― 風林の宿 ―

 

 翌朝、宗主の部屋に出発の確認に伺った宿の主人は、戸口の外まで聞こえてきたテギョンの声に驚いた。

 宿の主人にあるまじき行為だが、彼はそろりと戸を開いて中を伺い見る。

 そこで、宗主の前に座らされて怒られているミナムの姿を確認すると、宿の主人は開いた時と同じようにそろりと戸を閉めてその場を離れる。

 宿の主人は、昨夜お付きの者を担いで戻って来た宗主の姿を見ていて、何かあったと考えていたのだ。

 だがまさか酔っ払っての事だとは思いもしていなかった。

 主人はすぐに、酔っ払った配下を抱えて戻るなど、見た目と違って義理人情の厚い宗主だと思い、ここは声を掛けるべきではないと判断したのだ。

 

 「いいか、今後絶対に酒は禁止だ。」

 

 再び聞こえてきたテギョンの呆れる声に、宗主の前で潰れるほど飲むお付きの者がいるなんてと、首を振り振り息を吐きだして帳場に戻った。

 そこに出発準備を終えたドンジュンとフニが姿を見せる。

 

 「おや、もうご出発なのですか。

 お顔の色が・・・・・・お薬をお持ちしましょうか。」

 

 即座に駆け寄って宿の主人は二人に声を掛けると、フニの顔色を心配する。

 

 「いえいえ、ただの二日酔いですから。」

 

 フニは笑顔で丁重に断る。 すでに薬を飲んでいたからだ。 だが、まだ完全に効いてはいない。

 

 「風林の笹酒は、格別の味わいがあって涼やかでスルスルと喉を流れていくので、ついつい飲み過ぎてしまいました。」

 「どのくらい飲まれたんです。」

 「そうですね~、大きい甕を二つ三つは飲んだと思います。」

 

 フニは痛む頭に手をやりながら言う。

 

 「笹酒はサラリとはしていますが火酒ですから、それだけ飲んで翌日こうしておられる方は滅多にお目にかかれません、よほどお強いのですね。」

 

 宿の主人は調子よく驚いてみせてフニを称えると、つい口を滑らせる。

 

 「宗主のお付きの方も随分とお飲みになられたようでしたが、先ほど元気に・・・・・・その・・・・・・」

 

 慌てて噤んだ口を結ぶと、二人の顔を見返した。

 

 「その、って・・・・・・」

 

 ドンジュンが訊き返す。

 

 「あ、このような事を申し上げていいのか・・・・・・

 先ほど宗主のお部屋で・・・・・・」

 「部屋? かまわないから早く。」

 

 宗主の部屋と聞いて、ドンジュンの頭の中では、よからぬ想像が膨らんで急かしたてる。

 (反対すべきだった、男同士だと言っても反対すべきだった。)

 後悔するドンジュンの前で宿の主人が言う。

 

 「元気に怒られておいででした。」

 「怒られてたのですか?」

 「誰が誰に怒られたって?」

 

 フニが訊き返しているところに、ジェルミとジフンがやって来た。

 こちらもお通夜のようにどんよりと重い顔で声を掛ける。

 晴れやかな顔をしているのはヘイくらいで、聞こえてきた宿の主人の証言にますます上機嫌だ。

 

 「でも怒られてるのに元気って?」

 「ああそれは、」

 

 主人はまた口ごもって唇を舐める。

 

 「俯いてましたが、大層ご不満そうな顔をされていたので、そう思ったのです。」

 

 この主人、客商売としては儀礼違反とも言える行為なのだが、本人はお付きの者の事を報告しただけだと思っている。

 三栗谷街道では宗家にはたいして権力を感じなかったが、風林の都では宗家の者は権力者であり、見聞きした事を報告する義務があるのだ。

 と言ってもこれは報告すべきかどうか疑問だったようで、小声でそう話したところに当の本人がやって来たものだから、そそくさとその場を離れる。

 噂の当事者であるミナムはというと、まるで死人のような顔でテギョンの横にいたが、ドンジュンを見つけて駆け寄ると、頭が痛い気分が悪いと訴えた。

 

 「飲みすぎだよ。」

 

