<ミュージカル・あいと地球と競売人>・・、このタイトルは以前からテレビなどの報道で見聞きはしていたが、子供の世界の話であろうと、内容などについては特段の関心も無く多くを知らずにいた。

 

 しかし先般、知人の子供さんが、このミュージカルの主要キャストの一人として出演するとの事で、ご招待に預かり出掛けた。

 

 出掛けたのだが、会場が遠く田舎からは自転車、バス、列車、知人の車でやっとの会場であった。当日は3連休で、然も折悪しく台風接近の荒れ模様であった。

 

 列車は朝早い7時で遅刻してはいけないと、前日夜にタクシーの予約の電話をしたら、休日は台数が無く予約は出来ず、当日に空きが有ればご利用下さいとのこと。路線バスも始発が遅く間に合わず、駅までの小一時間を歩く覚悟で早起きをした。

 

  雨の中の1時間弱は辛いので、歩いて間に合う時間ギリギリの1時間前に、タクシー・コールをしたら、運良く空車が有り乗って出掛けたが、早す過ぎて駅でゆっくり・たっぷり待つことに成った。しかも、この日は気温20度と殊更寒く、人気の無い薄暗い待合ホールで一人で耐えていた。

 

 そんな重い思いで会場に辿り着き間に合った。松江市美保関町・メテオプラザ、皆さん内容など良くご存じの様子で沢山の来場があり、会場・ホールが狭いようにも感じた。不勉強の儘で臨んだ作品であったが、却って感動のステージであった。中々の出来に、今日のここまでの道程の諸々が報われた思いであった。若い頃に観た色々なステージの感動が懐かしく蘇った。

 

  <ミュージカル・あいと地球と競売人>の、ストーリーや作品の誕生の経緯や、多く寄せられた高い賛辞と評価などは、既に皆さんには知られていて、軽率にここで記する事では無い。

 

 門外漢で専門的に良くは言えないが、先ず子供たちの頑張りには感心した。何程の練習・訓練を重ねたかは知らないが、それぞれのポジションで、作品を創り・仕上げ・演じた達成感は何よりも貴重な体験だし、将来の何事かに生かせる経験・資本だとも思った。然も今に最も求められている大切で重いテーマに、子供乍に取り組み表現し伝える事が出来た事も素晴らしい事に思えた。観ると実に小さい子供達もあって、ステージ・ママパパの心配も然ることながら、指導者と周囲の方々の苦労も如何程ばかりであったかをも伺えた。

 

 <地球自然環境の破壊と生命の危機>に至る総てについて、我々世代は十分に理解しつつも、ついつい形式的なお題目の提示のみに終始し、果てはエゴの張り合いで先送りして来た。しかし、今後の直近に直面して、立ち向かい戦わなければいけない多くの若い皆さんに、この作者・作品の想いに共感し、自らの問題として実ある行動をして貰いたいと思った。

 

 活字で映像で舞台等での一層の広がりを期待したい。身近にある山に海に町に気象に、その異変に気付い欲しいが、若い人に異変の前の正常なそれらを誰がどう教え伝えるのかが重要で問題だ。戦争体験にして然り、自然環境にして然り、人種・民族・文明の交錯と融和の経緯や過程などにして然りだ。世界の今に生きて有る者、我々の全てが理解し行動すべき時だと再確認させられた。そして同時に、我々が長く(地球の歴史では本の一瞬)謳歌して来た、便利さ・楽しさ・幸福の形など、その定義・概念を見直す時なのかも知れない。 この子供達の頑張りのお陰で、他人任せではない大事、そんな事を思い知らされたところだ。

 

 昨今テレビの報道に依れば、超大国を含む多くの国や地域の若い世代の、地球環境に対する取り組みや行動が大きなウネリになっているらしい。前途多難にも思えるが、先ずは嬉しく頼もしく思うところだ。ブームや政治ショー・政治的パフォーマンスで終わらない、然も巨大なエゴに潰され或いは政治利用されない活動であって欲しいところだ。思惑の国家や権力に頼らない草の根の浸透と広がりが必要だ。誰もが当り前に共感し共有できる、グローバル・コンセンサスの醸成に思える。

