アジアご飯、とくにマレーシアご飯、時々つぶやき

2005年から2009年までの4年間、常夏のマレーシアで暮らしていました。2年過ぎた今でも、日本食は「ハレ」の料理でちょっぴりよそよそしく、アジア飯のほうが「ケ=日常」のご飯で、ホッとします。私にとっての食とは、味わいながら、みんなとつながることです。


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今日は、4月28日、シブヤ=渋谷の日で

渋谷周辺の映画館が1,000円だった。

そこで早速、レディスデイが無い(確か)

恵比寿ガーデンシネマにいそいそ。

ウディ・アレン主演監督の『さよなら、さよならハリウッド』を見てきた。

 

あぁ~、なんて可愛いんでしょう!

お茶目でキュートで、可愛いおじいちゃん。

私生活でも何人もの恋人や妻がいて、

養子も含めお子さんも多数いらっしゃる、ウディさん。

その愛されキャラが、とてもよく分かる気がした。

たぶん、ほおって置けない、と女性に思わせるのがうまいのかも。

 

とにかく、言葉のテンポとセンスが絶妙で、

久しぶりに、ドッカンドッカンと観客が笑う映画だった。

なかには、英語のせりふのタイミングで笑っている人もいて、

「おぬし、やるな」って感じ。

 

こんなコメディ映画を見ると

人生はバラ色ってわけじゃなけれども、意外におもしろいかもな、

シリアスでも、ちょいと発想を変えて笑いにしてみては。

なんて思ったりする。

 

深刻な事件や天災が相次ぐなかで

だからこそ、娯楽の大切さをつくづく思う。

 

 

 


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耳が聞こえず、目も見えない人がつかう言葉、触手話

 

もともと聞こえない人で手話を使っていた人が目も見えなくなった場合、

触手話を使うことが多い。

反対に、もともと目が見えない人で、あとで耳が聞こえなくなった人は、

手の甲にカタカタと点字をうつ、指点字を使うらしい。

もちろん盲ろうの方が、必ずどちらかの手段を使うわけではなく、

たくさんあるコミュニケーション手段のひとつが、この2つである。

 

先週、触手話の講習会に参加してきた。

今までイベントや福祉大会などで見たことはあったけれども、

実際に話しを聞くのは初めてだった。

 

第一部は、盲ろうの方の講演。

彼は、もともと聞こえない人だったので、手話がペラペラ。

手話で、実体験やこれからの夢を語る。

話しがとても上手で、ドッと笑いがおこる。

なるほど~とみんなで頷いたりもする。

でも、この反応がどれくらいまで伝わっているか分からない。

思わず、いつもよりもたっくさん手を動かして反応したりする。

 

彼は弱視という症状なんだそうだ。

弱視のなかにも色々あるらしく、

彼の見え方は、そこにある物が、違う場所に見えてしまう。

手を伸ばしても、そこに物はない。位置がズレてしまうのだ。

 

彼は、通訳さんの手を触りながら、指の形、手の動きを読みとっていた。

これが触手話。

通訳さんの手の上に、自分の手を軽く乗せ、形、動きを読みとる。

伝えるほうは、指文字、数字、手話、すべてを総動員して伝える。

 

伝えたい言葉のなかには、文字だけでなく、目に見える情報もはいっている。

「階段があるよ」

であれば、階段のマークを手で作り、

下に降りる階段であれば、すこしずつ下に動かす。

上に上がる階段であれば、すこしずつ上に動かす。

そのようにして、周りの状況も触手話で伝える。

 

第二部は、触手話体験タイム。

隣りの人と目をつぶりながら、体験してみた。

いやぁ、、難しい…。

表情で伝える(ごまかす?笑)ことができないので、

全部、手で伝えなければいけない。

指文字や数字についても、手で触って読みとる方法が分からない。

 

でも体験していくうちに、すこしコツが分かった。

それは、「手話の動き」が大切ということ。

触手話というのは、いつもの手話で表しているとおりの動きや形を

そのまま表す。

自分のあごの下に手を置いて伝える「待って」

という手話だったら、

相手の手を、自分のあごの下までひっぱって、

そこで「待って」とする。

 

目をつぶって、相手の手を読みとってみるとよく分かる。

動きのある手話は分かりやすい、

お腹からポロンと出る仕草をする「生まれる」。

とんとんと両手で机の表面をたたくような「今日」。

そういう手の動きがある手話なら、ははーん、と検討がつく。

 

