石見銀山遺跡が世界遺産登録(2007.7)を受けて早くも丸9年になる。地元では10周年の節目に向けての種々行事・催し物の準備で賑やかだ。この異様なお祭り騒動、本来の遺跡を離れて<記念行事>だけが<独り歩き>する中で、静かで密かな<自分なりの10周年>を総括したいと思い立った事です。

 一地元人が見た、石見銀山遺跡の魅力と飾らない真の価値について、自分成りの個人的な視点・観点と、専門家では無い地元の一般人ならではの構成と綴りに成っています。

 

 過去に公開したブログや動画などをリンクして辿り易くし、更にはこの10年に学び感じた新たな内容も加えた物です。

 是非、このサイトが石見銀山についての入門・初歩的な理解への一助と成ればと思っています。そして延いては<石見銀山遺跡>への関心と興味への端緒・入口に成れたらとも願う者です。

 




     はじめての石見銀山  ~世界遺産・石見銀山遺跡 地元人が見た真の価値とは~
  http://iwamiginzan.org/

 

 ※ 元記事 2016.7  部分加筆

 

 ● 路草・復路編 

  龍源寺間歩を見て帰路の就く。銀山の鉱山地区への起点と成っている銀山公園に戻るが、帰りは往路で辿った舗装の自動車道から銀山川を挟んで併行する<遊歩道>を辿り、見落とすと勿体無い幾つかの歴史のスポットを簡単に紹介する。狭く舗装の無無い部分もあり砂利道と、アップダウンの雨には滑る木道などが続くが、用心・注意して歩けば自然の草木が近くに茂り、この田舎ならではの癒しの道で人気だ。

 

 ~YAHOOブログの閉鎖に煽られ 急ぎ移住中につき 暫し 要検討の未完稿~

 

 

 龍源寺間歩を出て、緩やかな下り坂を暫く進む。天気と店主の気分で開く土産物店の先、右に山神宮<佐毘売山神社>、先の左林には露頭掘り跡<太鼓堂下露頭・仮称>の岩の裂け目が見える。神社階段下の先の岐れを左の遊歩道に進むと、左の藪の奥に見える。危険を冒さ無くても見られる<貴重な露頭掘跡>だ。突き当たりの<高橋家住宅>を右に進み帰途に就く。 駐輪場から暫くは来た道を戻る。

 

 

 

 

 ● 順勝寺跡 宗岡佐渡守比翼塚

 駐福神山間歩の向かいの川を挟んだ林の中を分け入ると順勝寺跡だが寺の痕跡はほぼ無い。関心事は川の飛び石を渡った先の林と茂みを上り進むと、宗岡佐渡守の<比翼塚>がある。

 

 宗岡佐渡は、元は毛利氏に仕えたが、徳川の銀山支配のため吉岡出雲らとともに石見に赴き、初代銀山奉行・大久保長安の下で働き、特に<鉱山の見立て・探査>に優れて多くの功績を上げた。

 

 

  その後に佐渡を任され、吉岡出雲と同様に石見の鉱山技術を伝えて、佐渡金銀山の繁栄に貢献した。後に子孫が建てたと伝わる。妻の墓と並ぶ比翼塚は、この辺りでは珍しいものだ。<比翼塚>とは、相思の男女を一緒に葬った塚<夫婦塚>のことで、是非見て貰いたいが、残念ながら途中林は荒れていて、案内が無いと単身は危険だ。不慣れな一般の方には、現時点お勧めできない。将来、整備されることへの期待を込めて、今回ここで紹介だけをしておく。

 

 ただ、比翼ではないが夫婦で並ぶ墓は、第二代銀山奉行・武村丹後守のものが、街中の代官所裏の勝源寺境内にある。ただし妻の墓石は無縁墓塔だ。

 

●旧極楽寺跡 吉岡出雲守墓

 吉岡出雲は、毛利氏に仕えた長門の武士で、徳川家康の銀山支配に伴い、宗岡佐渡と同様に初代銀山奉行・大久保長安に推挙され銀山付役人となった。後に、伊豆や佐渡に派遣され更なる功績をあげた。

 

 

 ここで実用化・産業化された銀精錬技術<灰吹法>などの、鉱山技術や鉱山経営のノウ・ハウなどが、石見銀山から国内の他の鉱山に移転・伝えられて、国内の産銀量の飛躍的増産に寄与したと説明されるのはこのような流れをいう。

 

 

 なお、極楽寺跡は長い階段右奥の更に上辺りだが、荒れて崩れた石垣や砕けた灯篭などが残るのみとなっている。また、吉岡出雲の墓とされる立派な宝篋印塔は、雑木・倒木深く足元危険なので、確たる同行者がないとお勧めしない。立派な墓を残す程の多くの功績を石見に残した代官として紹介する。