 

  しかし、諸悪・巨悪の元凶たる大国、後進国と名乗る超大国、超大国の占領国家か付属州の様な卑屈な何処かの国などが公然と立ち開る。結局は、次の地球を世界を背負う全世界の若者が、エゴを乗り越えて夫々が自分達の今の危機であるとの共通認識が出来る時を待つしか無いが。更なる狂気の巨大破壊と環境再生に間に合って欲しいものだ。

 

 正に、履き違えた自由と言う享楽に酔った、前・現世代の置き土産だ。為に犠牲を強いられる子供達に逆に気付かされた、この時間であった。そして、ご苦労の関係各位に陰ながらエールを送ります。

 

 なお、今回の舞台では、主役を男の子が希望し抜擢された事が報じられて話題でもあった。原作が女の子であった事からの当然の慣例の様だが、そもそものテーマが男女の別には関係の無い共通で普遍的なテーマで、作品の趣旨に副う範囲での、色々な広がりが出来るのは良いようには思えた。充分良く声も出ていたし特に抵抗・違和感は無く聞いた。周囲も納得の適材適所のキャスティングであれば、慣例では無く今後の更なる広がりと進化を期待したい。

 

 恐縮だが、初めて拝見しミュージカルの何たるかも知らない一年寄りの感想だ。皆さんの今後の一層の活躍を期待すると共に、多方面からの更なる支援と協力を、勝手にお願いしたいところだ。

 石見銀山遺跡が世界遺産登録(2007.7)を受けて早くも丸9年になる。地元では10周年の節目に向けての種々行事・催し物の準備で賑やかだ。この異様なお祭り騒動、本来の遺跡を離れて<記念行事>だけが<独り歩き>する中で、静かで密かな<自分なりの10周年>を総括したいと思い立った事です。

 一地元人が見た、石見銀山遺跡の魅力と飾らない真の価値について、自分成りの個人的な視点・観点と、専門家では無い地元の一般人ならではの構成と綴りに成っています。

 

 過去に公開したブログや動画などをリンクして辿り易くし、更にはこの10年に学び感じた新たな内容も加えた物です。

 是非、このサイトが石見銀山についての入門・初歩的な理解への一助と成ればと思っています。そして延いては<石見銀山遺跡>への関心と興味への端緒・入口に成れたらとも願う者です。

 




     はじめての石見銀山  ~世界遺産・石見銀山遺跡 地元人が見た真の価値とは~
  http://iwamiginzan.org/

 

 ※ 元記事 2016.7  部分加筆

 

 ● 路草・復路編 

  龍源寺間歩を見て帰路の就く。銀山の鉱山地区への起点と成っている銀山公園に戻るが、帰りは往路で辿った舗装の自動車道から銀山川を挟んで併行する<遊歩道>を辿り、見落とすと勿体無い幾つかの歴史のスポットを簡単に紹介する。狭く舗装の無無い部分もあり砂利道と、アップダウンの雨には滑る木道などが続くが、用心・注意して歩けば自然の草木が近くに茂り、この田舎ならではの癒しの道で人気だ。

 

 ~YAHOOブログの閉鎖に煽られ 急ぎ移住中につき 暫し 要検討の未完稿~

 

 

 龍源寺間歩を出て、緩やかな下り坂を暫く進む。天気と店主の気分で開く土産物店の先、右に山神宮<佐毘売山神社>、先の左林には露頭掘り跡<太鼓堂下露頭・仮称>の岩の裂け目が見える。神社階段下の先の岐れを左の遊歩道に進むと、左の藪の奥に見える。危険を冒さ無くても見られる<貴重な露頭掘跡>だ。突き当たりの<高橋家住宅>を右に進み帰途に就く。 駐輪場から暫くは来た道を戻る。

 

 

 

 