なるほど。

目で見る手話が、動きで感じる手話になったんだな。

手話も使い方で、変化するんだ。

目で見る言葉=手話というわけではないんだ。

 

触手話。

コミュニケーションを新しい側面を見せてくれました。

 

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テニスシューズをお店で選んだ。

「それで、靴ヒモはどこにあると?」

「えっ?」キョトン顔の彼。

 

「だから、テニスシューズを買うときは、

 靴ヒモも買って、付け替えるのが普通とよ」

ますます、キョトン顔の彼。

 

「大学生のとき流行らんかった? 靴ヒモを変えること…」

「いや、流行らんかった。九州だけなんちゃうん?」

きっぱりと彼。

 

「確かに、音のテニスシューズは、けったいな、

 靴ヒモがついとるもんなぁ」

すこし納得のご様子。

 

会話をしながら、実はわたしも驚いていた。

大学生のときの習慣。

それを今も覚えていているなんて。

 

テニスシューズを買うまでは、

現テニスシューズに、派手な黄色とオレンジの靴ヒモが

付いていることさえ頭に無かった。

 

でも、10年ぶりにテニスシューズを買うときになって

自然に靴ヒモを探そうとした。

さも、いつもそう行動していたように。

 

いやぁ~、昔の習慣って、よく刷り込まれているねぇ。


ちょっと怖いような。

でも、すこしほほ笑ましいような。

ちょっと笑えました。

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あんまりだと思う。
あの報道(ワイドショーのニュース)は、いかがなものか。

2009年までにスタートを予定している「裁判員制度」。

法科大学院制度や、司法試験の変革などを含む、司法改革制度のひとつで、

重大な刑事事件について、一般市民が裁判官と一緒に審理に立会い、

評議を行う制度だ。

 

先日の内閣府のアンケートによると

国民の7割が参加したくないという結果がでたとか。

 

それについて、スタジオの司会やコメンテーターが

ぺちゃくちゃ、気ままに意見を述べていた。

 
司会A「仕事、休まなくてはいけないの?
じゃぁ、この番組の司会もできないってこと?
それは困るよー、仕事なんだからさー」

 

仕事も大切ですが、裁判員制度は義務であり、

もっといえば、国民の主権を守る、権利だと考えられている。

“選挙? いや面倒だよー。子供と大切な遊ぶ約束しちゃってるしさー”

同じレベルの会話です。

 

 

アナウンサーA「裁いた人の逆恨みが怖い、という意見もありました」

司会A「そうですよ。僕なんて顔が分かるから困りますよ」

 

オイオイ、あだ討ちが認められていた時代じゃあるまいし、

今は、まがいなりにも法治国家だ。

そんなくだらないコメントをお願いだから、

大切な電波をつかって流さないでほしい。

 

あだ討ちが怖い? だからイヤだ?

だったら、裁判官はどうなるの。

そういう職業に就いたから仕方がないっていうの。

どんな職業に就こうとも、どんな暮らしを自分で選択しようとも、

ひとりひとり自由に生きていく基本的人権があるのに。

 

こういう安易なコメントが、

「危ないから、過去に性犯罪をもつ者は住民に知らせるべし」

「街中どこにでも、悪人を監視するカメラをつけるべし」

という発想になるんだな。

どうしてこの人たちは、自分がいつも監視する側だと、

確信できるんだろう。不思議だ。

この時代、いつ、監視する側から

か監視される側になるか分からないのに。

 

 

コーナーの締めは、思いっきり歪曲した解説で終わっていた。

 
アナウンサー「アメリカなどで導入される陪審員制は、
有罪か無罪か判決を決めるだけです。
裁判員制は、有罪か無罪を決めたうえで、
量刑まで決めなければいけないんです」

司会 B「えぇ、量刑までですか…」

 

この説明、たしかに間違っちゃいない。

でも、とても大切なことが抜けている。

陪審員制は、陪審員のみで決める。

つまり裁判官は不参加だ。

でも日本の裁判員制は、裁判員と一緒に評議することになっている。

これは、国民だけで評議せよといっても難しいだろうから、

という措置案だ。

このことを抜きにして、量刑だけを語るのは、反則ではないか。

 

 

いや別に、この会話、

プライベートの気の合う仲間同士で語っているならいいですよ。

でも、お昼の情報番組で、こんな愚かなコメントを流してもいいのだろうか。

視聴者をバカにしちゃいけない。

こんな会話程度だったら、なにもあなた達じゃなくても、

誰だってできますよ。

 