 

●緑陰の道 紅葉の路

 ここから暫くは、木々の戦ぎと銀山川のせせらぎに癒される道だ。春には少しばかりの山桜、新緑の頃、紅葉の乗ろ、冬枯れの風に舞う落ち葉、雪のある日などには風に揺れて枝から降り掛る雪などは、イト・オカシだ。柄にもなく詩情に駆られる辺りだ。感性豊かな方にはお勧めだ。

 

 

  更に盛ると、この遊歩道は年中耳に心地良い。木々を揺らす風の音、遠くに近くに聞く名も知らぬ鳥たちの囀り。春から初夏の鶯、梅雨のモリアオガエルの太い声、煩いが声の種類で季節の移ろいを感じる蝉しぐれ、秋口の物悲しい蝉の声、初冬に踏み進む枯葉の軋みや風に舞う乾いた音、笹原を打つ雨の音霰の音、厳冬に雪の重みに耐えきれず裂ける竹の音、枝に積もった雪が風で落ち砕けるのもまた良い、どれもが季節の楽しみだ。

 

 

 勿論、四季折々の野の花・里の花も良い。和むに良しカメラに良しだ。矢張り遊歩道は大勢で急かされ大勢で歩くより、少人数でゆっくりが良い。このコースはついつい、寺だの墓だのと陰気な話になるが、自然に浸り気儘に歩けば、文字通り<路草の楽しみ>がここにはある。・・などと自慢げに話すも、何処にでも有る只の田舎の自然で、皆にどの様に聞こえているかは無反応で不明だ。

 

 この先は、遊歩道らしい趣のある路が続く。ただ、急斜面に囲まれた狭い山間の自然道で点検・安全確認はするも、まれに落石・転石などあって、現地の<注意喚起・規制>にはご留意必至だ。

 

●新切間歩

  初めは、近隣の間歩の排水坑として掘られたものだが、代官所の開発資金を投じて掘る内に、大鉱脈に突き当たり代官所の直営鉱山<御直山>として大いに栄えた。よってこの間歩の内部は、鉱石の採掘・搬出用の坑道と、排水用の坑道との上下二本が平行して走り、途中を竪坑で繋ぎ、疎水・通気を図ったという。入口手前の川の飛び石と階段は、滑るので要注意だ。最悪落ちても水は浅いが転ぶと厄介だ。

 

 

●清水寺

 ここでは<せいすいじ>と読む。その縁起によると推古天皇の命により、聖徳太子が観音像を造って安置したことに始まるとされる。元は、銀山・仙ノ山山頂の池の畔に建てられ<天池寺>と称した。その後に、桓武天皇が勅願寺とし名を改め後に<清水寺>となった。何とも有難い古い話であちこち良く解らないが、否定する根拠もない程の、そんなロマン溢れる話が伝わる。素人には掴めない貴重な資料が提示される。

 

 

  ここで語られるのが、石見銀山切っての山師・安原伝兵衛との関わりだ。旧い記述によると信心深い伝兵衛は、この寺に篭もり願を掛け、やがて観音菩薩の霊夢に導かれて、<釜屋間歩>と呼ぶ大鉱脈を掘り当てたのだと伝えられる。何れも石見銀山にとっては重要な伝説だ。

 

 ただ、この辺りの話もまた色々交錯するが、唯一確かな史料として残る物に、清水寺再建時の棟札にその名があることから、寺との関わりがあった事だけは確かの様だ。


 大成功した伝兵衛は、大量3,600貫(13トン)もの銀を運上し、この功績により伏見城の徳川家康に謁見し<備中守>の称号と、褒美の品々を拝領した。後にこれらは子孫により、ここ清水寺に寄贈された。しかし残念ながら寺宝の釜屋銀造の観音像共々、現時ここには無い。

 

 折角の由緒・謂れある寺なので、せめてここで見える物としては、本堂を外から覗き見る天井の、初代銀山奉行・大久保長安の<下がり藤の家紋>だけだ。天井は寺の再建の時に寄進した代官や地役人や有力商人達の、極彩色の家紋を配した格天井だ。ただ、覗く際には、拝殿前の足元の床板古く、一度に大勢では不用心で呉々も注意を・・。探すと大久保長安の下り藤の家紋が見える。

 

 

 更には、裏山の朽ちた祠<天満宮>は、銀山開発初期に神屋寿禎らと共に、最初に入山し開発史に名を残す掘り子・於紅孫右衛門を祀るものだとされるが真偽の程は定かではない。ただ、訪ねるには路狭く高くて、足元十分十二分にも注意を・・。

