航空特攻 アメリカ“大物”艦船列伝 | 新労社 おりおりの記

航空特攻 アメリカ“大物”艦船列伝

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特攻で損害を受けた艦船の一覧

 

日本軍の特攻作戦は、賛否両論あるのです。戦時といえど死ぬこと前提の体当たり攻撃は非人道的だ、しかし若者の国や愛する人を守ろうという純粋な意思とココロはたたえるべきだし、戦果も思った以上に上がったというのがその中身ですが、どう戦果が上がったのでしょうか?

 

具体的にヤラれた著名なフネはどんな損害だったのでしょうか?調べてみました。1944年の戦果が多いのは、1945年の沖縄戦頃になると、アメリカ軍も防御態勢を固めて、周辺の駆逐艦など、戦果が小型化したからです。

 

 

波 護衛空母セント・ロー

 

1944年10月、一番最初の特攻で沈んだ護衛空母。レイテ沖海戦、前代未聞の栗田艦隊の空母への砲撃戦をくぐり抜けた護衛空母群に1時間半後、今度は特攻隊が突入しました。たった1機のゼロ戦の体当たりと爆弾でガソリンに引火し、爆弾や魚雷に誘爆し、30分で沈みました。懸命の救助作業で900人近い乗組員は143人の死者行方不明にとどめました。

 

 

波 護衛空母オマニー・ベイ

 

1945年年明け、これもフィリピンでした。今度は爆弾2発を持った、レーダーにかからないように海面スレスレに飛んできた高速の彗星爆撃機でした。艦載機や魚雷に誘爆し、消火器を破壊して、手のつけようがありませんでした。これも98人の死者でとどめ、なかなか沈みませんでしたが、暗夜にかがり火のように特攻機の目標になるのを避けるため、魚雷で処分しました。

 

 

波 護衛空母ビスマルク・シー

 

今日に至るまで、アメリカ海軍で最後に戦没した空母。1945年2月、硫黄島攻略戦時、薄暮攻撃で2機の特攻機が当たり、夜空に紅蓮の炎を噴き上げました。1機目は魚雷4本の誘爆を防いだものの、2機目(か爆弾)が消火システムを破壊。艦上機を爆発させたため、格納庫内の航空機、燃料、弾薬に次々と引火しました。15分で艦は放棄され、318人もの犠牲者が出ました。

 

 

船 空母バンカーヒル

 

エセックス級の主力空母で、特攻機突入後の生々しい写真で知られています。1945年5月、2機が突入し沈没は免れましたが、戦死、行方不明者は402人に及んで、命が失われた1艦では最大の被害になりました。爆発、火災以外に有毒ガスが発生して、パイロットや機関員が酸欠で折り重なるように大勢戦死しました。そんな悲惨な艦内だったにもかかわらず、死者の金品などを盗む「火事場泥棒」がずいぶん出て、アメリカ海軍の汚点として隠さねばならないほどだったようです。

 

 

船 空母フランクリン

 

エセックス級の大型空母。1944年10月、レイテ沖海戦に関して複数の特攻機の攻撃を受け、中破しました。その時は無事で、すぐに戦線に復帰したのですが、翌年今度は沖縄で爆弾攻撃(体当たりではない)を受けて、1,000人近い死傷者を出しました。それにもかかわらず沈まず、2度にわたってエセックス級空母の頑強さを証明することになりました。

 

 

船 空母エンタープライズ

 

愛称ビッグE。開戦時からの活躍で日本空母だけで5隻、戦艦武蔵など2隻の戦艦の撃沈に貢献しています。日本軍も何度も爆弾を当てたのですが、撃沈できませんでした。沖縄戦で特攻機が至近爆発し、無人の艦上機が炎上してそれをそのままカタパルトで射出して事なきを得ました。その後空母バンカーヒル大破のため、沖縄攻略の旗艦を引き継ぎましたが、それも3日だけ。「これまで日本海軍が3年かかってもできなかったこと(エンタープライズの撃破)を、たった一人で一瞬の間にやってのけた。」という大胆な一大尉の攻撃により大破し、戦場を離脱し、アメリカに帰りました。

 

同じ戦前からの老空母サラトガも硫黄島で特攻機4基の命中を受け、死者・行方不明者あわせて123人、負傷者192人を出しました。

 

 

船 空母イントレピッド

 

エセックス級の大型空母。1944年11月25日、レイテ沖海戦のさなか、2機の特攻機が激突して69名が死亡しました。艦の推進力には影響が及ばず、2時間以内に消火作業を完了しました。沖縄では戦艦大和の撃沈に貢献し、3月と4月に二度にわたって特攻機の体当たり攻撃により損傷し、修理のためにアメリカに帰り、終戦になりました。

 

 

船 空母ベローウッド

 

インデペンデンス級の軽空母。1944年10月30日、フランクリンに突入した特攻部隊の1機がベロー・ウッドに突進し後部に激突しました。運悪く発進準備中の飛行機で一杯で、突入時の爆発と撒き散らされたガソリンによって火災を引き起こし、飛行機に装備するため用意してあった爆弾も次々と爆発しました。乗組員92名が死亡または行方不明となり、しかし消火活動と爆弾投棄を行った結果、沈没には至りませんでした。30機の艦載機のうち、ほとんどが焼失しました。翌年も特攻攻撃を受けましたが、幸い命中しませんでした。

