• 25 Nov
    • 皆様へ

      長い間更新せずに申し訳ありません。ちょっとありまして、あとしばらく筆をとる気持ちになれませぬ。あとしばらくお時間を下さい。次回は『ウィンザーの陽気な女房たち』です。あとしばらく。がんばります。

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  • 14 Nov
    • シートン 「フランスの狼王、クルトー」

      「あらしのよるに」が映画化。12月10日(土)に公開だそうです。私はNHKで中村獅童さんの朗読を聴いて以来、すっかりこの本のファンになってしまいました。中村さんは映画でもオオカミのガブを演じられるそうです。NHKの朗読ではお一人でナレーションからキャラクタからすべてこなしていました。 朗読と言うのは一人芝居にちょっと似ていて、なかなか魅力的であります。 さて、そのオオカミ。絵本でも映画でも昔話でも、貪欲で残酷な動物として描かれることが多いですね。 私も小さい頃は「七匹の子ヤギ」や「赤頭巾」、「三匹の子豚」などでそんなオオカミ像を抱いておりました。それを打ち破ってくれたのがシートンの一連の作品です。実際のオオカミたちは頭がよく、仲間を大切にし、厳しい自然の中で気高く生きているのでした。 ここで話はまた中世ヨーロッパ、15世紀のフランスに戻ります。 今では世界中でほとんど絶滅しかけているオオカミですが、当時のヨーロッパにはまだ森も多く、オオカミたちもたくさんいました。 1420年代末といいますから、ハリーの死後、そしてジャンヌ・ダルク登場の頃。 打ち続く戦乱、重い戦費負担、そして黒死病。フランスはまさに滅亡寸前かに思われていた頃。 「ゴール人のハンマー」ハリー死後(墓標に書かれた語句による)、そのハリー以上に恐れられていたのがオオカミたち。度重なる戦乱によって森を焼かれ、獲物が少なくなった彼らは、病気や飢えで弱った人間や死んだ人間を襲い始めたのです。人間も必死でしたがオオカミたちも生きるのに必死だったのです。 そんなオオカミたちのリーダーがクルトー。ちなみにクルトーとは「ちぎれた尻尾」という意味だそうです。 クルトーたちは何年にもわたってパリ周辺を支配していました。 その悲惨な状況を打ち破るために立ち上がったのがパリ警備隊長のボワスリエ。彼はノートルダム寺院広場に餌を撒いてオオカミたちを誘い込み、城壁を閉じて高所から弓で射殺す作戦に出ます。 次々に倒されてゆくオオカミたち。しかしクルトーら力強く賢い数十頭は弓の死角に隠れ無事でした。 ボワスリエは精鋭を率い、白兵戦を挑みます。 そしてとうとうクルトーだけが残りました。 ここでボワスリエは部下に命じ、手出しを控えさせ、クルトーと一騎打ちの勝負を演じるのです。 彼がなぜ一騎打ちに出たのか。もはや一頭のみ残ったクルトーに対して勝算があったからなのか、それとも魔王と恐れられたクルトーに、大勢の仲間を率いていたオオカミに何かを感じたのでしょうか。 ボワスリエはクルトーを槍で串刺しにします。 しかしなおも息あるクルトーはボワスリエの喉笛を噛み切り、両者は同時に息絶えました。 私はこの物語を子供向けのシートン動物記で読み、深く感動しました。小学3年生くらいだったと思うのですが、紙芝居まで作った覚えがあります。両者相打ちの場面は特に精魂こめて描きました。拙い絵だったけれど。 もちろんこれはシートンが実際に体験した話ではありません。フランスの年代記にあった話を紹介したのです。 ですから「シートンにしてはめずらしく人間から見たオオカミをえがいています」と解説に書いてあったことも覚えています。 それでも私はボワスリエの名前は忘れてもクルトーの名前は忘れることができませんでした。 シートンはこのクルトー以外にも歴史書に残る動物たちの話をまとめています。そしてその半分以上がオオカミの話なのです。 エリセイオスさんもおっしゃっていたジェイボウダーンの鬼オオカミの話も出てきます。 中世ヨーロッパ人にとって自然はいまだ克服せざる対象であり、オオカミはその恐怖の象徴だったのでしょうか。 アーネスト T.シートン, 藤原 英司 シートン動物記 5 (5)

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  • 12 Nov
    • 夢の終わり (ヘンリー5世 その10)