 

 

 なお、地元石見神楽団の創作演目<於紅谷>にもある、何かと話題の<於紅孫右衛門縁起>に残る、興味深い忌まわしい悲劇の昔話の顛末や、スキャンダルの時代背景などは、当ブログの古い記事はあるが、近頃の騒めきも絡めて改めて後の項目で述べる。

 

●清水谷精錬所跡

 進むと小さな丁字路角に<清水谷精錬所跡>サインがある。進み見上げると城跡の石垣を連想させる階段状の石組みが広がる。近代的な先端技術を取り入れた、銀精錬工場の跡地だ。

 

 

 説明版にあるように、山の斜面を利用した平坦地の各段には、工場施設が立ち並んでいた。明治28年に大阪の藤田組(現・DOWAホールディングス)が、当時の20万円もの巨額を投じて建設するも、僅か1年半で操業を停止した。裏の山を越した谷(本谷)で採掘した銀鉱石を運び、精錬する予定であったが、既にその銀鉱石の品位が落ちて、実際の精錬には結び着くか無かった事などが、その原因の一つとされている。

 

 発掘調査では、精錬活動を示す、キューペル(骨灰皿)のほか、多くの遺物が出土した。

 

 

 この清水谷製錬所は、ここ石見銀山の歴史の中の、特に銀鉱山としての歴史の中で唯一、産業革命以降の西洋の近代的技術による製錬施設だ。また同時に、ここ石見銀山最後の<銀鉱山遺跡>で、<銀山終焉の地>でもある。

 

 ここで、良く尋ねられる石見銀山の終焉に至る経緯についてだ。銀山(銀)の歴史は、1896年(明治29年)ここ清水谷製錬所で終わったが、銅鉱山を含めた石見銀山としては、尚暫く続いた。隣に聳える城山・要害山の西側に遺跡が残る<永久鉱山>がそれだ。

 

 第一次世界大戦の特需で潤い、終戦不況で低迷し1923年(大正12年)に<休山>、その後の第二次世界大戦下で再起を模索するも、戦況の一層の悪化に加え1943年(昭和18年)のこの地方の大水害による工場施設の流失、坑道の水没などで営業の再開を<断念>した。この時をして<石見銀銅山>は完全に<閉山>となった。

 

 その後、石見銀山は世界遺産という、思いもしない容で蘇ることとなった。なお、時間や距離を考慮して、精錬所や選鉱場、およびここに至る鉱石の流れを辿る経路などの詳しくは、後の項に譲る。なお、当ブログの古い記事にも多少は説明はしている。

 

●安養寺 鏝絵

元は、仙ノ山山頂付近に天台宗の寺として開山、後にここに再建されて、本願寺派・浄土真宗の寺となった。織田信長と石山本願寺との間で長く続いた戦い<石山合戦>の折には当寺からも門徒らが加勢・参戦し、その折の功労で顕如上人から賜った数々の貴重な品が今に伝えられる。

 

 

 

 なお、当寺所蔵と噂に聞く伝説<鬼の歯?>なる珍品について、興味本位で尋ねると<昔は恐る恐る見ていたが、なぜか今はない>とのお話で、ちょっと残念ではあった。

 

この石山合戦には大森のほか、近隣の多くの寺々からも参戦し、中には駆けつけた時には、すでに和議が成立していて、すごすごと戻ったという話もある。

 

 また、境内の経堂には、左官の漆喰芸術<鏝絵>がある。品格を感じる雲龍の鏝絵は見事だ。ここ大森では町中の西性寺経堂との二箇所だけだ。石見地方では、古くから多くの優秀な<石州左官>を輩出し、各地に腕自慢の鏝絵を残している。全国に、鏝絵の研究者やファンも多い。本堂前からは、山吹城跡が間近かに見えて、要害山に白壁の経堂を被せたアングルは、写真に良い。

 

 

●銀山大盛祈願道場碑 馬頭観音

 この大きな石碑は、ここが奥にある龍昌寺の参道入り口に当たり、江戸・嘉永2年の銀山大盛の祈願法要が行われたことの記念碑だ。また、すぐ先右脇の祠は、江戸時代に広く信仰された、馬の保護神<馬頭観音>だという。馬が大切にされ多くが行き交った時代の名残だ。

 

 

 

●龍昌寺跡 宝篋印塔 川崎平右衛門墓

 佐毘売山神社とともに、銀山大盛祈願所に指定されるほどの有力寺院で、多くの宿坊と広い伽藍を有したという。歴代代官の菩提寺でもあったことから、杉木立の境内には、浅岡彦四郎、川崎平右衛門のほか、多くの代官の墓がある。

 

 