 ● 順勝寺跡 宗岡佐渡守比翼塚

 駐福神山間歩の向かいの川を挟んだ林の中を分け入ると順勝寺跡だが寺の痕跡はほぼ無い。関心事は川の飛び石を渡った先の林と茂みを上り進むと、宗岡佐渡守の<比翼塚>がある。

 

 宗岡佐渡は、元は毛利氏に仕えたが、徳川の銀山支配のため吉岡出雲らとともに石見に赴き、初代銀山奉行・大久保長安の下で働き、特に<鉱山の見立て・探査>に優れて多くの功績を上げた。

 

 

  その後に佐渡を任され、吉岡出雲と同様に石見の鉱山技術を伝えて、佐渡金銀山の繁栄に貢献した。後に子孫が建てたと伝わる。妻の墓と並ぶ比翼塚は、この辺りでは珍しいものだ。<比翼塚>とは、相思の男女を一緒に葬った塚<夫婦塚>のことで、是非見て貰いたいが、残念ながら途中林は荒れていて、案内が無いと単身は危険だ。不慣れな一般の方には、現時点お勧めできない。将来、整備されることへの期待を込めて、今回ここで紹介だけをしておく。

 

 ただ、比翼ではないが夫婦で並ぶ墓は、第二代銀山奉行・武村丹後守のものが、街中の代官所裏の勝源寺境内にある。ただし妻の墓石は無縁墓塔だ。

 

●旧極楽寺跡 吉岡出雲守墓

 吉岡出雲は、毛利氏に仕えた長門の武士で、徳川家康の銀山支配に伴い、宗岡佐渡と同様に初代銀山奉行・大久保長安に推挙され銀山付役人となった。後に、伊豆や佐渡に派遣され更なる功績をあげた。

 

 

 ここで実用化・産業化された銀精錬技術<灰吹法>などの、鉱山技術や鉱山経営のノウ・ハウなどが、石見銀山から国内の他の鉱山に移転・伝えられて、国内の産銀量の飛躍的増産に寄与したと説明されるのはこのような流れをいう。

 

 

 なお、極楽寺跡は長い階段右奥の更に上辺りだが、荒れて崩れた石垣や砕けた灯篭などが残るのみとなっている。また、吉岡出雲の墓とされる立派な宝篋印塔は、雑木・倒木深く足元危険なので、確たる同行者がないとお勧めしない。立派な墓を残す程の多くの功績を石見に残した代官として紹介する。

 

●緑陰の道 紅葉の路

 ここから暫くは、木々の戦ぎと銀山川のせせらぎに癒される道だ。春には少しばかりの山桜、新緑の頃、紅葉の乗ろ、冬枯れの風に舞う落ち葉、雪のある日などには風に揺れて枝から降り掛る雪などは、イト・オカシだ。柄にもなく詩情に駆られる辺りだ。感性豊かな方にはお勧めだ。

 

 

  更に盛ると、この遊歩道は年中耳に心地良い。木々を揺らす風の音、遠くに近くに聞く名も知らぬ鳥たちの囀り。春から初夏の鶯、梅雨のモリアオガエルの太い声、煩いが声の種類で季節の移ろいを感じる蝉しぐれ、秋口の物悲しい蝉の声、初冬に踏み進む枯葉の軋みや風に舞う乾いた音、笹原を打つ雨の音霰の音、厳冬に雪の重みに耐えきれず裂ける竹の音、枝に積もった雪が風で落ち砕けるのもまた良い、どれもが季節の楽しみだ。

 

 

 勿論、四季折々の野の花・里の花も良い。和むに良しカメラに良しだ。矢張り遊歩道は大勢で急かされ大勢で歩くより、少人数でゆっくりが良い。このコースはついつい、寺だの墓だのと陰気な話になるが、自然に浸り気儘に歩けば、文字通り<路草の楽しみ>がここにはある。・・などと自慢げに話すも、何処にでも有る只の田舎の自然で、皆にどの様に聞こえているかは無反応で不明だ。

 

 この先は、遊歩道らしい趣のある路が続く。ただ、急斜面に囲まれた狭い山間の自然道で点検・安全確認はするも、まれに落石・転石などあって、現地の<注意喚起・規制>にはご留意必至だ。

