時折様子を見に来るようになった。
模諜が用意した地図を元に、どんなに頑張って水路を作ろうとしても、模諜が望む結果にはならないのだから、嫌気も差すというものだ。
そうなると斐水には下位の兵と罪人、それと元からの住人だけが残った。
だからか、その後長い間模諜は斐水を罪人の子孫の地だと蔑んでいた。
だが、その中から声を上げる者がいた。 それがコ門主の先祖だ。
彼は模諜の兵に、模諜にまで水を引くから任せて欲しいと願い出たのだ。
その頃、風林でも修行僧だったカン家の先祖が、水害により収穫の落ちた風林で、模諜の貴族に代わって起こる全ての事に対処し、国に税を納めると言った。
だが風林の地の作物は、病によって半分はダメになる。
税をどう治めるのかが問題だったが、風林は山に囲まれていて、山には水の被害が及んでいない。
そこで自生している薬草を積んで納めることにしたのだ。
むろん、どれだけ採るか、どこから採るかなどは、細かく計算されていた。
それゆえ今の風林には薬師が多いのだ。」
テギョンはふと夢を思い浮かべた。
夢に出て来た中に、医師と薬師の格好をしていた二人がいた事が前世を思い起こさせ、足に乗せた手を握り締めさせる。
「長年の治水工事に水害と干ばつ、模諜は疲弊していた。
その上古くからの慣習による問題と、さらには新しく手を出した北の地の開拓、優秀だとの思い上がりが、模諜を収拾のつかない状態に追い詰めていた。
その為に斐水が治水を進める事も、風林の要求も通ったのかもしれないが、それこそが宗家の始まりとなった。」
このとてつもなくダラダラと長い話を、テギョンは黙って聞いていた。
多弁なフニで慣れている事が、功を奏したのかもしれないが、これでは風林堂ができた経緯はわかっても、宗家の格やその順位付け、さらにこれほど増えた理由までは分からないままだと思う。
そもそも国の成り立ちなど大同小異、栄枯盛衰が世の常で縹炎が戦で敗れた成れの果てだと言われても納得できる。
「他に知りたい事があるか。」
カン堂主のこの言葉にテギョンは疲れたように首を振った。
だがすぐに思い返したように「ある。」と言い直す。
あまりに疲れて考えが巡らず、前世の二人に囚われた為にすっかりもう一つの事件を忘れていた事を思い出したのだ。
「光焔事件、何があった。」
ジフンがピクリと反応する。
「他宗家の事は分からない。」
カン堂主の返事にテギョンの目は鋭く細められ、ジフンは一層背を丸める。
「分からないじゃなく口出せないという事か。」
テギョンは諦めに近い嘆息を落として呟く。
風林堂ほどの宗家が何も知らないわけがない、情報はあるが言わないだけだという事はテギョンにも分かる。
「それが宗家の掟であり、それが風林堂を守ったのだろう。
だが状況は変わっていく。
カン・シヌの婚姻はそれが理由だったのでは?」
「何故そう考える。」
僅かに顔を引き攣(つ)らせてカン堂主が訊く。
「宗家統一、ミナムの力、模諜枢教、そしてカン・シヌ、この手掛かりで答えが出る。」
テギョンは見透かしたように言い、対するカン堂主も推し量るように見返す。
「それだけで推測するのは、難しいのではないか。」
それで何が分かるのかと、さらなる答えを求めてカン堂主が問い質す。
「模諜枢教が、子が生まれるよりも前に斐水門と縁を繋ごうとしたのは、宗家統一という野望が模諜枢教にあったからだと考えれば、それを知った斐水門が縁を切る為に策を講じたのも頷ける。
でなけりゃ全部正直に話せば済む事だ。 ミニョの命は先がないと思っていたんだからな。
だが先はなくても縁は結べる、それをコ門主は避けた。
ミニョを最初からいない事にしたんだ。
それが最善だと考えたが、先が短いはずのミニョが生き残り、継承者となるべきミナムが亡くなった。
その上ミニョは、とてつもない力を持っていた。
コ門主は取り繕ったのだろうが、噂まで消しさる事はできない。
とすれば、一度は縁を切る事を選択した模諜枢教が、再び縁を紡ごうとしたのは、どこかでミニョの力の噂を耳にした事が理由だと考えるのが理に適う。
その上ミナムが溺れて死んだとなれば、ミニョをミナムとして育てたのではないかとの想像が働く。
当然男で通せる時が過ぎれば、次に装うのは死以外にない。
実際ミナムが溺れミニョに戻った事は、斐水門のコ門主にとっては都合よく、利用しない手ではなかったが、モ教主は考えたはずだ。
斐水門の継承者が水に溺れるなどあるはずがないと。
さらに新たな継承者となったコ・ドンジュンはコ・ミナムと同じ年の生まれで従兄だと知らせが届く。
疑惑は確信に変わる。
見せられた赤子はドンジュンだったに違いない、約束の子は斐水門のどこかにいる。
そうとなれば手を尽くす、だがその答えを得るまではさらに時がかかった。 斐水門も必死に隠してきたのだから当然だが、隠し通せる秘密はない。
コ門主もそれが分かっていたから、ミニョがミナムとなった時にカン堂主を頼った。
おとなしい女子なら奥深く閉じ込めて育てられるが、男子ではそうもいかない。
それになにより、いつまでミナムでいるのかも分からない。
この先どうなるか分からない中、それでもシヌとミニョの縁を結んだのは、斐水門が模諜枢教と縁戚になると一番困るのが風林堂だからだ。」
「どっどうして!!」
ジェルミがこれには口を挟まずにはいられないとばかりに声を上げる。