 分かり易いものでは、参道を進み長い階段を登り詰めた辺りの、右山側には川崎平右衛門の墓、サインもあるが足元柔らかく落ち葉も滑るので要注意だ。境内の正面突き当たりの左崖上には浅岡彦四郎など代官の墓塔がある。特に石窟に建つどっしり大きな二基の宝篋印塔は逆修塔だとか、説明版不鮮明でが良く理解できないが、見応えがある。

 

 

なお、<宝篋印塔>は鎌倉期に一般化した、中国由来の供養塔・墓碑塔のこと。境内は見通しが利き安心だが、この辺りも斜面の石段が崩れて、看板の通り現時点危険だ。上手に滑り転べば良いのだが、山道を歩き慣れない方にはお勧めはできない。取り敢えずは写真にて・・。

 

●銀山川の清流

町に近づき、少し開けるが歩道は狭く込み合い、通行は譲りあってお願いします。清流と言うには小さな流れだ。所々に色々な表情があり、小魚や沢蟹などもいて、アオサギが反🄬手を狙う。子供たちが魚や沢蟹を見つけてはしゃぐ。途中に途切れもある手摺・足下・落石にはご注意を・・。

 

 


●大安寺跡 幻の逆修塔

 大安寺は、浄土宗の寺で初代銀山奉行・大久保長安が菩提寺として開基したもの。昭和18年の水害で被災、その後に廃寺となった。階段の上に大安寺と刻んだ石塔のほか、奥の山には朽ちた墓塔・墓石・石仏などが残る。長安の大安寺は、奉行を務めた新潟・佐渡にもある。

 

 

  ここでは、寺の話より大久保長安の<人と成り>についての話がよく出る。ここ石見銀山をはじめ各地で華々しい成果を上げ蓄財し、信心深くも欲深くもあったのか、自らの菩提寺を建て、生前供養のための逆修塚を幾つも造るなど、遣り手として私生活でも豪快であったたらしい。

 
 

 

  <逆修>とは、当時の仏教思想で死後の往生のために、生前に墓を造り仏事を行うことをいう。下世話に言えば、生きているうちに自分の墓を造り拝んで功徳を積めば、死後のご利益が多いということらしい。

 

 その逆修塔と思われるものは、墓に向かう階段を上った先の草むらに無残に散ばる。ばらばらに転がる石塊は、宝篋印塔の部材らしく、組み立てると巨大なものだと想像される。だが、検証も出来ない今では、素人の希望的推測で只の石ころだ。

 

 

 なお、長安の逆修塔とされる物は、形は違うが温泉津の愛宕神社と、恵こう寺にもある。

 

 

 階段上の囲いに建つ五輪塔は、後世に再建された長安の墓塔で、戒名と命日が刻まれる。脇の平たい石碑は、後の代官が長安を称えて建てた紀功碑で、その書は佐和華谷に依る物とされる。

 

 なお、五輪塔は平安中後期に普及した供養塔・墓塔の様式。密教で説く五大(地・水・火・風・空)を下から、方・球・三角・半球・宝珠の形に表したもの。

 

 さて、死後のご利益の話だが、仏様もお金持ちに甘いのか、金持ちの思い込みが甘いのかは不明だ。果たして逆修のご利益はあったのか無かったのかは知らない。長安の死後に家康は、予定していた長安の葬儀を取り止め、長安の不正嫌疑に連座した者を粛清し、長安の妻子・妾を死罪にしたという。

 

 長安は、何故それほどに家康の恨みを買ったのか、諸説あって正しくは知らない。<長安事件>として語られる中に、大枚の不正蓄財があったことや、宣教師に徳川倒幕の書状を託したこと・・、などとされる。確かに家康は家臣に気前良く散蒔かないと身が持たないが、長安はその必要はないし、原資は配下の金銀山で、私腹は肥えるばかりだったのか、などと勝手に卑しい想像をする。いずれ、今も昔も<遣り手(敏腕家)には裏がある>ということらしい。

 

勿論、多大な功績のあったことは、歴史の物語る通りだ。語り尽くせぬ長安の功罪等について、多くの研究があるので、そちらで・・。

 

●妙正寺跡

 元は清水谷に創建された、石見銀山に残る唯一の日蓮宗の寺だ。商工業者をはじめ多くの信仰を集めたが、昭和18年の大水害で本堂・墓所などを流失し、その後廃寺となった。このお堂は近年の再建、本堂周辺や裏の丘陵斜面には、荒れたままの墓地がある。戦国時代から昭和にかけての、500基以上を数える大小様々な、墓石・墓塔・墓標が残る。時代の長さや社会状況の変化などをも感じさせる、実にバラエティーに富んだ墓石・墓塔が並ぶ。ただし、斜面荒れて足元注意で・・。

