多少、聖書に通じた人ならば、「人類最初の殺人は」という質問をされたときに、「それはカインによる弟アベル殺しです」と答えると思います。聖書の記述によると最初の人類であるアダムとエバの息子の代で、早くも殺人が行われています。それも兄弟間で殺し合う光景が描かれているのです。

人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろうと神がおっしゃって女性をお造りになりました。このメッセージは私たち人間が造られたのはまず何よりも他者と共に支え合い、助け合うためであることを明示しています。私たちはただ自分一人で生きていくのではなく他者との関係の中で、また神との関係の中で生きる者であることが創世記が語り掛けるメッセージです。

 

さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
創世記 4:1‭-‬2 新共同訳

 


原罪によって神からエデンの園を追い出されたアダムとエバですが、その後この夫婦にはカインとアベルという二人の息子が生まれます。「知った」とは「性的な関係を持った」を意味する表現です。これは二人が一体となること、互いに完全に知り合うことを意味します。性行は最も親密な行いであり社会的・肉体的・霊的な関係を内包しています。そのため神はこれを婚姻関係のみに限定されているのです。


アダムとエバが犯した罪に対し、神は「産みの苦しみを増す」という宣言をくだされました。骨盤が割れるかと思うほどの苦しみをへてカインを産んだ時、エバは「私は主によってひとりの男子を得た!」と歓喜しました。この言葉は先に神が彼女に与えたあの約束を意識してのことばです。つまり女の子孫が蛇の頭を踏み砕く(3:15)という主の約束が自分の出産によって成就するのだと彼女は期待して生まれたわが子カインを胸に抱きました。ところがそれは思い違いだったのです。

ある日、息子のカインは救い主どころか人類の歴史における最初の殺人者となってしまいます。自分が腹を痛めて産んだ子どもたちの一人がもう一人を殺してしまうという、母親にとってこれ以上に悲惨な経験はありません。あの日、善悪の知識の木の実を取って食べて神に反逆したことがこれほどに恐ろしい結果を生んでしまったことに慄然とさせられるのです。罪は、親から子へ、子から孫へと遺伝していきます。人は、生まれながらに罪の性質を帯びて生まれてくるのです。

 

 

時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。
創世記 4:3‭-‬5 新共同訳

 

さてある時期になって(3節)成長したカインとアベルとは、主へのささげ物を持ってきたとあります。彼らは父アダム、母エバから、幼いころから造り主である神様に対して礼拝をささげることを教わって育ってきたのでしょう。アダムとエバとは自分たちが神のことばに背いて楽園を追放されてしまったこと、それにもかかわらず神は救い主を到来させる約束を与え、罪の恥を覆う衣を着せてくださったのだと子どもたちに語って聞かせてきたわけです。

神に礼拝をささげる父と母を子供たちは見てきました。そして今日、カインは大地を耕す農夫として、アベルは羊飼いとして、自立して働くようになっていよいよ大人として神へのささげものをする、そのときが来たというのが「ある時期になって」ということばの意味です。

4節~5節では、神が好むささげ物とそうではないささげ物があるというふうにも読めてしまいそうですが、聖書全体を読むと神はいつでも人がささげ物をするときの心の在り方を問題にしています。悔い改めをすることなしに動物のささげ物を持ってくる民に向かってはわたしは、雄羊の全焼のささげ物や、肥えた家畜の脂肪に飽きた(イザヤ1:11)と言っていますし。

イエスは貧しい未亡人が少額の献金をする姿を見てこの貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを投げ入れたのですから(マルコ12:43~44)と言っています。

箴言21章27節には悪しき者のいけにえは忌み嫌われる。悪意をもってささげるときはなおさらとある。神は私たちの動機といけにえの質の両方をご覧になります。神や人に与える時は与えることができるのだから喜ぶ心を持たなくてはなりません。どれほどを与えなければならないのかと心配する必要はありません。全てはそもそも神のものだからです。心配せず喜んで神に自分の最高の時間、お金、能力を捧げましょう。


この物語を読むとなぜ神はカインを選ばれなかったのか?という理由が問題なのではなく、選ばれなかったときにそのことをどう受け止めるのか、ということのほうが重要であることがわかってきます。

では実際にカインが神に選ばれなかったときにどうしたかというと、彼は「激しく怒って顔を伏せた」とあります。これがカインの罪の一歩目となるのですが、この箇所をよく読むと、ここでカインが二つの動作を行っていることに気づくことができます。一つは怒ったという動作。そしてもう一つは顔を伏せたという動作です。実は神との関係を本当に絶ってしまったのは、カインの怒りそのものではなく、この顔を伏せたという行いのほうなのです。これはアダムとエバが「神から身を隠した」ことと同じなのではないでしょうか。


間違った行いを指摘された時あなたはどう答えますか? その間違いを正そうとしますか?それとも正す必要はないと言って否定しますか? カインの捧げ物が拒否されたあと神は彼に間違いを正してやり直す機会をお与えになりました。神はそうするように彼を励ましさえされました。

しかしカインはそれを拒否しました。カインのその後の人生を見れば自分の過ちを認めないものにどのようなことが起こるかが分かります。何か間違いを指摘されたら正直に自分を見つめカインの道ではなく神の道を選ぶようにしましょう。


カインが自分を攻撃して滅ぼそうと待ち構えている罪を克服するには、罪に足がかりを与えないようにその嫉妬深い怒りを捨てる必要がありました。今日でも罪は私たちを攻撃して滅ぼそうと待ち構えています。カインと同じように私たちも罪を退け、罪深い情念を克服しないなら罪の犠牲となります。

しかし私たちは自分の力では罪を克服できません。私たちは自分に必要な信仰を神に与えていただき励ましと勇気を他の信者に与えてもらわなければなりません。聖霊は私たちが罪を克服する手助けをしてくださいます。これは私たちがキリストとお会いする時まで終わることなのない一生の戦いなのです。わたしたちは神の御前にアダムとエバのように身を隠したり、カインのように顔を伏せてはならないのです。

 

信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。
ヘブライ人への手紙 11:4 新共同訳