 

●新切間歩

  初めは、近隣の間歩の排水坑として掘られたものだが、代官所の開発資金を投じて掘る内に、大鉱脈に突き当たり代官所の直営鉱山<御直山>として大いに栄えた。よってこの間歩の内部は、鉱石の採掘・搬出用の坑道と、排水用の坑道との上下二本が平行して走り、途中を竪坑で繋ぎ、疎水・通気を図ったという。入口手前の川の飛び石と階段は、滑るので要注意だ。最悪落ちても水は浅いが転ぶと厄介だ。

 

 

●清水寺

 ここでは<せいすいじ>と読む。その縁起によると推古天皇の命により、聖徳太子が観音像を造って安置したことに始まるとされる。元は、銀山・仙ノ山山頂の池の畔に建てられ<天池寺>と称した。その後に、桓武天皇が勅願寺とし名を改め後に<清水寺>となった。何とも有難い古い話であちこち良く解らないが、否定する根拠もない程の、そんなロマン溢れる話が伝わる。素人には掴めない貴重な資料が提示される。

 

 

  ここで語られるのが、石見銀山切っての山師・安原伝兵衛との関わりだ。旧い記述によると信心深い伝兵衛は、この寺に篭もり願を掛け、やがて観音菩薩の霊夢に導かれて、<釜屋間歩>と呼ぶ大鉱脈を掘り当てたのだと伝えられる。何れも石見銀山にとっては重要な伝説だ。

 

 ただ、この辺りの話もまた色々交錯するが、唯一確かな史料として残る物に、清水寺再建時の棟札にその名があることから、寺との関わりがあった事だけは確かの様だ。


 大成功した伝兵衛は、大量3,600貫(13トン)もの銀を運上し、この功績により伏見城の徳川家康に謁見し<備中守>の称号と、褒美の品々を拝領した。後にこれらは子孫により、ここ清水寺に寄贈された。しかし残念ながら寺宝の釜屋銀造の観音像共々、現時ここには無い。

 

 折角の由緒・謂れある寺なので、せめてここで見える物としては、本堂を外から覗き見る天井の、初代銀山奉行・大久保長安の<下がり藤の家紋>だけだ。天井は寺の再建の時に寄進した代官や地役人や有力商人達の、極彩色の家紋を配した格天井だ。ただ、覗く際には、拝殿前の足元の床板古く、一度に大勢では不用心で呉々も注意を・・。探すと大久保長安の下り藤の家紋が見える。

 

 

 更には、裏山の朽ちた祠<天満宮>は、銀山開発初期に神屋寿禎らと共に、最初に入山し開発史に名を残す掘り子・於紅孫右衛門を祀るものだとされるが真偽の程は定かではない。ただ、訪ねるには路狭く高くて、足元十分十二分にも注意を・・。

 

 

 なお、地元石見神楽団の創作演目<於紅谷>にもある、何かと話題の<於紅孫右衛門縁起>に残る、興味深い忌まわしい悲劇の昔話の顛末や、スキャンダルの時代背景などは、当ブログの古い記事はあるが、近頃の騒めきも絡めて改めて後の項目で述べる。

 

●清水谷精錬所跡

 進むと小さな丁字路角に<清水谷精錬所跡>サインがある。進み見上げると城跡の石垣を連想させる階段状の石組みが広がる。近代的な先端技術を取り入れた、銀精錬工場の跡地だ。

 

 

 説明版にあるように、山の斜面を利用した平坦地の各段には、工場施設が立ち並んでいた。明治28年に大阪の藤田組(現・DOWAホールディングス)が、当時の20万円もの巨額を投じて建設するも、僅か1年半で操業を停止した。裏の山を越した谷(本谷)で採掘した銀鉱石を運び、精錬する予定であったが、既にその銀鉱石の品位が落ちて、実際の精錬には結び着くか無かった事などが、その原因の一つとされている。

 

 発掘調査では、精錬活動を示す、キューペル(骨灰皿)のほか、多くの遺物が出土した。

 

 