      ああ、ヘンリー五世王、彼の名声があまりに高かったため、いのちは短かった。イングランドがこれほど偉大な王を失ったことはない。 ベッドフォード(『ヘンリー六世 第一部』第一幕第一場)トロワの和約により、ハリー(ヘンリー5世)の目的はほぼ達成されました。彼の祖先が数十年かけても達成できなかったことを。彼はいまや西欧キリスト教君主の中心的な存在となっていました。ドイツ皇帝ジギスムントとともに教会大分裂統合に尽力したことはすでにお話しました。彼の次なる夢は東方遠く、聖地エルサレムの奪還でした。すでに東方に使節を派遣したりしています。しかしそんな彼の思いとは裏腹にイングランドのフランス支配はうまくいきませんでした。和平条約を結んだといってもそれはあくまでフランスの一部の勢力と結んだだけのこと。南フランスはハリーの王位継承を認めない王太子シャルル(後のシャルル7世)が支配しています。そして土地に根を張り生きている多くの人々にとっては会いかわらず戦乱の日々が続きました。また戦争の規模が拡大、王権が強まるにつれ、戦争や国の性質も変わってきました。すでに先祖たちが演じてきたような単なる王侯貴族の所領争いではなくなってきたのです。ハリーが庶民派として、英語の使用を通じて纏め上げたイングランドの国民性。同じくフランスでも相次ぐ戦いに徐々にではありますが「フランス人」という意識が芽生えてきました。それは19世紀以降のナショナリズムから比べればまことに素朴なものでしたけれども、フランス語を話す人間にとって、どうせなら同じフランス人による支配のほうがましだったのでしょう、何々家の所領、領民、ではなく、「フランス人」という意識が生まれたのです。後年ジャンヌ・ダルクを突き動かした感情がまだほんのか細い流れではありますが、形成されつつあったのです。そんな中、1421年にはハリーのすぐ下の弟、クラレンス公トマスがフランスで戦死してしまいます。ハリーはつかの間のイングランド滞在を早々に切り上げ、身重の妻を残してみたびフランス遠征に乗り出します。そしてこれが彼の最後の遠征となったのでした。当時の遠征は、黒太子エドワードもそうでしたが、非常に不衛生で病気にかかりやすい環境でありました。ハリー自身、最初のフランス遠征でハーフラー攻略が長引いたため、陣中に病気が蔓延したという経験を持ちます。1421年の冬、ハリーはパリのすぐ近く、モーを包囲攻略中に健康を害し、翌22年8月31日、ヴァンセヌスで赤痢により死亡しました。35歳。それは彼にフランスの王冠を約束した「父」である仏王シャルル6世よりも2ヶ月早い死でした。こうしてイングランド・フランス、二つの王冠は彼の幼き息子ヘンリー6世に残されたのです。死にあたって、叔父ヘンリーとトマスのボーフォート兄弟を王の顧問に、三弟ベッドフォード公ジョンをフランス摂政に、そして末弟グロスター公ハンフリーをイングランド摂政に任じ、後を託しました。彼の最後の言葉は主よ! 私の願いはエルサレム解放であったのに!であったと伝えられています。彼は貴族・豪族階級や騎士道にこだわらず、商人階級と結び英語の使用を奨励するなど、それまでの中世君主とは異なった面も持っていましたが、神と教会に忠実で十字軍を熱望するなど、いまだ中世人の意識から抜けきれない面も持っていました。いわば彼は過渡期の人間だったのです。彼の築き上げた英仏連合王国は彼の死後数十年で崩壊してゆきます。「乙女」ジャンヌがオルレアンを解放するのが1429年。ハリーの死後7年目のこと。そして1453年10月19日のボルドー陥落により、イングランドはカレーを残してすべてのフランス領土を失うのです。こうして長きにわたった「百年戦争」は終わりました(カレーは1558年までイングランド領であり、イングランド王はその後も「フランス王」を名乗っていましたが)。『ヘンリー六世 第一部』の冒頭ではハリーの葬儀のさなかに次々とフランス領土喪失の使者が来ます。本当はそれは数十年にわたるできごとなのですが、現代から見ればこの劇のようにあれよあれよという間のことに思えます。まさにハリーが築き上げ、ハリーの死とともに崩れていったのでした。それはフランスの巻き返しもあったでしょうが、イングランド内部の混乱も大きくかかわっています。なにより誰もが予想しなかった、自分でもまさかという、ハリーの死でした。彼の軍事的才能、貴族や商人などさまざまな階層と交われるバランス能力、そして現実的なものの見方。それらすべてを受け継ぐものは誰もおらず、またそれらを分担して受け継がせることもできぬ間の死でした。それでは一体、ハリーがやったことは何だったのでしょうか。彼が築き上げたものがすべて失われてしまったのなら、彼の成し遂げたことは時代錯誤の茶番だったのでしょうか。彼の夢見た十字軍、エルサレム解放もその後実現されることなく、1453年にはコンスタンティノープルが陥落し、エルサレムはおろか、バルカン半島もムスリムの領土となります。時代はもはや王侯貴族が自分の領土を遠く離れて汎ヨーロッパ的に活動して回る中世を過ぎ、足元をしっかり固め、国家を形成する近世へとかわりつつあったのです。しかしそれでもハリーの成し遂げたことは決して無意味ではない。今日のイギリス、フランスの国家形成に役立ったと思います。彼が上からまとめようとしたイングランドの国民性。彼の遠征により、下から形成されたフランスの国民性。ハリーがいなければジャンヌ・ダルクも「声」を聞くことなく、羊の番をしながら生涯を終えたのではないでしょうか。「たら・れば」を重ねすぎるともはや歴史ではなく願望になってしまうでしょうが、私にはそう思えます。◆冒頭のセリフはウィリアム・シェイクスピア, 小田島 雄志ヘンリー六世 第一部 シェイクスピア全集 〔1〕 白水Uブックス より引用しました◆

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  • 11 Nov
    • キャサリン (ヘンリー5世 その9)