 

 

 

●狭い木道 山吹の花

 階段や傾斜のあるも木道は、雨の日・雪の日など滑り易いので足元にご注意を。この辺りは特に狭いので、離合はゆっくり譲りあってお進み下さい。

 

 この辺りの右斜面には、<山吹>が群生して春遅くには一面の黄色の花が見事だ。あの太田道潅にまつわる逸話<七重八重 花はさけども山吹の ・・>の山吹だが、一重は山野に自生し、八重は庭園栽植用とされる。どちらかが実が成らない?と聞いたが、聞き違いか・・。

 

 

 東京新宿・早稲田から都電・荒川線で<面影橋駅>下車、橋の袂の神田川沿いに、道灌が狩りをしたと伝えられる<山吹の里>がある。今は石碑だけがあって山吹は無い。

 

 この花について、鉱山に関連していえば、<山吹き>は鉱石を溶かし金・銀・銅などを<吹き分ける>ことをいい、出来たものが<山吹色の大判・小判>だ。

 

また、この茎のスポンジ状の髄(山吹髄)を乾燥し、サザエ灯の芯にしたともいう。我が家にも、カンテラ用だったのか、素麺のように細くカラカラに乾いたものがある。子供の頃は、細い竹を筒に生の髄を詰めて<山吹鉄砲>で遊んだ。

 

●銀山公園へ

 左に下った先が、銀山橋と銀山公園だ。お疲れさまでした。そして長時間のお付き合い、有難うございました。次回は是非、一部に圏外区間もありますが、多少の参考に<スマホをお供>に、お進み下さい。

 

 

 皆さんには、これに懲りず・飽きず更に多くの地点・場所を訪れ、その訪ねた点が線に、線が面に、面が層になるごとく、石見銀山のより広く高く深く長くを楽しんで頂きたい。同時に勝手ながら、良くも悪くも、我々の気付かない石見銀山を、多方面からのご指摘ご教示を頂き、自らの糧としたいところだ。

 

 以上は、一地元人の頗る私的・感覚的・独善的説明です。しかも歩くペースでの内容で、その内容も浅く薄く、添付の写真についも不十分なものです。更に、このブログの性格上多くに見られる、高度な専門的歴史資料や文献の羅列・引用は、それらとの重複を避けて敢えて、ここでは取り扱っておりません。

 

 ● お詫び と お礼

 今回の当ブログのコンセプトは、一般の誰でもが何時でも訪れ確認・検証できる場所や物であることだ。よって、権威性・格調性に欠ける点はご了承ください。許可を取り、料金を払い、条件を付ける権威主義の排他的事象については、敢えて一切取り扱わ無い。しかし、その分、説明と共に沢山の資料の並ぶ他に比べて、大いに物足りない物ではある。

 

  然も急ぎとは言え、誤字・脱字・てにおは・変換ミス等々、他の方の物は当然とは言え校正・校閲は完璧で感心する。その内追々の積りが・・・・だ。

 

 これは飽く迄、見銀山遺跡の<入門・概論>として綴ったものだ。色々な媒体に沢山の研究者・先達・権威による著述など多くあり、それらを検索・参照の上、確認・補足されることを、お願いするものだ。

 

 そして、ご来訪、誠に有難う御座いました。これに懲りずに、次回は是非大勢様でお出掛け下さい。

 

<掲示板>

当ブログでは これまでに 石見銀山に関する 場所・事柄などを

何回か 散歩がてらに ランダムに 綴って来ましたが 

それでは 石見銀山の トータル・全体像が 掴み難く

改めて 歩き・撮り集めた物を 記事にして

YouTube と 公式・ホームページで 紹介しています

 

石見銀山の 見方・歩き方

公式ホームページ  初めての石見銀山

 http://iwamiginzan.org/

YouTube動画  シリーズ・石見銀山遺跡

https://www.youtube.com/user/IwamiGinzan/videos?sort=dd&view=0&shelf_id=1

 ここ石見銀山遺跡の中で、多くの人が訪れる場所が公開坑道・龍源寺間歩だ。公開されている間歩で、町からも比較的近くて安全なこともあって、広く紹介されて最も良く知られる鉱山遺跡となっている。

 

 

 

 龍源寺間歩は、硬い石英安山岩という火山岩を切り開いた坑道だ。ほぼ水平に掘られた通路・坑道は、総延長600メートル以上ともいわれるが、安全のため実際に公開されて見学出来るのは、僅か157メートル(旧本坑)と、近年になって観光用に開削された116メートル(新鉱)だ。一方通行の通り抜けで、ここは入口専用だ。勿論、内部の写真撮影は可能だが、戻れ引き返せ無いので入口・間歩前でも<必撮>だ。