「いやですねぇ。困りますねぇ」

そう言っていれば、お給料が手に入る。

なんていい商売なんだ。

 

さらに、わたしの違和感を増したのは、

「そうですねぇ」とみんなでうなづきあっているスタジオの雰囲気。

大した意見でもないのに、したり顔でふんふんとうなづいていて、

あぁ~、気持ち悪い。

 

しょせんテレビ番組で、意見の交換はできない。

意見が合わなければ、視聴者の後味(後見?)は悪いし、まとまりがない。

誰かのもっともらしい意見に、ふんふんとうなづいているのが一番簡単で無難だ。

あぁ~、わたしの一番嫌いな雰囲気…。

しょせんはテレビなのに、でも、多大な影響力をもっているテレビ。
なんか、すごくテレビに対抗したい気分。
くー、絶対に、あんたなんかに操られないぞー。

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友人からの紹介で、糸井重里さん主催のインターネット新聞

「ほぼ日」のメルマガを読んでいる。

http://www.1101.com/home.html

 

昨日のメルマガに、こんなことが書いてあった。

 

ようするに、自分でもある糸井重里と、「ほぼ日」のやることに、いちばん興味があるという状況が、ずっと続いているのだと気がついてしまった。あ、ナマイキに聞えますかねぇ、やっぱり? でも、しょうがないんです、ほんとにそうなんだから。

 

「オレと、オレたち、何をしていくんだろう?」「やれることはやれるし、無理なことはしないし」「まぐれ当たりも、けっこうありそうだし」「偶然、誰かが火事場のバカ力を出したりもするし」「ほんとにやりたいことなら、なんとかできるぞ」みたいな程度のところに、ぼくらの力はあるわけで、それは、かなり興味深い選手たちって感じなんですよねー。巨人がなんだか情けないことになっちゃってても、よわったもんだと言いつつ球場に行かないのも、いちばんおもしろいのは釣りだと思っているのに

ちっとも釣りに行けなくて、それでも苦しくもないのも、好奇心や積極性が減っているからじゃなかったんだ。

 

この文字を読んで、はっと気づいた。

そっか。わたしがやりたいことは、


――「オレと、オレたち、何をしていくんだろう?」「やれることはやれるし、無理なことはしないし」「まぐれ当たりも、けっこうありそうだし」「偶然、誰かが火事場のバカ力を出したりもするし」「ほんとにやりたいことなら、なんとかできるぞ」みたいな程度のところに、ぼくらの力――


なんだ。

 

そして、そのためには、糸井さんがやっているような、

ゆるい共同体のような仲間が必要なんだ。

 

わたしは、わたしが由木音であることに興味があるし、

今の由木音の存在は悪くないと思っている。

ライターの仕事も向いているし、やり方を工夫しながら、

これからも続けていけるだろう。

 

でも、なにかが足りない、とずっと感じていた。

なにか、わたしが大切にしているものが欠けている気がしてならなかった。

無いものねだりかなぁ、と考えないようにもしていた。

 

でも、いま分かった。

 

わたしの欲しいものは、わたしの伝えたいことを

一緒に伝えようと活動をともにしてくれる仲間だ。

それは、同業者という個別の立場ではなく、

編集者とライターという依頼主、依頼受の対立関係でもなく、

よく話しを聞いてくれる友人や家族でもなく、

もっと近くて、もっと実務的な、仕事の意見を語り合える仲間。

 

会社という組織にしてもいいし、

同じ仕事を一緒にやってもいいかもしれない。

そういう仲間とともに活動をする、わたしは、きっとそういうタイプだ。

 

 

話しはすこし変わるけれども、

昨日、ピアノのコンサートに行ってきた。

 

久しぶりに聞く、ピアノの音色。

正直にいうと、はじめは少し物足りなく聞こえた。

ピアノって、こんなに小さな音色だったの?

もっとフォルテは出せないのだっけ?