      私、フランスの敵を愛すること、可能ですか?               キャサリン(『ヘンリー五世』第五幕第二場)1417年から始まった二度目のフランス遠征の結果、イングランドはフランスの北部大半を所有することになりました。1417年にはノルマンディーを、そして1419年までにはルーアンを攻略。パリ城壁まで迫ります。 1420年のフランス↑ピンクがイングランド領、緑がブルゴーニュ公国(クリックで拡大します)ことここにいたってもフランス宮廷は二派に分かれて互いに争っていました。ハリー(ヘンリー5世)にとっては好都合。彼はブルゴーニュ派と連絡を取り、同盟を結びます。当時ブルゴーニュはフランドル地方(現在のオランダ、ベルギー)も手に入れ、フランスから半ば独立していました。フランドルは工業地帯。そのフランドルの毛織物はイングランドより羊毛を輸入して作られていましたから、昔からイングランドとのつながりが強かったのです。1420年、パリを支配したブルゴーニュ派とイングランドはフランス王シャルル6世と和平条約を結びます。これが『ヘンリー五世』のラストを飾る、トロワの和約です。シャルル6世の王位を認め、生存中はフランス国王とするハリーはシャルルの娘キャサリン(カトリーヌ)と結婚するハリーはシャルルの息子となり、ハリーとその子孫にフランス王位継承権を認めるシャルル生存中はハリーが摂政となるまたイングランド獲得地も正式に認められることとなりました。この時点でシャルル6世にはシャルル王太子(後のシャルル7世)がおりましたが、廃嫡となりました。もっともシャルル6世は精神不安定でまともに政治ができない有様。ですからトロワの和約も実際にはハリー、ブルゴーニュ公フィリップ、そして王妃イザベル(イザボー)の合意によるもの。この条約を見る限り、イングランドの全面勝利であり、百年戦争も終結したかのように見えます。シェイクスピアも『ヘンリー五世』をここで終えていますので、イギリス人の中には百年戦争はイングランドの勝利と思い込んでいる人もいるそうです。ですが廃嫡されたシャルルが黙っていません。依然として南仏に勢力を保ち、イングランドと敵対します。イザベルはなぜ実の息子を見捨てたのでしょうか。彼女は誠に恋多き女性で、何人もの愛人がいました。それで王太子シャルル(廃嫡された以上「王太子」ではないのですが、父と同じ名前でややこしいので「王太子」で通します)も自分の出生に疑問を持ったと言います。彼女には昔から不誠実な女性というイメージがありますが、彼女にしてみれば自然の情に従ったまでなのでしょう。当時結婚と恋愛は完全に別物でしたから(たまに一致した例もありますが)。しかも夫は精神に異常をきたしていたのです。もっともシャルル6世発狂の原因は王妃の浮気現場を見たからだ、という説もあります。それに王太子シャルルもキャサリンも同じ自分の子。息子が後を継げばかぶる王冠は一つだけですが、娘とハリーが継げば、生まれてくる孫は二つの王冠をかぶることになるのです。こういった事情を考えれば、彼女の行動も一概に非難されるものではないでしょう。キャサリンは1401年生まれですから当時19歳。ハリーより14歳年下です。姉にリチャード2世の王妃となったイザベルがいます。この姉は7歳でリチャードに嫁ぎ、10歳でリチャード廃位によりフランスに戻り、後にオルレアン公シャルルと再婚しました。ちなみにオルレアン公はアジンコートで捕虜となっています。当初は姉イザベルがハリーのお嫁さん候補だったという説もあります。1409年に20歳で亡くなった彼女、ハリーとほぼ同年でリチャードの宮廷でも仲良くしていたので、そこからこの説が出たのでしょう。ともあれ、ハリーはフランス遠征前からキャサリンとフランス王冠を要求。ここに見事成就させたのです。『ヘンリー五世』第五幕第二場にはハリーがキャサリンに求婚する場面があります。切々と恋を訴えるハリーと英語がほとんど分からないキャサリンのやりとりが微笑ましいです。冒頭のセリフ、「フランスの敵(=ハリー)を愛せるか」にハリーは次のように答えています。いや、ケート、きみがフランスの敵を愛することは不可能だ。だがわたしを愛することはフランスの友人を愛することだ、わたしはフランスを愛するあまり、その村一つでも手放す気はなく、すべてをわたしのものにしたいと思っているのだから。         (第五幕第二場)わたしはここを読んでいつも「うまいなあ」と感心してしまうのです。相手の問いに対して否定することをせず、一旦すべてを丸呑みにして、「いや、実はね」と持っていく。すぐれた会話術だと思います。ですがこのセリフ、あくまで征服者、王者のセリフですね。しかもハリーはこんなことを言わなくてもキャサリンを手に入れることが出来る立場にあります。もちろんこのセリフはフィクションなのですけれど、史実でもハリーはキャサリンに夢中になっていたらしいのです。プランタジネット家は、というよりイギリス王家は、代々好色家が多かった家系であります。ハリーの祖父ジョンも、曽祖父エドワード3世も愛人を作っています。ところがハリーにはそういった存在がいないのです。これはこれで奇妙なこと。なぜなら彼が王位に就いた時にすでに26歳。キャサリンにと結婚したときは33歳。それまでずっと独り身だったのです。とはいえこれは記録に残るような女性がいなかった、ということで、おそらくは記録に残らないような女性、つまり農夫か商人かの娘を愛していたのだろうというのがもっぱらの見方です。あるいは彼の生まれた地、ウェールズの娘だったかもしれません。いずれにせよ王妃となれる身分ではなく、記録に残っていません。そして王位についた後はそういった女性はいなかったようです。(この部分は私自身がまだ資料を読み取れなくて、はっきりわかりません)ハリーは戦争好きというイメージがありますが、一方で音楽を愛し、芸術家を保護するなど優しい一面も見受けられます。彼は結婚後、妻を心から愛し可愛がったのでした。1421年には息子ヘンリーが生まれています。しかしハリーが自分の息子を見ることは一度もありませんでした。◆本文中のセリフはウィリアム・シェイクスピア, 小田島 雄志ヘンリー五世 シェイクスピア全集 〔19〕 白水Uブックス より引用しました◆

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  • 10 Nov
    • 叔父ボーフォートと皇帝ジギスムント (ヘンリー5世 その8)