 呆れながらもドンジュンは懐から飲み薬を出して、ミナムに手渡す。

 こめかみに手をやったまま、水もないのにミナムはそれをそのまま飲み込んだ。

 

 

― 風林堂 ―

 

 二日酔いの二人を連れて梵天山を登るのは、かなり骨が折れたが、それでも約束の刻限に間に合うよう、約束の山門に到着した。

 テギョンたちが約束の山門だと思った風林門は、実際には門番の堂徒が立っているだけでシヌの姿はない。

 その上この堂徒にジロジロと不躾な視線を向けられては、誰もが怪訝な顔になり、さらには睨みつけたり軽蔑の眼差しで見返した。

 だがテギョンだけは表情一つ動かさない、その横でミナムがため息のように息を吐く。

 

 「僕らは客人なんだ。

 ここでこんな堂徒の相手なんてする必要ないよ、ここは誰でも通れる門なんだから。」

 

 じっさいミナムの言う通りだ。

 ここに来たのはシヌとの約束であり、シヌは堂徒の上役で集まったのは名門宗家の継承者や宗主で階級も格も上なのだ。

 なのにミナムがそう言ってもテギョンは動かない、ただ、じっと門番の堂徒を見つめるばかりだ。

 これには堂徒の方が困った。

 堂徒は彼らが宗家の継承者である事も、あの縹炎の宗主なのも知っていたが、堂徒にとってはこの風林堂こそが数ある宗家の中でもっとも尊き宗家なのだ。

 他の宗家を一目下に見ている節もあるし、縹炎宗など歯牙にもかけていない、だが門番の役目として案内があり、彼らが来たら本堂に案内するよう言い付かってもいる。

 そこでちょっと挑発すれば勝手に入るんじゃないかと考えたのだ。

 (そうすればきっと殺生門で立ち往生するはずだ。)

 そんな考えを読んだのか、まるでこちらが案内を言い出すのを待つようにじっと見つめられている。

 この状況では堂徒に勝ち目はない、案内しなければ上からまだかと誰か下りて来るかもしれないからだ。

 

 そんな堂徒を救ったのは、今だ二日酔いから立ち直れていないミナムだった。

 このにらめっこに最初に音を上げたのだ。

 テギョンはミナムを支えて門をくぐった。

 子供の時に短い時を過ごしただけだが、ミナムは風林堂を覚えていて、まっすぐに百八の石段へと向かう。

 

 「風林門は誰でも通れる門ですが、次の殺生門は勝手が違う。 力のない者は、門に跳ね返される。」

 

 百八の石段を上がりながら、堂徒が嫌みを込めて言った。

 

 「風林堂は情義を重んじるって聞いていたのに、聞くのと見るのとでは違うんだね。

 今言ったのだって、僕らが跳ね返されると思ってるって事だよね。」

 

 やはり我慢できずに口を挟んだのはジェルミだ。

 ミナムもおとなしくしている方ではないが、二日酔いで山を登り、石段を上がりでぐったりしてしまって、それどころではなかった。

 ミナムより少しばかりマシなフニもこの石段を半分も上がった辺りから頬を紅潮させ、ヒーヒーと息を切らし始めたものだから、堂徒はますます増長して鼻で笑う。

 白い顔でこめかみを抑えているミナムと、堂徒の話に青ざめているジフンと、赤青白の三人の顔色にそれ以上言い返せずにいたが、代わりにドンジュンがニッコリと笑い返した。

 

 「風林堂の結界を勝手に破る事はできないよ。

 きっとシヌ次期堂主が迎えに来てくれるだろうから、少し待てばいい、そうだろう。」

 「立ち入りを禁じているのは三つ目の門で、菩提門です。  

 殺生門は力試しの門なので、自由に試してみればいい。」

 

 最初の目論見通りになったと堂徒はほくそ笑み、勝ち誇った顔で『さぁ通れ』と言わんばかりに手を向ける。

 テギョンは何も言わなかったし、堂徒を見る事もなかったが、通ろうとしたジェルミを止めて暫く門を見ていた。

 それから堂徒の方に向き直る。

 

 「力試しと言うのだから、俺がこの結界を破る事に文句はないのだよな。」

 