 

でも、すこしずつ時間が経つにつれ思い出した。

あぁ、この繊細な音色。

儚くて、ペダルを踏んでも、すぐに消えてしまう音。

 

日頃いかに、機械音や電子音にさらされているか。

人が弾くだけでなく電子音で最大のボリュームにされた人工的な音。

それは、人の力以上の強さで鼓膜を振動させる。

 

でも本来、人が奏でられるのは、こういうピアノのような音なのだ。

どんなに力と技を込めても、大きく弾ける音は限られているし、

どんなに両手を広げても、30センチの横幅にもならない。

どんなに技を使っても、押すことのできる鍵盤はたったの10個だ。

 

限界のある体で奏でる、繊細なピアノの音色。


きっと人は誰しも、こんなピアノの音のように、儚く弱い存在なんだ。

何でもできるなんて、そんなことあり得ない。

できないことはいっぱいあるし、無理なことは山ほどだ。

それを現代人は、なんでもできるようになったと勘違いして、

できないのは自分の努力が足りないからだと卑下して、
自らを苦しめる。

力のない、繊細な人間だからこそ、

ひとりひとりが美しいのにね。

 

 

ということで、

わたしは将来、仲間とやっていくことに決めた。

 

不安や、不満や、悩みなどは、

理由が分からないときは厄介だけど

理由が明確になれば、しめたもんだ。

 

仲間と仕事をしている姿を思い浮かべて、

これからも一歩ずつ進もう。

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なんと、昨年末に受けた手話通訳者試験(地域中心)に

合格してしまった…。 まだまだ技術がともなってなくて、

実際の手話通訳はまったく不可能なのだけれども、

とにかく、テストという面では、合格してしまった。

 

昔、会社で働いていた頃、

1.手話通訳になること

2.ライターになること

3.ウェディング関係の仕事をすること

という三つの夢を立てていた。

 

おそるべしだ。

3つ中2つも実現している。

実現している。

実現している。

 

信じられない。

夢とは現実になるものなんだ。

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六本木の駅を降りたら、

ふたりの女の人が手をギュッとつないでいた。

同じようなピンク色の薄手のコートをはおり、

双子のような歩き方。ときおり顔を見合わせて微笑み。

そういう関係かなーと思って顔を見たら、

ひとりは、かなりの年上……。

会話によると、手をつないで歩く、お母さんと娘ちゃんだった。

 

六本木ヒルズに着いたら、

黒のリクルートスーツに白いシャツを着た女の子が

不思議な表情で立ちすくんでいるのを見た。

鞄をひとつも持たず、手ぶらでウロウロ。

なんとなく見ていたら、突然、怒り出した。

「携帯なんて、×□★%&?〇!!」

そういいながら、足を振り上げ、パンプスを放り投げたのだ。

投げた先にはスーツ姿の男の子。

どうも、彼とケンカをしているらしい。

エイ、エイ!!

両足ともパンプスを放り投げて、裸足になる。

すると男性が、靴をそろえて、まぁまぁと女の子に差し出す。

しぶしぶ彼女は履く。

でもすぐに

エイ、エイ!!

と投げ出して裸足。

それをくり返していた。

 

六本木ヒルズの49階に着き、

禅フラワー(1日体験レッスン)の教室に到着。

講座が始まる前にトイレに、と教室を出たら、

「自己回復(?)〇〇」という看板が飾られた隣りの部屋から

女性がわんさか、わんさか出てくる。

こういう時代なのねぇ、と感慨深く思っていたら

「講師 おすぎ」との文字。

え、え、え?と思っていたら、

なんと、本人のおすぎさんが登場。

スタッフの「ありがとうございました」という声に

「あんなんで、良かったのかしらぁ」と話されていました。

テレビで見るよりも、若く見えました。

 

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ブ ラウン管から映し出される2001年9月11日のニューヨークの映像を「美しい」と感じてしまった盗撮魔・長谷川と、解離してしまった自分をあきらめかけ ていたゴスロリ(ゴシック&ロリータ)少女・萌との間に起こった2002年8月15日から9月11日までの出来事を描く。

 

覗くことで他者を発見し、自らのリアルに触れようとする長谷川とそのことに共鳴する萌は互いに共 犯者となり、リアルを奪還する困難な闘いに挑んでいく。その闘いに、張りぼてのメディア世界の中で長谷川や萌のように壊れてしまった様々な人たち・・・ひ きこもり、過労サラリーマン、風俗嬢、過食症の女・・・の断片的なエピソードが絡み合い、平坦な戦場としての日常が浮かび上がる。

 

長谷川と萌の不器用なコミュニケーションと静かな内省が、同時代を生きる観る者に微かな希望を与える。

 
PEEP“TV”SHOW
を見た。

監督・土屋豊、共同脚本・雨宮処凛さんの映画。

どういうキッカケかは忘れたけれども、

ときおり雨宮処凛さんのhpを見ていて、そこに載っていったので興味をもった。

ヒューマン映画、ラブ映画もいいけれども、

ときおり、社会派ドキュメンタリー(かな?)が無性に見たくなる。

 