      全世界の国王、帝王たちは心を一つにして、陛下がその血を受け継がれておられるご先祖たち同様、獅子吼して立ち上がられることを期待しておりますぞ。エクセター公(『ヘンリー五世』 第一幕第二場)アジンコートの勝利でハリー(ヘンリー5世)の名声は高まりました。しかし一度の野戦で片がつくほどフランスはやわではありませんし、英仏両国の因縁もそれほど単純ではありません。ハリーは生涯で3度フランス遠征を行っております。そしてフランス内でイングランドの優位が確定するのは2度目の遠征と外交努力によるものでした。1417年から19年にかけて行われたこの2回目の遠征では、アジンコートのような派手な会戦は無いものの、じっくりと腰をすえフランス領内のノルマンディーやルーアンを攻略してゆきます。つまりハリーはその治世中ほとんどイングランドを留守にしていたわけです。彼がイングランドにいた期間は獅子心王リチャード(1世)と同じくらい短かったと言います。ですがリチャードとは違って彼が不在でもイングランド国内は平穏でした。一つにはサザンプトンの陰謀に対する処置やロラード派に対する処置のように、たとえかつての僚友であっても反対者には手早く厳罰をもって臨んだこと。そして二つ目には議会(貴族や僧侶で構成された国王の諮問機関)が彼によく協力してくれたことにあります。この議会を牛耳っていたのがウィンチェスター司教のヘンリー・ボーフォート。彼はジョン・オブ・ゴーントの庶子でハリーの叔父に当たります(冒頭のセリフの主、エクセター公トマスもボーフォート。ヘンリーの末弟に当たります。ヘンリーが政治面でハリーを助けたように、トマスは軍事面でのよきアドヴァイザーでした)。この叔父は少年時代のハリーの学問の師であり、皇太子時代からは政治上の盟友でありました。彼はヘンリー4世、ハリー、そしてハリーの子ヘンリー6世の三代にわたってイングランド内政に活躍しました。前回書きましたようにハリーはフランス内での略奪を禁じています。それが可能だったのはハリー自身のカリスマによるところも大きいですが、彼が兵士たちに気前よく給料を払い、食事を与えたことも見逃せません。かつてヘンリー・パーシー(ホットスパー)がヘンリー4世から離れていったきっかけが兵への給与支払い、物資の配給に対する不満からでした。ハリーは叔父がよく国内を治め議会をコントロールしていたので充分な遠征資金を得ることができ、兵を管理することができたのです。無論議会がコントロールできたのにもアジンコートの戦勝が大きくものを言ったのですが。一方でハリーは外交努力も重ねています。神聖ローマ帝国皇帝ジギスムントを介してフランスと和平を結ぼうとしましたが、これは失敗。しかしドイツの諸勢力の介入を防ぐことはできました。この「神聖ローマ帝国」というのは、簡単に言えば中世のドイツ国家のことです。「神聖」というのはキリスト教国家であることを、「ローマ帝国」という名はカール大帝の理念を受け継ぐ、汎ヨーロッパ的な権力であることを示しています。ですが実際に支配していたのは本国のドイツとイタリアの一部。ローマが首都であったわけでもありません。ですから古代ローマ帝国のような広大で強力な帝国であったわけではないのです。この国名は、かなり強引な例えですが、かつての「ソビエト連邦」に近いネーミングと考えることができます。「ソビエト」とは地名ではなく「評議会」という意味のロシア語で、ソ連が兵士と農民の評議会からスタートした社会主義国家であることを示しています。同じように「神聖ローマ」帝国も具体的な地名を示しているのではなく、帝国の理念を示しているわけです。ジギスムントは1414年にコンスタンツ公会議を提唱。この会議は1417年に当時分裂していた教皇庁を一つにまとめました。ハリーも早くから教会の分裂には悩み、ロラード派など改革派の「異端」に悩んでおりましたから、ジギスムントと協力。ローマ教皇庁統一に一役買っております。このようにイングランドやフランス、ドイツといった枠を超え、キリスト教会全体をひとつの世界と見なすのは中世人の意識で、そういった点ではハリーも確かに時代の子でありました。彼の遠大なる夢は聖地エルサレム奪回でありましたから。その一方で英語の使用を奨励したり商人を保護するなど、イングランドという国家のアイデンティティ確立に腐心した点で、後に続く絶対君主、国民国家リーダーのはしりでもありました。◆本文中のセリフはウィリアム・シェイクスピア, 小田島 雄志ヘンリー五世 シェイクスピア全集 〔19〕 白水Uブックス より引用しました◆

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  • 08 Nov
    • アジンコート (ヘンリー5世 その7)