 

ベローウッド(左)とフランクリン

 

船 空母レキシントン

 

日本軍が珊瑚海で撃沈した空母の2世。エセックス型。レーダー設備が充実していて、アメリカ大艦隊の旗艦に選定され、任務部隊の中核として活躍しました。この2世も「4回撃沈」(マーシャル、トラック、マリアナ、フィリピン)され、そのたびにブルーゴーストと言われました。1944年11月、50名戦死したのが最大の損害でしたが、旗艦を守る「カミカゼ」対策が功を奏し、1945年は損害なしでした。

 

現在記念艦のレキシントン

 

船 空母エセックス

 

エセックス級の一番早くできたフネ。ヤラレて甲板に大穴が開いた写真が有名。1944年11月25日、1機が飛行甲板に命中。15名が戦死して44名の負傷者を出しましたが、見かけほどひどくはならず、同時に特攻機にやられた「イントレピッド」の艦載機を一時的に避難させるくらいの余裕がありました。

 

 

船 空母カボット

 

インデペンデンス級小型空母の7番艦。エセックスと同じ日に1機命中し機銃台座を破壊しました。乗組員62名が死傷しましたが、ダメージコントロールは速やかに行われ、すぐ復旧しました。沖縄などでも損害を受けませんでした。戦後はスペイン空母「デタロ」になり、1989年まで使用されました。

 

船 戦艦ニューメキシコ

 

開戦時真珠湾にいなかった戦艦。艦砲射撃で活躍しましたが、沖縄戦の5月11日に8隻の特攻艇を破壊後、12日に飛行機の特攻攻撃を受けました。1機が爆弾と共に突入し爆発。54名が死亡し119名が負傷。直ちに消火作業が行われ30分以内に鎮火しました。さすが頑丈な戦艦です。

 

ただ突入箇所が艦橋で、イギリスの連絡武官、ラムスデン中将とたまたま来ていたイギリス艦隊司令長官、フレーザー大将の副官が戦死しました。最高司令官は艦橋の端にその時たまたま歩いて行って離れ、偶然救われました。その後5月28日に修理のため後退しました。他にも戦艦ミズーリは4月11日に突入を受けましたが、甲板にへこみができたくらいで終わりました。

 

船 軽巡コロンビア

 

日本陸軍の特攻機(九九式襲撃機)の体当たり攻撃を受け13名が死亡、44名が負傷しました。前前年にブーゲンビル島沖海戦で日本艦隊を叩きのめして、軽巡川内や駆逐艦初風を沈めました。その仇を取られたのですが半年で復帰し、大戦末期でも残っていた東南アジア奪還に備えていたところ終戦になりました。

 

船 駆逐艦モリソン

 

1945年5月4日、最高速度は新幹線のぞみより遅い、239km/hの九四式水上偵察機が迎撃を巧みにかわすと、この駆逐艦の航跡の上に一旦着水、航跡の上を滑走しながら追尾し、離水するとそのまま超低空で後部砲塔に突入して火薬庫を誘爆させました。モリソンは8分間で轟沈し死傷者255名にも上り、無事だったのは、誘爆で海中に投げ出された71名のみでした。

 

 

特攻機、単にぶつかるだけでなく、知恵を使って相手のスキを突き、けっこう大物もやっているのですね。しかし1発2発の爆弾では、魚雷や大編隊の大空襲には及ばず、アメリカ空母の強力なダメージコントロールも相まって、護衛空母以外の巡洋艦以上の大型艦は1隻も撃沈できなかったのです。のべつまくなしの大空襲と違って人員をそこに集中でき、他艦の援護も受けられたのも大きいでしょう。

 

アメリカ軍のカミカゼ対策は、最初は大編隊の戦闘機を配備し、特攻機も大編隊なので間に合わなくなると、レーダーピケット艦を周囲に配置して、艦の損害が大きくなると、早期警戒機を配置して、今日のミサイル防御システムのモトになりました。

 

特攻ー人情と合理性の狭間

 

しかし日本の指導部も沈めなくても飛行機の発着不能、重篤な損害の他に、精神的なダメージを与えればいいと考えていました。恐怖感を生ぜしめ本土決戦までの時間を稼げば、ソ連の動向も含めて、有利な条件での講和の機会も巡ってくると考えていたようです。特攻の「現場」も戦術をあの手この手と考え、低速機、木造機も動員した、というのはレーダーや近接信管の防御を少なくする効果をもたらしたりもしたのです。

 

特攻に対する考え方(当時のヒト)

 

莫大な艦隊や飛行機軍団の損害を出さないゲリラ攻撃のような特攻は、海中や水上も含めて、実に効率良い、切羽詰まった国の戦術、また戦略としても最善の策だったかもしれません。ただドイツは当時独裁者の国だったにもかかわらず体当たり攻撃はやりませんでした。「カミカゼ」は悲惨な戦争の代名詞であると同時に、日本人独自の国難に対する勇気と覚悟、それに基づいた知恵と合理性の能力を歴史に示したものでした。