 それは低く静かな声だったが、堂徒一人を威圧するのには十分だった。

 なによりテギョンは堂徒の返事を待つつもりはなく、懐から一枚の符を取り出すと、剣で指先を切ると滴る血で血の符を書きあげる。

 そして驚いている堂徒の前で、これ見よがしにその符を門に押し込んだ。

 

 結界が消える。

 

 これは結界を通るのとは全く意味が違う。

 カン堂主は勿論の事、シヌも結界が破られた事に気付くと慌てて駆けつけて来た。

 すでに全員が門をくぐっていて、テギョンたちは、現れたカン堂主らしき人物に気付くと慌てることなく一礼をする。

 震えているのは門番の堂徒で、まさかこんな事になるとは思ってもいなかったのだ。

 

 「ファン宗主・・・・・・」

 

 まずシヌが声を掛けた。

 

 「何をした。」

 

 カン堂主が訊く。

 だがテギョンは答える代わりにフニを見て、フニを慌てさせた。

 石段のせいで少々ぐったりしているが、頭は働いている。

 

 「こちらの案内役の堂徒の方が、こちらの門の事を力試しの門だとおっしゃって、そこで我が宗主が少々、ほんの少々力を使っただけなんですがね。」

 

 フニは堂徒を指し、門を指して説明した。

 その説明に驚いて、シヌが堂徒に訊き返す。

 

 「確かにこの門は力試しを兼ねているが、それは風林堂の堂徒に対してだけで、客人用の鍵玉(けんぎょく:風林堂の紋が彫られた軟石の札)は渡しておいただろう。」

 

 シヌの叱責に堂徒は鍵玉を取り出しはしたが、押し黙って俯くだけで何も言わない。 テギョンも一瞥だにせず黙ったままだ。

 だがシヌはとても恥ずかしかった。

 カン堂主も同じで、その顔は静かに怒っている。

 これは風林堂としての統率力を問われたようなものだからだ。

 何も言わないテギョンに、シヌは堂主に代わって頭を下げようとした。 が、それを遮ったのはテギョンの手だ。

 

 (やはり堂主でない私からでは受け入れられないか。)

 

 シヌが下げかけた顔を上げる。

 

 「水が欲しい。 コ・ミナムが夕べ飲み過ぎた。」

 

 これには流石のシヌも驚きを隠せない。

 目を丸くして今のは聞き違いかとテギョンを見る。

 

 「謝罪するつもりでいるなら、必要ない。

 この程度の結界、黙って通過すれば済む事だったが、フニもいるし、ユ・ヘイもいる。 ミナムもこの状態だ。」

 

 これが最善だったと、テギョンはシヌを見ることなく言って、しゃがみ込んでいるミナムを引っ張り立たせる。

 

 「飲みなれない身体で飲むからこうなるんだ。

 しっかりしろ。」

 

 気持ち悪いと訴えるミナムに、ため息交じりに言ってから、漸(ようや)くその目をシヌに向ける。

 そこで、それまで黙ってその様子を見ていたカン堂主が、こちらへと手で進む方を指し示した。

 ミナムを支えて本堂に着くと、木の床にはすでに幾つかの円座が置かれてある。

 なのにテギョンがそのまま上がろうとすると、待ったがかかる。

 シヌが、テギョンと継承者以外は先に部屋に案内させると言うのだ。

 確かにフニは不要でヘイも関わりない者だし、決めるのは風林堂でテギョンも口出しする気はない。

 フニはどのみち発言権などないのだから、さっさと部屋で横になりたいと考えたが、ヘイは違う。

 この中の誰よりも理解する力、解決への策謀もできると思っているのに、これでは邪魔者扱いだ。

 

 「コ・ミナムさん。」

 

 ヘイはあえてその名を呼んだ。

 ミナムは継承者でも宗家の者でもない、ただの宗家の親族に過ぎない。

 (私が部外者ならコ・ミナムだって。)そう思うからこそ声を掛けたのだ。

 なのにテギョンがそれを阻んだ。

 

 「こいつは当事者だ。」

 