      少数であるとはいえ、われわれしあわせな少数は兄弟の一団だ。なぜなら、今日私とともに血を流すものは私の兄弟となるからだ。      ヘンリー5世(『ヘンリー五世』第四幕第三場)**各図表はクリックすると拡大します** フランスへ1415年8月13日。ハリー(ヘンリー5世)率いるイングランド軍は北フランスに上陸。ハーフラー(仏名アルフラール)の港を包囲しました。 ところがこのハーフラー攻略が思いのほか手間取ります。町が降伏したのが9月22日。疲れきったイングランド軍は10月8日までこの町にとどまりました。当時も今も、戦争、特に他国への侵略は略奪がつきもの。むしろ略奪が傭兵たちへの戦利品となっているむきもありました。町が陥落したとなれば、次に待っている運命は略奪と虐殺でした。しかしハリーは軍の規律を厳しくし、略奪を厳重に戒めます。彼はフランスを略奪するためでなく、支配するために来たのですから。はっきりと厳命してあるように、この国を進軍するあいだ、村人たちよりなに一つ徴発してはならぬ。金を払わずしてなに一つ強奪してはならぬ、(中略)寛容と残酷が一王国をかけて賽(さい)をふれば、やさしい前者が勝つに決まっているからだ。(第三幕第六場)これはフランス進軍中のハリーのセリフ。かつての仲間バードルフが教会から絵を盗んだかどで死刑になる際のセリフです。「寛容と残酷が、、、」の言い回しがかっこいいですね。さすがシェイクスピアです。私の好きなセリフの一つです。この場面はもちろんフィクションですが、実際のハリーも略奪には厳罰を処したのです。さて中世の戦争というものは、その悲惨さは代わりませぬが、現代からみるとのんびりしたものでした。日本でもそうですが、この頃はまだ職業軍人というものはおりません。封建制では貴族や騎士は自前で戦争に参加したのであります。王や貴族に雇われた傭兵たちもあくまで臨時雇いであり、戦争がなくなれば夜盗と変わらない連中でした。常備軍を組織、維持するのはお金がかかるのです。この時代になって徐々に組織化されてはきますが、それはまだ少数でした。そして貴族や騎士には自分たちの領地の管理、という大事な役目がありますから、しょっちゅう留守にするわけにはいきません。また、彼らが従えている者たちも同様でした。つまり戦争にはするにふさわしいシーズンがあったのです。ハリーたちはハーフラー攻略でそのシーズンをほぼ潰してしまったのでした。兵糧や物資も乏しくなってきています。敵は雲霞の如くイングランド軍はカレーを目指します。そこで体勢を立て直し、年が改まったらまた戦争をしようという算段でした。もちろんフランスはそんな勝手を許しません。寒さと病気で苦しむイングランド軍の後を大軍で追いかけます。地図(笑)でお分かりのように、イングランド軍はカレーに向けて進みはするものの、かなり迂回しています。これはフランス軍を避けてソンム川渡航地点を東にとったからです。ところがフランス軍はカレーの手前に陣をしきました。ハリーもここで腹をくくり、野戦で決着をつけることにしました。彼我の勢力には諸説がありますが、イングランドが5,000~9,000、そのうち半数近くが長弓部隊でした。そして病人を多数抱えていました。対するフランスが12,000~30,000。劇では王の叔父、エクセター公トマス・ボーフォートがこんなセリフを述べています。つまり一人あたり五人、しかも新手ばかりだ。 (第四幕第三場) この戦力差はかつてのクレシー、ポワティエ以上。ハリーの頼みの綱はウェールズの長弓部隊でした。彼が少年時代に、顔面に傷を受け九死に一生を得たという、文字通り身を持って知ったその威力。長弓は敵の頭上を狙って射出されます。重力が加わって落ちてくるその威力は、下手な鎧では貫通するほど。彼は常日頃から長弓の鍛錬を奨励していました。サボったものには罰金を科したほどです。ハリーは守りの陣形を組みます。二つの丘陵に囲まれた泥炭地の狭間に陣を敷いたのです。左右の守りは地形でカバー。中央を自分が、左右を一族が率い、陣と陣の間には弓兵を楔(くさび)状に配しました。さらに部隊の前にはくいを打ち込み、先端を尖らせました。この防御柵は牙の突進にそなえたもので、くいの先端が自然と敵を中央に誘い込むようになっていました。イメージとしてはわが国の長篠合戦に近いものがありますね。馬防柵を組み、飛び道具である鉄砲を配した戦いに。対するフランスもバカではありません。クレシー、ポワティエでも長弓にやられたことはちゃんと学習しています。彼らは自慢の重量騎馬部隊で弓兵を蹴散らす作戦に出ます。はじめ両軍の距離は2キロ。フランス軍は動きません。一気に蹴散らすには遠すぎるし、持久戦に持ち込めば物量で勝るフランスが勝つからです。そこでハリーは陣を1キロ前進させます。フランス軍はこれにひっかっかりました。功名に走り、敵を見下した騎士たちが突進してきます。作戦通りいけば防御力のない弓兵を蹴散らすことができたでしょう。しかし連日の悪天候でぬかるんだ地面。人馬共に足をとられ、その威力は半減。彼らの頭上に弓兵の射る矢が雨嵐のように降りかかります。こうしてフランス軍がイングランド陣に到達するころには人馬共に疲れきってしまっていました。ぬかるみに足をとられ、そのまま倒れこんで起き上がれなくなり、窒息死したものも多くいました。しかし数で勝るフランス軍は第二第三の突撃をかけます。戦場は退却する一陣と前進する二陣三陣で混乱状態に陥り、次々と弓兵の餌食になりました。そしてどうにかイングランド陣にたどり着いた所で主力同士のぶつかり合いになったのです。騎士道の終焉この戦いはクレシー、ポワティエ同様、イングランドの圧勝で終わりました。しかしながら前二戦と異なり、戦いの途中ではまことに無残な出来事が起こっています。まずはイングランド。当時は投降した貴族・騎士は命をとらず捕虜とするのが騎士道の礼儀でした。もちろん身代金が手に入るからです。ところがイングランドの優勢で捕虜の数があまりに多くなりました。また優勢とはいえ、主力同士のぶつかり合いになるとやはり兵力で劣るイングランド。ここでもう一部隊投入したいと考えたハリーは、捕虜を監視していた部隊をこれに当てることを決意。さらに数が多くなりすぎた捕虜に武器が奪われる不安もあって、捕虜の虐殺を命じます。一方のフランス。フランス軍はイングランドの物資食料を焼き払う戦術に出ました。そこを守っていたのは騎士に付き従う従者たち。つまり少年たちでした。戦争でいきり立つフランスはテントを焼き払い、子どもたちを虐殺します。この両軍それぞれの行動はもちろん騎士道に反するもの。かつてポワティエで黒太子エドワードが仏王ジャンを捕虜とし、丁重に扱った頃と比べれば、いかにお互いに余裕がなくなってきたかが分かります。もはや戦争は王侯貴族のスポーツでなくなりました。この百年戦争に続く薔薇戦争ではさらに悲惨さが増します。復讐が復讐を招き、捕らえられ虐殺されるものも多くなりました。栄光こうしてハリーはクレシー、ポワティエを上回る大勝を得ました。それぞれの犠牲者の数も諸説あります。まずシェイクスピアの芝居。この書面によれば、戦場に横たわるフランス軍将兵はその数一万、(中略)ところでわがイギリス軍の死者の数は? (中略)総計わずか二十五名。(第四幕第八場)さすがにこれは誇張だろうと、映画ではオリヴィエがfive and twentyと原作通りに言ってるのに、字幕では600名となっています(これはこれで問題あり、ですけれども)。実際の所は先ほど申しましたように諸説ありますが、イングランドが100~500名、フランスが10,000名前後だろうとされています。クレシー、ポワティエでもそうでしたが、長弓の前に騎士たちはどんどん倒れていきました。どちらにしてもこれは大勝利といってよいでしょう。ハリーの名前はここに全ヨーロッパにとどろき渡りました。伝説シェイクスピアの芝居の影響もあって、このアジンコートは英国民にその栄光を長く記憶されることとなりました。ネットでagincourtと検索しただけでも、80万件近くヒットします(この中にはAgincourtというアーティストや戦艦の名前も入っていますが)。そして英国民にとって、トラファルガー、ワーテルローと並ぶ対フランス大戦勝として、半ば伝説と化しています。しかし一度の野戦で勝敗全て決するほどフランスは弱くありません。シェイクスピアはアジンコートの後一気にトロワの和約、そしてハッピーエンドとつなげますが、実際には栄光の凱旋を終えた後ハリーは再びフランスへと向かうのです。◆本文中のセリフはウィリアム・シェイクスピア, 小田島 雄志ヘンリー五世 シェイクスピア全集 〔19〕 白水Uブックス より引用しました◆

