私はこの文章をお盆の真っ最中、岐阜県中津川市にある私の格安別荘で書いています。テレビでは帰省、高校野球、終戦の話、そして別荘の外からはセミの声が心地良く聞こえてきます。

 

お盆は亡くなった人が霊魂となってあの世から家族のもとに帰ってくるという祖霊信仰で、仏教的な行事ではありません。漠然と死後も魂のようなものがあり、それが生きている人々を見ている。だから1年に一度お盆という行事を設け、先祖と八百万の神々に手を合わせ、神という無限の力を意識し、謙虚に生きることを誓うのです。しかし、それを意識させる番組がほとんどありません。「いじめ」「虐待」「8050問題」「無縁社会」が当たり前に出現する現代の「自己責任社会」を修正するには、「サムシング・グレート(大自然の見えざる力)」を意識して謙虚になるしかありませんが、どのテレビ局も面倒なのか、お盆に扱おうとはしませんね。

 

このサムシング・グレートが、日本特有であることを教えてくれるのが現在の韓国ではないでしょうか。国と国の距離も近い、DNAもほぼ同じモンゴロイドで違うのは、韓国は上下の関係、信賞必罰をはっきりさせる儒教の国で、日本はどんなものにも神が宿る「八百万神」という考えで、厄介なことにこの神様にはキリスト教の聖書、仏教の聖典のような教典がなく、根底を流れるのは「許しの文化」です。神職資格を取得する國學院大學でも、聖徳太子の十七条憲法 第一条「和を以て貴しとなす」に始まり、神道史、古事記、日本書紀、祝詞作法等、歴史と型を学ぶことが中心で、私たちが考える一般的な宗教者とかなり違った教育を受けています。人は半径5メートルの生き物だといいますが、仏教と神道のハイブリッドモデル日本と、韓国の少し偏った儒教モデルが理解し合うのは相当な時間と忍耐が必要となりますね。

 

また近頃は日系ブラジル人と日本人が理解し共生するのも、日本と韓国の共生と同じ位大変であることを私は実感しています。日本人は、「日系人は日本人と同じ顔をしていて、言葉が少し弱い位」と考えていますが、日系人の大多数のみなさんは、「自分たちは日本人と同じではなく、どんな仕事をしても同じ土俵には立てない」「がんばっても日本人と対等にはなれない」と思っているように感じます。

 

自分に自信が持てず、未来に希望が持てないと、もう少しがんばればと周りが思っても、気力が湧いてきません。この国は日本人の国なのだと思うと、がんばる意義も感じられず、無為に時を過ごすことになり、その親を見ている子どもたちはいじめに遭っても、自分たちは日本人と違うのだから仕方がないと思っています。心底そう思い込むと、不満を口に出すことも無くなります。

 

日本語の上手な日系人は、他の日系人に配慮して本音を私たちに話すことはありません。人口12,600万人の内の25万人という誤差でしかない人たちの心の叫びは、日本人には聞こえることもありません。同じ顔をしていても、心の置き所は全く違うのです。私たち日本人は、鬱積した日系人のみなさんのバトルや修羅場を見ることはありませんが、彼らの本音を理解することもありません。彼らは日本の言葉は理解できていますが、日本を理解できているわけではないため、日本人との心の溝が埋まることもありません。日系人通訳兼管理者がどこまで日系人社会に受け入れられているかを考えず、日本語スキルのみで採用している派遣会社の現状を考えると、ブラジル人も韓国のようにある日突然沸点に達し、日本人を敵と考え、新たな火種となる危険性を感じています。

 

 このようなことから、生活の基盤づくり・社会への貢献など当社の対応・体制が日系人社会の中でどのように映っているのか。今一度、現実を受け止め、異文化の人々との共生、付き合い方について見つめなおす必要があるのではないでしょうか。