 

 

 その名<龍源寺>は、一説に、嘗て辺りにあった寺の名に由来するともいう。しかし、銀山が栄えた頃には夥しい数の寺があったとはされるが、それらの記録に龍源寺の名は無く未だに仮設の域だ。

 

 <間歩>とは、狭義には鉱石を採掘した坑道・トンネルのことを言い、広義にはその鉱山活動が行われた鉱区一帯を含めても言う。間歩の語源については、興味深い説が幾つかあるも、何れも確度が低くここでは割愛する。当時には広く他の鉱山でもそのように呼ばれていた。やがて時代が移り、ここ石見でも新しく<山>や<坑>とも呼ばれる様になった。そして多くが、開発者・経営者の姓・名、屋号、所在地名などを冠して呼ばれた。

 

 

 龍源寺間歩は、江戸時代前期、正徳5年(1715)から代官所によって開発され以降、昭和18年(1943)までの長きに亘り稼働した。主に良質の銅鉱石を大量に産出して、特に江戸時代は良坑として、代官所が直接、管理・経営をした鉱山<御直山>の一つであった。

 

 

 よって、この入口付近の平坦地には、掘り出した鉱石を溜め保管する<クサリ置場>、岩石を砕き鉱石をより分ける選鉱・精錬などを行う作業小屋などに加えて、監視の役人の詰所<四ツ留番所>が置かれていた。入口の説明版にある写真は、明治期のもので、間歩入口前に建つ建物は事務所か工場のようにも見える。ただ、資料に乏しく推測の部分が多い。

 

 また、地蔵の鎮座する岩盤にはその痕跡と思われるものも見られる。管理棟脇の岩盤加工を見ると、他の間歩の例に見られるように、ここにも間歩付近に併設して精錬などに関わる施設が存在したか等も定かではない。ただ、ここ石見では早い段階から採掘・選鉱・精錬の作業工程が分業化されていて、果たしてこの間歩がどうであったかは不明だ。間歩出口付近には、精錬を生業とした家の屋敷跡も残るという。

 

  なお、多くが急かれて入口に進むがここで一つ豆知識で・・。管理棟前の狭い平坦地に冬季を除く季節に、緑の葉を漏斗状に広げるシダ植物が点在して生える。ヘビノネゴザともカナヤマシダとも呼ばれるシダで、金銀銅他の重金属を含む土壌に耐性を持ち生え育つと特性がある。このことから古くから鉱山の目印・指標植物とされて、鉱山発見の端緒の一つとされた。

 

 

 

 また、 銀山発見の手掛かりとして説明されるものに、岸壁の岩肌に露出する鉱脈を探査する方法があった。谷筋に転ぶ鉱石から辿り発見したという。その様にして発見されたと思われる露頭掘りの跡が銀山・仙ノ山の周辺には沢山確認されている。

 

 

 

 坑道の入口は、太い四本の支柱で支えられた<四ツ留>と呼ばれる、坑口特有の堅牢な木組みで囲われている。佐渡金銀山などに六本支柱の例もあると聞くが、一般的には四本支柱の物が多く、一般的に坑口のことを当時は<四ツ留>と呼んだ。また、地方によっては、舗口(しきぐち)とも、真府(まぶ)ともいった。素材は、多くが水・腐食に強い栗材が使われたとされる。

 

 間歩の上を仰ぐと、危険で厳しい鉱山の仕事に信仰は欠かせず、何時の頃からかは不明だが<山の神>が鎮座する。どの間歩かは不明だが、江戸時代に描かれた銀山絵巻にそれは無い。特に必須のものでは無かったらしい。

  

 開発当初は、現坑口のすぐ左隣りの小さな穴(525番間歩)から掘られたが、後の活発な鉱山活動とトロッコの導入などもあって、時代を経て広く真っすぐな今の坑口になった。入ってすぐ左に明かりの漏れる合流地点が確認できる。

 

 現在通路になっている、ほぼ水平に進む広い坑道は、本来木材などの資材の搬入、掘った鉱石の搬出を目的として掘られ、同時に排水や換気の役目をも兼ねていた。

 

 坑口を入って、新旧坑道合流地点から僅か先の左壁面に、縦に細い二本の溝が見え、辿ると天井を這って続く。これが鉱脈をなぞり掘った跡だ。なお、坑内は最小限の照明で暗い為に小さなライトの用意をお勧めする。

 

 