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  • 07 Nov
    • 百年戦争の再開 (ヘンリー5世 その6)

      フランス王はその娘キャサリンをイギリス王に嫁(か)さしめ、持参金としてとるにたらぬ公爵領を二、三添えるとのこと。だがイギリス王ハリーはその申し出を喜ばず、機敏な砲撃手は恐ろしい大砲に、いま火を点じます。            (『ヘンリー五世』第三幕プロローグ)ハリーは父ヘンリー4世の時代から対フランス強硬派でした。その頃フランスは狂える王シャルル6世の治世。彼は1392年から精神を患い、ほとんど統治能力がありませんでした。その権力をめぐって宮廷はアルマニャック派とブルゴーニュ派に別れて争います。この状況を見てハリーはフランスでの旧領回復をはかります。彼の言う旧領とはプランタジネット朝初代ヘンリー2世の「アンジュー帝国」とほぼ同じものでした。ここでちょっと今までの経過を振り返ってみます。 ←1154年におけるイングランド領ヘンリー2世の領した「アンジュー帝国」はフランス国内の3分の2を占める巨大な領土。しかしその実態は婚姻と相続で得たに過ぎない諸侯領のゆるやかな連合でした。この領土はその後ジョン王の時代にほとんど失われてしまいます。 ←1215年のイングランド領それでもなおイングランドは南仏のボルドー周辺を領していました。ですから百年戦争前もイングランド王はフランスの領主でもあったのです。そしてカペー朝断絶によりエドワード3世がフランス王位継承を要求し、いわゆる百年戦争が始まりました。 ←1360年プレティニー条約によるイングランド領エドワード3世と長子エドワード黒太子の活躍もあり、イングランドは優位に立ちます。そして1360年にエドワード3世は妥協。フランス王位については不問とし、南仏アキテーヌ公領を獲得。黒太子はここに華麗な宮殿を設けました。もちろんフランス王シャルル5世はこれを良しとはしません。黒太子がイベリア半島遠征によって病と借金をこさえ、その借金を南仏からの税で賄おうとしたため、フランス側の巻き返しが始まります。シャルル5世はベルトラン・デュ・ゲクランを大元帥に任命。ゲクランはじわじわとイングランド領を取戻してゆきます。 ←1375年ブリュージュ条約後のイングランド領こうしてイングランド領はボルドー、カレーといった都市周辺のみとなりました。エドワード3世の後を継いだリチャード2世の時代は、フランスでもシャルル5世、ゲクランが没したこともあり、小競り合いに終始するのみとなります。そして1389年、1392年と休戦条約が結ばれ、小康状態となりました。その後ヘンリー4世による王位簒奪が起こります。ヘンリー4世はもともとはフランス強硬派でしたが、国内の相次ぐ争乱により本格的な派兵はできませんでした。一方のフランス国内でも先述いたしましたように権力争いが生じます。それぞれの勢力は自派勢力拡大のためにイングランドと連携しようとします。ブルゴーニュ派、アルマニャック派ともにフランス王女や公女とハリーとの婚姻を提案。それに対しハリーはフランスにおける旧領とフランス王位を要求します。これは彼らの予想以上の強硬な要求でした。ハリーにはフランスへ出兵する理由が少なくとも三つありました。一つには国内の争乱、不満をそらすため二つには彼の支持基盤が対フランス強硬派の貴族だけでなく、商人たちでもあったことです。イングランド商人にとってフランス、フランドルとの関係は非常に重要でした。ハリーは単に好戦的ではなく、封建貴族に代わる新しい勢力、商人たちの要求に応えるためにフランスの領土を欲したのでした。三つ目は彼の信仰。ハリーは敬虔なカソリックでした。彼の親友の何人かがロラード派として教会改革を叫びましたが、ハリーはロラード派を鎮圧。カソリック教会を守護するものの、カソリック教会の内部からの改革を願っていました。当時はローマ教皇の分裂期。日本の南北朝のように、対立する二つの教皇庁があったのです。ハリーは協会の統一を願いました。そのためにはフランスを手に入れ、キリスト教世界の中でリーダーシップを取らねばなりません。少なくとも彼はそう考えていました。1415年ハリーはフランスに上陸。ハーフラーを攻略しました。そしていよいよアジンコート(仏名アジャンクール)の戦いを迎えます。 ◆本文中のセリフはウィリアム・シェイクスピア, 小田島 雄志ヘンリー五世 シェイクスピア全集 〔19〕 白水Uブックス より引用しました◆

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  • 05 Nov
    • 祖母のこと、私のこと、皇室のことなど