 この清水谷製錬所は、ここ石見銀山の歴史の中の、特に銀鉱山としての歴史の中で唯一、産業革命以降の西洋の近代的技術による製錬施設だ。また同時に、ここ石見銀山最後の<銀鉱山遺跡>で、<銀山終焉の地>でもある。

 

 ここで、良く尋ねられる石見銀山の終焉に至る経緯についてだ。銀山(銀)の歴史は、1896年(明治29年)ここ清水谷製錬所で終わったが、銅鉱山を含めた石見銀山としては、尚暫く続いた。隣に聳える城山・要害山の西側に遺跡が残る<永久鉱山>がそれだ。

 

 第一次世界大戦の特需で潤い、終戦不況で低迷し1923年(大正12年)に<休山>、その後の第二次世界大戦下で再起を模索するも、戦況の一層の悪化に加え1943年(昭和18年)のこの地方の大水害による工場施設の流失、坑道の水没などで営業の再開を<断念>した。この時をして<石見銀銅山>は完全に<閉山>となった。

 

 その後、石見銀山は世界遺産という、思いもしない容で蘇ることとなった。なお、時間や距離を考慮して、精錬所や選鉱場、およびここに至る鉱石の流れを辿る経路などの詳しくは、後の項に譲る。なお、当ブログの古い記事にも多少は説明はしている。

 

●安養寺 鏝絵

元は、仙ノ山山頂付近に天台宗の寺として開山、後にここに再建されて、本願寺派・浄土真宗の寺となった。織田信長と石山本願寺との間で長く続いた戦い<石山合戦>の折には当寺からも門徒らが加勢・参戦し、その折の功労で顕如上人から賜った数々の貴重な品が今に伝えられる。

 

 

 

 なお、当寺所蔵と噂に聞く伝説<鬼の歯?>なる珍品について、興味本位で尋ねると<昔は恐る恐る見ていたが、なぜか今はない>とのお話で、ちょっと残念ではあった。

 

この石山合戦には大森のほか、近隣の多くの寺々からも参戦し、中には駆けつけた時には、すでに和議が成立していて、すごすごと戻ったという話もある。

 

 また、境内の経堂には、左官の漆喰芸術<鏝絵>がある。品格を感じる雲龍の鏝絵は見事だ。ここ大森では町中の西性寺経堂との二箇所だけだ。石見地方では、古くから多くの優秀な<石州左官>を輩出し、各地に腕自慢の鏝絵を残している。全国に、鏝絵の研究者やファンも多い。本堂前からは、山吹城跡が間近かに見えて、要害山に白壁の経堂を被せたアングルは、写真に良い。

 

 

●銀山大盛祈願道場碑 馬頭観音

 この大きな石碑は、ここが奥にある龍昌寺の参道入り口に当たり、江戸・嘉永2年の銀山大盛の祈願法要が行われたことの記念碑だ。また、すぐ先右脇の祠は、江戸時代に広く信仰された、馬の保護神<馬頭観音>だという。馬が大切にされ多くが行き交った時代の名残だ。

 

 

 

●龍昌寺跡 宝篋印塔 川崎平右衛門墓

 佐毘売山神社とともに、銀山大盛祈願所に指定されるほどの有力寺院で、多くの宿坊と広い伽藍を有したという。歴代代官の菩提寺でもあったことから、杉木立の境内には、浅岡彦四郎、川崎平右衛門のほか、多くの代官の墓がある。

 

 

 分かり易いものでは、参道を進み長い階段を登り詰めた辺りの、右山側には川崎平右衛門の墓、サインもあるが足元柔らかく落ち葉も滑るので要注意だ。境内の正面突き当たりの左崖上には浅岡彦四郎など代官の墓塔がある。特に石窟に建つどっしり大きな二基の宝篋印塔は逆修塔だとか、説明版不鮮明でが良く理解できないが、見応えがある。

 

 