 <鉱脈>あるいは<鉱脈を掘る>とは、如何なる物かをイメージできる貴重な溝だ。しかも、見るとその隙間の細さに驚くところだ。そしてこれこそが、永久鉱床・龍源寺間歩の特異性そのもので、キーワードは<厚さ数ミリの鉱脈>だ。少々暗くて見難く、ついつい急がされ寒い寒いと燥いで進んでしまうが見落としてしまうが、是非確認して於きたい貴重な溝だ。

 

 低い天井に用心しながら進むうち、暗さに目が慣れ辺りを見渡すと、薄明かりに浮かび上がり壁面の凹凸が見えて、<タガネと金ツチ>で岩盤を穿った跡だと解る。これこそが正に産業技術革新以前の、手作業の採掘であったことの証だ。

 

 しかもその広がりを見るとき、計り知れぬエネルギーと凄まじい執念を、又それを可能にした高い技術水準をも察するところだ。然も同じように見えるノミ跡も、その流れを見ると無暗に掘るのでは無く、その場所その箇所の岩石の質や方向性に応じた掘り方であったことが伺える。

 

 また、幾対もの左右に並ぶ坑道跡を見ると、坑夫たちは無駄無く狭い作業スペースを確保しながら掘り進んだようだ。鉱脈を追った状況が良く解る坑道がある。坑口から2本目の左右対象に延びる<ひ追い坑>がそれだ。

 

 

 

 <ひ追い坑>とは、当時鉱脈を<ひ>と言ったことから、これらの坑道を<(ひ)を追う>の意でそう呼ばれた。採掘壁面を注視すると、ここでは掘子は鉱脈を入口側に置いて掘った様子が伺える。片方・入口側の天井を深く高く掘り込んでいるのは、鉱脈痕がここにあった証しだ。

 

 また、今立つ通路の天井にも採掘痕があることから、入口から掘り進むと、ここには大きな板状の鉱脈が何本か何枚かが連なって立ち塞がっていたことが推測できる。


 進みながら、壁面に<栄螺の灯り>でも置いたのであろうか、小さなテラスがあったりする。そこでつい小さな窪みが一々訳ありげに思えて壁面に目を凝らすと、小さな穴にコウモリが潜って休んでいるのに出交す。無機質な暗闇にホッと心和むのは私だけか。話すと目の良い子供たちは、他にも天井や壁にぶら下がる蝙蝠を目敏く見付けて燥ぐ。今では蝙蝠も騒めきに慣れたのか逃げない。

 

 

 

 坑道を暫く進むと、通路にほぼ直角に左右に掘られた先細りの小さな穴が現れる。これこそが、銀や銅の鉱石を掘り出した跡だ<ひ追い坑>だ。

 

 ここに厚さ数ミリとも言われる板状の筋、すなわち鉱脈が何本か走っていた。入口で確認したように、鉱夫たちはこの細い筋を追い辿り掘り進んだ。ただ、突き当りの様子が確認出来無いのは残念だ。

 

 

 ここ龍源寺間歩一帯の永久鉱床では、このように銀や銅などの鉱物が、マグマの熱水に溶かされ、岩石の割れ目に蓄積され、やがて冷え固まって板状に筋を成して蓄積されていた。、これを<鉱脈鉱床>と呼ぶ。

 

 

 因みに、仙ノ山東斜面の銀を多く含んだ福石鉱床では、その地質の違いから、鉱物(銀)が岩の空隙に浸み込むように蓄積されていて、こちらは<鉱染鉱床>と呼ぶ。

 

 

 更に進むうちに、左右に広がる坑道が概ね、水平もしくは斜め上向きに掘られていることに気付く。鉱脈が上向きにあったこの傾斜は、偶然なのか手前の通路に排水し採掘を容易にしたやにも思える。この辺りの側壁にも入口で説明した様な鉱脈痕が縦に走る。

 

 そして、今は安全のために舗装されるが、通路には幅30cm・深さ30cmの排水用の側溝が掘られていた。当時は、この排水溝を板で塞ぐ(板ぶせ)ことで生じる、溝の両端の温度差や気圧差で煙突効果を生み、空気の循環を図ったとも言う。これに似た例に新切間歩等では、採掘本坑道の下層に並行して排水坑を掘り、途中を竪穴で繫ぎ、尺八状の二層坑を掘って排水・換気・採掘をした例がある。 

 

 眼をこらし注意深く進むと、採掘跡それぞれの表情や、地表まで掘った<空気抜き用の穴>、地下深く掘った<水抜き用の穴>など、急ぎ通り抜ければ見過ごしてしまう、沢山の知恵や工夫や苦労等が伺える。同時に長い間に蓄積された、優れた鉱山技術をも実感する事が出来る。

 