      今日はハリーのお話はお休み。どうも気になることがあるので、くどいようですがもう一度天皇家について。このブログにも載せましたが私は尾張徳川家の歴史を追っていたので、どうしても現在の皇室典範を巡る動きが気にかかります。藩祖義直の血統が絶え、幕府よりの押し付け養子が続いた尾張家。養子たちも藩士領民たちも思えば不幸でした。私自身もわが家系、わが血族の最後の男子であり、独身で子無し。このままではわが家系も後数十年で絶えるでしょうか。先日祖母が亡くなり今まで以上に家系や血族について考えさせられています。うちの男系は血統上は万世一系ではありませぬ。祖母は養女。そして婿養子として祖父が家に入り、父が生まれました。その父も私とは血がつながっていません。戸籍上は実子ですが、私は母の連れ子。まあ取り立て特別な家系ではないと思いますけれど。血統はつながっておりませぬが、家族という最小の社会集団を形成し生活をともにしておりましたので、今さら血統がどうのとは感じません。祖母が亡くなり、祖母の持っていた位牌とともに新たに祖母自身が祭られる対象となりました。血のつながりがどうの、氏がどうのとは関係なく、生前の祖母を知る一人として彼女を心から偲び、位牌に手を合わせています。人間は誰しもいつかはこの世から去ってゆきます。その人を偲ぶことができるのは、かつては血統であり、氏であったでしょう。しかし現代では私のように、故人の思い出を持っている者、直接は会っていない先祖に対しても感謝なり親しみなり、うまく言葉にできませんが何がしかの思いを抱いたいる人ではないでしょうか。皇室のありかたについて今一度私の正直な感想を述べれば、どんな形であれ皇統を継いだ人が不幸になってはならない、それが一等大切だと思うのです。以下は男系・女系のお話。もうだいぶ認識が広まったと思いますが、女帝が存在することと女系継承は別物ですから。男系にこだわるもよし。男系にこだわることが非科学的でナンセンスでもいいんです。それが皇室の存在意義だというのなら。日本の伝統だと言うのならば。確かに神武天皇から万世一系云々なんてナンセンスです。非科学的です。私はそう思っています。しかしナンセンスだから悪いという論調はおかしい。合理的で理屈にかなっていれば良いというわけではありますまい。多くの宗教がそうではありませぬか。信者の方は理屈にかなっているから信じているのではありません。それでは信じていることにならない。納得ずくで、というのは信じているのではないのです。人間関係でも沿うでしょう。信じるというのは未だ見ぬもの、未だ来ぬものを受け入れることなんですから。男系継承論者も変に理論武装する必要はない。Y染色体がどうの、氏がどうの、血統がどうのと理屈をこねることはない。Y染色体の話を持ち出すなら、理屈でくるなら女系継承だって同じくらい理屈にかなっています。理屈で来るから「神武天皇はいないじゃないか」、「途中で誰の胤が入っているかわかったもんじゃない」とまぜっかえされる。誠に不毛です。古いから守る、理屈に合わなくても守る、それでいいと思います。俺たちの主張は非科学的なのですよ、前世紀の遺物なんですよ、でいい。だからこそ守る価値があるのではないでしょうか。法隆寺などの国宝と一緒ですね。維持費などコストを考えれば文化遺産なんてなくてもかまわない。でも遺産を残し受け継いでいくのは理屈ではないでしょう。失ったものを元に戻すのは難しい。失ってから後悔しても始まらない。男系継承とはそういうものでしょう。私の感情はこの男系継承に一番近いのですけれども。同時に理屈に合わぬことをいつまでも続けるのはやはりおかしいという考えも自然です。世界の君主国のいくつかは男系継承が難しいとわかった時点で勇気を持って制度を変えていきました。男女の生み分けはそれこそ天の采配。天皇、王、華族貴族とはいえ所詮は人間が、後付の知恵で男系がどうの女系がどうのといったって始まりません。男系にこだわるのは結局は意識の問題だけなのだから、ここで思い切って変えることで国民意識もいい方向に変わってゆくかもしれません。女系継承を認める人はやはりそこまで考えてのことなのでしょうが。どちらが正しくどちらが間違っているということではないだけに難しいです。お互いの意見を排除するのではなく尊重しあわねばなりません。一方が他方を言い負かしたからってなんになるのでしょうか。そもそも他人があれこれ口を挟むのが本来はおかしいのではないでしょうか。皇室典範なんて作って、当事者である方々は一切口出しできないようになっている。考えてみればおかしな話ですよ。先日三笠宮殿下が女系継承についての発言をされました。気持ちとしてはわかります。万世一系、氏血統をいうなら本来臣下であるわれわれがあれこれ言うなんてどうしてもおかしい。皇室典範を変えて、皇室のことは皇室の方々にまかせるのが一番いいと思うのですが、極論でしょうかね。いろいろぐちゃぐちゃ述べましたが結論。どんな形に落ち着くにせよ、皇嗣となる方、あるいは配偶者となる方についてあれこれ言わない。皇后陛下や皇太子妃殿下のときのようなバッシングはしない。それでも文句を言いたいのであれば、その人が天皇、人権を制限された国の象徴になればよい。ということで私の意見終わり。ちょっとくどかったかな。

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  • 04 Nov
    • 親友 (ヘンリー5世 その5)