なお、<宝篋印塔>は鎌倉期に一般化した、中国由来の供養塔・墓碑塔のこと。境内は見通しが利き安心だが、この辺りも斜面の石段が崩れて、看板の通り現時点危険だ。上手に滑り転べば良いのだが、山道を歩き慣れない方にはお勧めはできない。取り敢えずは写真にて・・。

 

●銀山川の清流

町に近づき、少し開けるが歩道は狭く込み合い、通行は譲りあってお願いします。清流と言うには小さな流れだ。所々に色々な表情があり、小魚や沢蟹などもいて、アオサギが反🄬手を狙う。子供たちが魚や沢蟹を見つけてはしゃぐ。途中に途切れもある手摺・足下・落石にはご注意を・・。

 

 


●大安寺跡 幻の逆修塔

 大安寺は、浄土宗の寺で初代銀山奉行・大久保長安が菩提寺として開基したもの。昭和18年の水害で被災、その後に廃寺となった。階段の上に大安寺と刻んだ石塔のほか、奥の山には朽ちた墓塔・墓石・石仏などが残る。長安の大安寺は、奉行を務めた新潟・佐渡にもある。

 

 

  ここでは、寺の話より大久保長安の<人と成り>についての話がよく出る。ここ石見銀山をはじめ各地で華々しい成果を上げ蓄財し、信心深くも欲深くもあったのか、自らの菩提寺を建て、生前供養のための逆修塚を幾つも造るなど、遣り手として私生活でも豪快であったたらしい。

 
 

 

  <逆修>とは、当時の仏教思想で死後の往生のために、生前に墓を造り仏事を行うことをいう。下世話に言えば、生きているうちに自分の墓を造り拝んで功徳を積めば、死後のご利益が多いということらしい。

 

 その逆修塔と思われるものは、墓に向かう階段を上った先の草むらに無残に散ばる。ばらばらに転がる石塊は、宝篋印塔の部材らしく、組み立てると巨大なものだと想像される。だが、検証も出来ない今では、素人の希望的推測で只の石ころだ。

 

 

 なお、長安の逆修塔とされる物は、形は違うが温泉津の愛宕神社と、恵こう寺にもある。

 

 

 階段上の囲いに建つ五輪塔は、後世に再建された長安の墓塔で、戒名と命日が刻まれる。脇の平たい石碑は、後の代官が長安を称えて建てた紀功碑で、その書は佐和華谷に依る物とされる。

 

 なお、五輪塔は平安中後期に普及した供養塔・墓塔の様式。密教で説く五大(地・水・火・風・空)を下から、方・球・三角・半球・宝珠の形に表したもの。

 

 さて、死後のご利益の話だが、仏様もお金持ちに甘いのか、金持ちの思い込みが甘いのかは不明だ。果たして逆修のご利益はあったのか無かったのかは知らない。長安の死後に家康は、予定していた長安の葬儀を取り止め、長安の不正嫌疑に連座した者を粛清し、長安の妻子・妾を死罪にしたという。

 

 長安は、何故それほどに家康の恨みを買ったのか、諸説あって正しくは知らない。<長安事件>として語られる中に、大枚の不正蓄財があったことや、宣教師に徳川倒幕の書状を託したこと・・、などとされる。確かに家康は家臣に気前良く散蒔かないと身が持たないが、長安はその必要はないし、原資は配下の金銀山で、私腹は肥えるばかりだったのか、などと勝手に卑しい想像をする。いずれ、今も昔も<遣り手(敏腕家)には裏がある>ということらしい。

 

勿論、多大な功績のあったことは、歴史の物語る通りだ。語り尽くせぬ長安の功罪等について、多くの研究があるので、そちらで・・。

 

●妙正寺跡

 元は清水谷に創建された、石見銀山に残る唯一の日蓮宗の寺だ。商工業者をはじめ多くの信仰を集めたが、昭和18年の大水害で本堂・墓所などを流失し、その後廃寺となった。このお堂は近年の再建、本堂周辺や裏の丘陵斜面には、荒れたままの墓地がある。戦国時代から昭和にかけての、500基以上を数える大小様々な、墓石・墓塔・墓標が残る。時代の長さや社会状況の変化などをも感じさせる、実にバラエティーに富んだ墓石・墓塔が並ぶ。ただし、斜面荒れて足元注意で・・。