 進んで通路中程左側に、落盤防止の頑丈な木組みの施された箇所がある。注意してステップを上がると、これ迄に無く荒々しく天井高く掘りこんだ跡が見え、ここには多くの鉱脈が集中していたことが伺える。覗くと右奥下のライトの照らす穴がある。ここは鉱脈を掘りつつ排水の目的で百メートルほど下の排水坑道・永久坑に続く。左上部分も鉱脈を追って掘った跡で、生々しい臨場感がある。その後に落盤があったのか、何ともドラマチックな様相だ。

 

 

 

 

 元々鉱脈・水脈は岩盤の割れ目を伝い走る。鉱石の採掘は必然的に水との戦いになる。それがどれ程の物かは、雨の日や雪解けの続く日など坑内に入ると良く解る。特にこの辺りは顕著で、只ならぬ量の濾水・湧水を実体験出来る箇所だ。カメラは水濡れ注意で、今も入口付近に設置された排水ポンプは常時稼動して前の川に排水している。

 

 

 奥に進み何本かある左右に延びる坑道を注意深く見ると、幾つかの穴の奥に石ころが詰まった箇所があることに気付く。この石は奥の坑道から掘り出された鉱石以外の<ズリ>という屑石を、既に掘り尽くした近場の穴に廃棄した物だ。出口に運ぶ労力を省き、同時に間歩の落盤防止をも図った物だと言う。特に傾斜のある箇所では金網で防護しているのがそれだ。

 

 暫く進むと、天井に光の差し込むこれまでとは形体の違う大きな穴が左右に見えるが、これは古い当時に意図し加工た排気口などでは無く、更に古い時代に掘られた何かの穴に偶々遭遇した物で、詳しくは不明だ。余りにしっかりした穴なので、つい気になる箇所だ。


 突き当たりの踊り場までが、江戸時代に掘られ、当時を髣髴とさせる旧・本坑道だ。通路を直進すると、鉄格子の先は排水のための段差・階段・傾斜を付け乍ら通路が続く。しかし、現状危険で調査も十分では無いと言う。本当は、この先こそが最も知りたい箇所なのだが残念至極だ。若しかしたらこの奥にこそ見たい知りたい石見銀山が有る様にも思う。

 

 

 左に真っ直ぐ緩やかに上る明るい通路は、観光用の抜け道として、近年に掘ったトンネルだ。此処までの暗く狭く湿った圧迫感から一気に解放されるここは大切な場所でもある。

 

 

 この踊り場こそが、江戸時代の手彫りの採掘と、近代機械技術による掘削との接点だ。

ここで何時も時間を掛けて大袈裟に説明する、新旧の技術と時代の接点とでも言える場所だと。大方が「お父さん熱いネ~」で終わる。メゲズにブレズに、この体感・実感こそが世界遺産石見銀山、龍源寺間歩を訪ねた意義の一つだ。

 

 

 明るい緩やかなスロープを進むと出口だ。その手前には、江戸時代後期の物とされる<石見銀山絵巻>の電照版の展示がある。文書・書物では分ら無い伝わら無い部分が視覚で辿れるのは楽しい。部分誇張が有ったりユーモラスであったり、一見して稚拙にも見える筆致にも感じるが、見えない間歩の奥の何某かに触れる事が出来て貴重だ。

 

 全国の鉱山にも多く同様の物があって、概ね同じにも見えるが中には、石見では無い光景や、石見から他の鉱山に移転された技術や装置のほか、石見固有の物などが伺えて興味深い。

 

 

 何より興味深いのは、間歩の地下深くでの作業の様子、坑夫の出立ちや仕草や道具、そして想像を超える危険で過酷な現場だ。潜り抜けた平坦な通路とは違う厳しい現実を想像するのも良い。展示は絵巻の部分でしか無いが良く良く味わいたい展示だ。正に残される数字や記録の解読・解釈では無い見えない奥の現実だ。

 

 出口管理等の脇にある説明版は必見だ。確認したいのは、偶然か奇跡か地球の気紛れか、この小さな山・仙ノ山に独立・別個に銀鉱床と銅鉱床が噴出・形成された事実だ。一般に<石見銀山>と通称されるが、<石見銀銅山>と呼びたい一地元素人だ。

 

 

 

 

  〔注〕 石見銀山に関する記事は、無秩序に彼方此方を、アットランダムドに、バタバタと綴っていて、更に重複・反復が多くて読み難くて<ワカラン>のお叱りだ。多少纏めた記事は、当ブログの他

     http://iwamiginzan.org/

       https://www.youtube.com/user/IwamiGinzan/videos?sort=dd&view=0&shelf_id=1

 

を 

ご覧戴けたら幸いです。


   ご覧戴くけたら幸いです。また、説明の補足に必要な的確な画像等は追って追加。