すごい映画だった。

 

リアルを問いかけた映画だったのに、

見る人のもつリアルを次から次に粉砕していくような映画だった。

 

主人公は、毎日の生活になんの意味も見い出せない。

自分が生きていることさえもよく分からない。

唯一、他人を盗撮し、他人の生活を覗き見することが

リアルのような気がしている。

 

もうひとりの主人公も、同じ。

なんで生きているか分からない。

もがいているのか、楽しいのか、それもよく分からない。

 

そんなふたりが出会い、

一方が一方に、自分の私生活を盗撮してもらい

自分にとってはリアルではない自分の日常を、ネットで販売することにする。

販売することによって、自分の日常は誰かのリアルになっていき……

 

そんな内容に、どっぷり浸かった。


映画を見終わって、感想をすぐに考えることができなかった。

今思えば、それは、リアルを見失った世界に、言葉は必要がなかったからだと思う。

 

そして、呆然としながら、

いつものようにネットカフェに行った。

 

席に案内されたとき、わたしは心底ぞーっとした。

それは、映画のなかの世界がくり広げられていたから。

誰もがひとりで画面に向かい、キーボードを叩く。

響くのは、カタカタカタというキーボードを叩く音。

それはまさに、映画の世界そのものだった。

 

映画のなかが、本当のリアルなのか。

現実の生活がやっぱり本当のリアルなのか。

よく分からなくなって、頭がくらくらした。

 

ネットの世界。

それは現実であり、仮想であり、つながりであり、断絶である、と思う。

それらが背中合わせになっているというより、

ドロドロと溶け出していて混在しているような世界。


ネットだけに依存していたら、

間違いなく、わたしたちはリアルを失ってしまう。

 

もうすでに、そういう世界は蔓延している。

メールで連絡を取り合い、

悩みを相談し、コミュニティーをつのり、情報を得る。

たしかに、知識や脳の世界は広がっている。

 

でも、その世界は、人にとっての本当のリアルじゃない。

聞こえる、見える、においを感じる、触れることのできる

という体で感じるリアルじゃない。

 

そのうち、
触って「気持ち悪い」という感覚も

目で見て「まぶしい」という気持ちも、

味わって「にがい」という不快感も、

そんな必要のない感覚はみんな、忘れてしまうじゃなかろうか。

「気持ち悪いって、何? そんなことやらなくてもいいじゃん」

という時代になるのではないだろうか。

 

あぁ、なんだか書いていてものすごく怖くなった。


そういう風なことをリアルに感じさせてくれる映画だった。

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依頼された取材ではなく
自主的にお願いして取材に行くとき、
いつもより少しドキドキする。
出版社や雑誌という後ろ盾がない分、
素っ裸の自分で会わなければいけない。
〇〇会社、〇〇雑誌の由木 音ではなく
由木 音本人そのものであり、
それ以上でもそれ以下でもない無二の存在で、
相手と向き合うことになる。
 
それはちょっと不安で、心もとない。
でも、意外に楽チンで、気持ちがよかったりもする。
わたしだけで完結するという関係は、なにより風通しがいい。
だから、冒頭で書いたドキドキ感は、ワクワク感の一種ともいえる。
 
わたしは取材をしている最中、
ある、おまじないを唱えている。
 
それは、「わたしは沢木耕太郎と同じ立場」ということば(笑)。
 
たとえば、あるワークショップを見学させて頂くとき。
主催者には許可をもらっていても
参加者のなかに、わたしを知らない人がいるときがある。
(ほとんどの場合がそう)
 
知らない人はこう思うだろう。
「いつもの集団のなかに、なにやら、知らない奴がいる。
カメラを構え、メモなんぞ取っている!
アイツは何者じゃ?!」
 
そういう空気のときは、
正直、あまり居心地がよくない。
モゾモゾと居場所を探して、心がオロオロとさまよってしまう。
それは、新しい環境に入っていくときに誰もが感じるような
ひとりだけ、その空間から浮遊しているような、
柱が一本ズレているような、
そんな所在なさを感じる。
 
でも、周りの人の不信感は当然のことなので、
腹をくくって、この所在なさに、身をゆだねることにする。
 
そこで、登場するのが、さっきのおまじないなのだ。
 
『深夜特急』で有名なノンフィクション作家の沢木さん。
彼は以前、プロボクサーの輪島功一についての文を書いた。
彼は何度も何度も、ジムに通い、輪島の練習を見た。
言葉もほとんどかわせず、ひたすらにじっと見つめた。
 