 そう言い捨てて、そのままミナムを引っ張って中へと消える。

 驚き見つめるヘイは縹炎の六角堂を思い出して、少し茫然としていた。

 そこにやって来た若い堂徒がこちらへと示したのは、フニとは逆の方向だ。

 ヘイはどうしてかをこの若い堂徒に訊いた。

 本堂の方は姿を消せば入れるからだ。

 ヘイを案内するこの堂徒は、さっきの堂徒とは違っていて、落ち着いていて静かにその理由を述べる。

 風林堂では男女の区域が明確に分けられていると言うのだ。

 縹炎宗でも区域は分かれていなかったが、建物は違っていたことを思い出す。

 (だったらコ・ミナムはどちらに行くのかしら。)

 そう思いながらヘイは、案内する堂徒に従って女性だけが修行する棟に入っていった。

 

 その頃本堂ではちょっとした事件が起こっていた。

 何も言わずにテギョンが円座に座った事は問題なかった。

 だがその隣の円座にミナムを座らせた事にカン堂主が眉をしかめているのだ。

 そもそも宗家では、座るにも階級や格で決められている。

 この場合、本堂の主であるカン堂主は上座中央、その横にシヌが付き、向き合う形でテギョンたちが座る。

 当然宗主であるテギョンが、その席の上座となるのだが、

その隣はジフンの場所だ。

 

 縹炎宗ではこのような事を気にした事はなかったし、旅の間もジフンは小さく背を丸めて開いてる場所にいたが、誰もそれを気に留めなかった。

 残る全員が継承者なのだから、次に配慮すべきは年齢だとジフンは知っていたし、ジェルミもドンジュンもミナムもわかっている。

 時折フニに口やかましく言われるテギョンも、知らないわけではない。

 それでもテギョンはあえてミナムを自分の横に座らせたのだ。

 一方のジフンはテギョンの横に座る事が怖い事もあって、いつものように小さくなって後ろの方に下がってしまった。

 

 だがカン堂主はこういう事にことさら厳しく、二日酔いで唸っているだけのミナムこそ、末席に下がらせるべきだと目を細め、正すべきだと考えた。

 カン堂主がコホンと咳をした時、折り悪くシヌが水を持って来た。 

 コ・ミナムは膝に頭を挟んで丸くなっていて、テギョンがそっと肩を掴んでその身体を起こしても、ミナムの手はダラリと下がったままで、仕方なくシヌが膝をついて水を飲ませようとする。

 だがミナムは自分の力で身体を支えられずに、テギョンの肩に倒れ込んだ。

 とっさに支えたテギョンは、額にかかったミナムの髪をかきあげて声を掛ける。

 

 「ミナム、水だ。」

 

 その声は優しく、頷くミナムにテギョンはシヌから水を受け取ると、その口元に持っていく。

 ミナムはゴクゴクと喉を鳴らして器の水を全部飲み干した。

 テギョンは空になった器をシヌに返して、その手でミナムの口角から流れる水を拭うと「まだいるか。」と問いかける。

 首が横に振られ、うっすらと開いていた目が再び閉じられると、テギョンはもういいと言う代わりにシヌを見返した。

 シヌは小さく嘆息し自分の席に戻ったが、出鼻を挫(くじ)かれたカン堂主は、この空気に何も言えなくなった。

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~

一向に進んでいない様な気がするのに、

またダラダラと長くなってしまった。

 

えっと、宿の主人が怒っていたように見えたミナムですが、

こちらは単に気持ち悪かっただけです滝汗

それを入れるとまた長くなるし、

ドンジュンがミナムを𠮟れるのはテギョンだけだと、

梵天山に登る時にテギョン任せにした事も省いたの。

 

ここまで宗家を人格者の集団というふうに描いて来たんですが、(イメージは役所や警察のような縦社会)

中にはこういう勘違い野郎もいる。

それが清廉で有名な風林堂であってもね。

これで十分長くなってしまったから、

ミナムの水飲み場面は先送りにしようと思ったのだけど、

甲斐甲斐しくミナムの世話をするテギョンを入れておきたかったのよ。

甲斐甲斐しいとは書いてませんが、甲斐甲斐しいのです。

これまで命の危険がなければ怒らない、

一度注意すれば何度も同じ事は言わないテギョンが、

ポロリポロリとミナムに話しかけてる。

(ってだけなんですがね。)

 

そうそう『鍵玉』は造語です。 

殺生門通過の為の客人用の鍵です。

 

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