 

 

 

●狭い木道 山吹の花

 階段や傾斜のあるも木道は、雨の日・雪の日など滑り易いので足元にご注意を。この辺りは特に狭いので、離合はゆっくり譲りあってお進み下さい。

 

 この辺りの右斜面には、<山吹>が群生して春遅くには一面の黄色の花が見事だ。あの太田道潅にまつわる逸話<七重八重 花はさけども山吹の ・・>の山吹だが、一重は山野に自生し、八重は庭園栽植用とされる。どちらかが実が成らない?と聞いたが、聞き違いか・・。

 

 

 東京新宿・早稲田から都電・荒川線で<面影橋駅>下車、橋の袂の神田川沿いに、道灌が狩りをしたと伝えられる<山吹の里>がある。今は石碑だけがあって山吹は無い。

 

 この花について、鉱山に関連していえば、<山吹き>は鉱石を溶かし金・銀・銅などを<吹き分ける>ことをいい、出来たものが<山吹色の大判・小判>だ。

 

また、この茎のスポンジ状の髄(山吹髄)を乾燥し、サザエ灯の芯にしたともいう。我が家にも、カンテラ用だったのか、素麺のように細くカラカラに乾いたものがある。子供の頃は、細い竹を筒に生の髄を詰めて<山吹鉄砲>で遊んだ。

 

●銀山公園へ

 左に下った先が、銀山橋と銀山公園だ。お疲れさまでした。そして長時間のお付き合い、有難うございました。次回は是非、一部に圏外区間もありますが、多少の参考に<スマホをお供>に、お進み下さい。

 

 

 皆さんには、これに懲りず・飽きず更に多くの地点・場所を訪れ、その訪ねた点が線に、線が面に、面が層になるごとく、石見銀山のより広く高く深く長くを楽しんで頂きたい。同時に勝手ながら、良くも悪くも、我々の気付かない石見銀山を、多方面からのご指摘ご教示を頂き、自らの糧としたいところだ。

 

 以上は、一地元人の頗る私的・感覚的・独善的説明です。しかも歩くペースでの内容で、その内容も浅く薄く、添付の写真についも不十分なものです。更に、このブログの性格上多くに見られる、高度な専門的歴史資料や文献の羅列・引用は、それらとの重複を避けて敢えて、ここでは取り扱っておりません。

 

 ● お詫び と お礼

 今回の当ブログのコンセプトは、一般の誰でもが何時でも訪れ確認・検証できる場所や物であることだ。よって、権威性・格調性に欠ける点はご了承ください。許可を取り、料金を払い、条件を付ける権威主義の排他的事象については、敢えて一切取り扱わ無い。しかし、その分、説明と共に沢山の資料の並ぶ他に比べて、大いに物足りない物ではある。

 

  然も急ぎとは言え、誤字・脱字・てにおは・変換ミス等々、他の方の物は当然とは言え校正・校閲は完璧で感心する。その内追々の積りが・・・・だ。

 

 これは飽く迄、見銀山遺跡の<入門・概論>として綴ったものだ。色々な媒体に沢山の研究者・先達・権威による著述など多くあり、それらを検索・参照の上、確認・補足されることを、お願いするものだ。

 

 そして、ご来訪、誠に有難う御座いました。これに懲りずに、次回は是非大勢様でお出掛け下さい。

 

<掲示板>

当ブログでは これまでに 石見銀山に関する 場所・事柄などを

何回か 散歩がてらに ランダムに 綴って来ましたが 

それでは 石見銀山の トータル・全体像が 掴み難く

改めて 歩き・撮り集めた物を 記事にして

YouTube と 公式・ホームページで 紹介しています

 

石見銀山の 見方・歩き方

公式ホームページ  初めての石見銀山

 http://iwamiginzan.org/

YouTube動画  シリーズ・石見銀山遺跡

https://www.youtube.com/user/IwamiGinzan/videos?sort=dd&view=0&shelf_id=1