きっと、そのときの沢木さんも、
この、所在ない気持ちを感じたに違いない。
感じながらも、
書きたいという欲望と
書かなければいけないという使命感と
書けるかどうか分からないという不安感を抱えながら
見ていたと思う。
 
そんな彼の気持ちに思いを馳せる。
すると、すーっと落ち着くのだ。
沢木さんにできて、わたしにできないはずがない。
同じ人間。同じ気持ち。
そう思うと不思議と安心できる。
 
そんなことを考えながら、
時間は過ぎていく。
 
すると今度は不思議なもので、
その場にいつのまにか馴染んでいる自分に気づく。
 
「感覚」というものは、
脳や意識に比べて、ずっと素直でオープンなので、
2時間くらいそこにいれば、自然と周りと結び付けてくれる。
場所、人、その場の空間と一体化させてくれる。
 
知らない人が取材にきても、相手の考えを知らなくても、
「感覚」がまずお互いに挨拶してくれる。
一緒に同じ空気を吸っているだけで、安心感が自然と生まれてくる。
そして取材をすることができる。 

おまじないを唱えたり、
感覚に感動したり、
そんなこんなで、ありがたくも、自主取材を行えている。

 

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昨日、六本木ヒルズが主催する

「アカデミーアーテリジェントスクール」に行ってみた。

これは1回きりのお稽古ごとのスクールで

フラワーアレンジメントから、ビジネスまで講座は各種。

ニコニコ現金、当日支払い(3000円)なので、

気軽に体験することができる。

 

昨日参加したのは、

「和の達人に学ぶ茶道、いけばな、着付け」。

どれも、なんとなく興味があるけど、躊躇していたもの。

2時間で3つも体験できるなんて、本当か?と疑問をもちながらも、

申し込んでみた。

 

当日、40階に上がったり、49階に上がったり、

いや違った40階だ、とバタバタしていたら遅れてしまった。

なので、後ろにこっそり座ろうと思って教室に入ったら、

なんと受講生が、右前の席にぽつんと一人しかいない。

やむ終えず、先生の目の前の席に座る。

 

はっきりメイクで、美人で、髷をゆっていて、

着物を着た先生は、自分のことを「先生はね」という。

 

「先生はね、ここに来たからって、何も得するわけじゃないのよ

 でも、日本文化を伝えていかなければならない、と思うの。

 このマイナーな日本文化をね。

 そんなに難しいことじゃないのよ。

 でもみんな、あーたたちも、日本人なのに知らないことが多い。

 ついこの前までは、みんな着物を着て生活していたのよ」

 

濃いキャラの先生だし、礼儀を説く内容なので

背筋をきちんと伸ばして聞く。

好感度のためには笑顔が大切、といわれるので、

時々うなづきながら、微笑んだりもしてみる。

 
「茶道で大切なのは、相手のことを考えることよ。
 相手がどのような気持ちで、道中を歩き、ここに訪れたのか。 
 その気持ちを思いやって、そこからおもてなしを考える。
 桜の花を見ながら訪れた人に、 
 部屋のなかにも桜が飾ってあったら、またか、と思うでしょう。
 そうではなく、対照的な花ね。 
  たとえば一輪の真っ赤な花などを飾っておくと、
  キレイな花ね、となるわけ」

 

なるほど。

もてなしの心は、相手のことを考えることから始まるのか。

 
「茶道で難しいのは、10年をすぎてからね。
 なんといっても、茶道とは、道(みち)の教え、
 己をかえりみることが大切なのよ。 
 いつでも初心。 
 その気持ちを保ち、己を絶えず反省すること」

 

ふ、ふ、深い!!

そんなに深いことだったんだ、茶道って。

 

迎える相手の気持ちを尊び、そこに寄り添うこと。

もてなされるほうも、亭主のもてなしの思いに感謝をすること。

そして絶えず、己と向き合い、心の声をきくこと。

 

言わなきゃ分かんない、ではなくて、

言わなくても分かちあえることを尊んだ「和」の文化。

あぁ、美しいなぁ、と思った。

 

もちろん、言わなければ、心なんて見えないし、

なんでも言ってほしいし、言いたい。

でも、言わないからといって、相手の気持ちを考えなくていい、

わけではない。

相手のことが分からないのは、

あなたの心の磨き方が足りないから。

そんなふうに言われた気がした。

 

深いなぁ、茶道って。

なかなかいい講習会だった。

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