模諜枢教との婚姻を阻む為だけにミニョを娶ると言うのかと、食って掛かりたいのを我慢する両の手は、きつく握られ震えている。
「模諜枢教が娘を盾に指示をすれば、斐水門は従うしかない。
光焔教を廃してまで迫って来た模諜枢教と対峙する間に、背後を斐水門に刺されかねない。
そう考えればさっきの堂徒の行動も理解できるだろ。
考え足らずだが、あれはあれで風林堂を思っての行動だ。」
テギョンはそうだろうとカン堂主を見る。
事実全くもってその通り、とまでは言えなくても、あらかたは間違ってはいない。
だからこそカン堂主は何も言わなかった。
「だが、大事な事が抜けている。」
テギョンの言葉にカン堂主は眉を寄せ、一頻(ひとしき)り考えたが分からずに訊く。
「大事な事とは何だ。」
テギョンはすぐには答えなかった。
カン堂主を見て、周りの者を見て、再びカン堂主に視線を戻して口を開く。
「ミナムの気持ちだ。」
「気持ち? そこで寝ている者の気持ちの、何が抜けていると言うんだ。」
ミナムを指さして呆れ顔のカン堂主は、やっぱり分からないって顔だ。
「昨夜、ミナムは緊張してた。
飲み過ぎなのは分かっていたが、俺は止めなかった。
飲めば眠れると思ったからだが、結局一晩中うなされていた。
ミナムにとってここはそういう所だ。
そんな事、一度も考えはしなかっただろう。」
言われて初めて考え始めるカン堂主と、子供でないミナムと数日過ごしたシヌとでは、その表情は違うが、結論は同じだ。
「しかしここに居たひと月もの間、虐げた事など一度もないぞ。」
そうなのだ、カン堂主は勿論の事、風林堂の誰一人としてミナムを苛めた者などいない。
隣から預かった子として大事に守っていたのに、何故そう思うようになったのか、見当もつかなければ正直遺憾にすら思う。
「この風林堂にコ門主がミナムを連れて来たのは、一つは斐水が置かれた状況の説明、もう一つはこの奇異な病の相談だと推測できる。
コ・ミニョが心気の病を患いその薬を風林堂に求めた事を思えば、コ門主は誰よりも頼りとし、なんとしても元に戻そうとしたんじゃないか。
だがそれはミナムを消す行為だ。
顔は笑っているが、腹の中では消えろと思ってる相手とはいい思い出になるはずがない。
ミナムが目覚めたのはミニョを守る為で、何でもないって顔をしていたんだろうが、内心は不安だったはずだ。
何しろ子供なんだからな。」
テギョンがそう言えるのは、彼もまた子供ながらに周りの空気を感じながら生きて来たのだ。
幼い時は誰にも顧(かえり)みられない空気、丘の家を抜け出してからは獣の気配、おじさん以外の人と出会ってからは人の持つ好奇の目を知り、人の好意も悪意も知った。
どれほど今のテギョンが卓越した能力を持っているとしても、子供の時は不安の中にいたし、怯(おび)える日も数えきれない程あった。
テギョンを取り巻く環境は、数年ごとに変化し、そのたびに慎重になっていった事を思えば、目覚めたミナムに戸惑いがなかったとは考えられない。
「一つ提案がある。
縹炎宗でも男女の居住は分けてはあるが、風林堂はもっと厳格に区分されていると思う。
だが、ミナムはどちらにもできないだろう。
そこでこいつは俺と同室でいい。」
「えっ?」
何人かの驚く声が聞こえてくる。
「幾夜も同じ空の下で寝ただけじゃない、同じ部屋で寝たこともある。
今更驚く必要があるか。 ミナムは男で心配は無用だ。」
「なにゆえ男だと言い切れる。」
カン堂主が神妙な顔で訊く。
男だと言われても信じきれず、ミナムだと名乗っているだけ見せているだけと言われれば、そう思えなくもないからだ。
だがテギョンには言い切れる物差しがあった。
「簡単だ、俺は人より少しばかり暑がりで、宗家の宗主としては問題なのだろうが襟元を開いておく癖がある。
この程度ならミニョも特には気に留めなかったが、大きく開(はだ)けていると顔を俯けたり背けたりした。
だがミナムは気にしないどころか、平気でくっついてきて触りもする。
俺は人に触られるのは嫌いだったが、ミナムのせいで気にならなくなった。
女ならそうはいかないだろう。」
テギョンは片側の口角を上げて、笑ったような顔になる。
だがカン堂主にはそれは良かったと言うべきか、問題だと思うべきか、正直分からなかった。
問題は起きないと分かっていても、シヌの許婚である以上道義的にどうなのかと言う問題が残ってしまうからだ。
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自分で書いておいてあれですが、
長いいつまでこの会話は続くんだって思っております。
一応念の為書いておきますと、
次回もまだここから出て行けないんです
頭の中ではサラッと流れてたんですが、
いざ書くとこうなるかってくらい長くなってしまっていて。
さらに念の為書いておきますと、
テギョンが語った事は、テギョンの推測です。
ピースを集めて答えを導き出すテギョンなので、
ミニョには有無を言わせず、守る事を前面に押し出して行動してきたわけですが、ミナムに対しては違ってきているのです。
テギョンにとってミニョとミナムは別人で、
横で寝ているミナムと、夢の中の前世のミニョが、
テギョンの中で交差しているんだけど、
それをどう書くかとなって、今回はここまでと。
見えないかもですが、ミニョとの恋に向けて動いているのですよ、これでも。