      だが、ああ、おまえにはどういえばいいだろう、スクループ? おまえという残忍な、恩知らずな、血も涙もない人非人には!        ヘンリー5世(『ヘンリー五世』第二幕第二場)1413年3月20日、ハリーはイングランド王に即位。ヘンリー5世の誕生です。彼が受け継いだ王座には3つのありがたくないおまけがついていました。① 外交問題(フランス,スコットランド)② 国内の反乱(ウェールズそして貴族たち)③ 宗教問題(教会の分裂)便宜上3つに分けましたが、これらは互いに絡み合い、時には連携をとり、玉座を脅かしていました。ハリーはこれら諸問題に精力的に取り組んでいきます。まず新しい治世が始まったことを宣言し、先代で剥奪されたり没収された爵位や領地を回復しています。また故リチャード2世を改葬。手厚く埋葬しなおし、供養をしました。過去の諍いを全て水に流す、慈悲の世が来たことをアッピールしたのです。しかし一方で彼の王座を脅かす陰謀が仕組まれていました。その結果彼は皇太子時代の親友二人を失うことになるのです!ジョン・オールドカスル1413年、古くからの親友ジョン・オールドカスルが異端であると起訴されます。オールドカスルは結婚によりヘリフォードを領していましたが、そこにはロラード派と呼ばれる人々が数多くいました。ロラード派とは簡単に言えばプロテスタントの走りです。カソリックが法王を頂点とする教会組織の権威を至上のものと置いていたのに対し、彼らは聖職者の権威よりも聖書の権威を強調していました。後に出てくるジャンヌ・ダルク裁判でも問題となるのですが、カソリックではなにより聖職者の権威を大切にしています。ローマ法王とはキリストの使徒ペテロの後継者であり、ペテロこそがイエスから天国の鍵を託された筆頭使徒だったからです。つまりローマ法王は地上での神の代理人。その彼が組織した教会は地上における神の組織。ですから教会、及び聖職者には権威があるのです。聖書に書いてあることとか、個人的な体験とかは二の次なのです。ジャンヌは神の声を聞いて立ち上がった。でも教会を通じずに直接神の声を聞いた、などというのは教会の権威を否定しているともとられるわけです。この当時のカソリックの見解では奇跡はキリストの時代まで、普通はもう起こらないこととしていました。ですが権威権力は腐敗するもの。高位聖職者といっても王侯貴族と根は同じで、彼らよりも大きな財力を持っていることも多かった。ですから腐敗も早かった。いつの時代のどこの国でもありそうなことです。このような腐敗に改革を求める声が出てくるのも当然のことでしょう。素朴な原始キリスト教に回帰する動きが出るのもまた自然でしょう。聖書を権威とおいたのは多くの人が聖書を読めるようになったことを意味しています。。ウィクリフという人が14世紀後半に聖書を英訳しております。当時の聖書は全てラテン語表記でした。きちんとした教育を受けた人でなければ読めないものでした。教会を通じてしか聖書を読めないし、神の教えも分からないわけです。ですからそれぞれの国の言葉で聖書なり文学なりがかかれたことは大きな変化だったのです。当然ロラード派は弾圧を受けます。同時に政争の具に利用されます。リチャード2世時代にはハリーの祖父、ジョン・オブ・ゴーントが陰ながら支援していました。野心家のジョンにとってはロラードの中身はどうでもよく、リチャード2世の政府を揺さぶってくれればよかったのです。そのジョンが2度目の妻、ドン・ペドロの娘の縁からカステーリャ王位に強引に割り込み、イベリア半島へ出かけると、後援者を失ったロラードは力を失って行きます。続くヘンリー4世の時代にはトマス・アーランデルやキャンタベリー大司教ら政府の高位高官によって迫害されます。このとき政策の違いから彼らと対立していたのが皇太子のハリーでした。ロラード派はハリーに期待を寄せました。そのハリーも王位につけばやはり教会を保護しなければいけません。その彼にとってショックだったのはオールドカスルがロラードとして起訴されたことです。ハリーはオールドカスルに転向を期待しますが、劇中のフォルスタッフと違って意志の強いこの騎士はあくまで自分の信仰を貫こうとします。ハリーは確かな証拠が出るまで起訴を受け付けませんでした。しかし彼が示せる友情には限度があります。オールドカスルが自分の城へ逃げたとき、ハリーはついに起訴を認めてしまいます。王の令状で教会裁判に呼び出しをかけます。教会には逆らったオールドカスルも王には従いました。裁判に出廷し、そして異端として有罪が決定してしまうのです。それでもハリーはこの年上の親友がなんとかして罪を逃れることはできないかと思案期待をし、40日間の猶予を与えます。ここまでがハリーのできる限度でした。これ以上の譲歩はできません。二人の友情は続いていても、お互いの立場と心情を曲げることはできませんでした。期限の切れる前にオールドカスルはロンドン塔から脱走。その後潜伏し、王の反対派に回ってしまうのです。ヘンリー・スクループハリーは教会問題煮ばかりかまっていたわけではありません。次回に詳しく述べますが、対フランス戦に向けちゃくちゃくと準備を固めていました。そして1415年、オールドカスルが有罪判決を受けた年ですが、サザンプトンから一路フランスへと旅立つのです。このときハリー殺害を企む陰謀が明らかにされ、首謀者が処刑されました。 ←クリックすると拡大されますその首謀者とはケンブリッジ伯リチャード、マサム卿ヘンリー・スクループ、そしてノーサンバランドの騎士トーマス・グレイ。彼らは故リチャード2世が継承者に指定していたマーチ伯ロジャー・モーティマーを王位につけることを企んだのです。ところがこのロジャーがハリーの親しい友人の一人。本人は王位を争うつもりなどさらさらなく、企みに驚き、苦悩の末王に一切を打ち明けます。王がもっとも驚いたのはそこにヘンリー・スクループが加わっていたことでした。リチャードやグレーが陰謀を企むのは予想ができたのでしょう。皇太子時代から、いやもっと前のリチャードの宮廷時代から何かと対立していたのがリチャードですから。でもスクループは。「サザンプトン・プロット」とも「ケンブリッジ・プロット」とも呼ばれるこの陰謀について書かれたものを見ると、スクループは王の"bedfellow"とされています。一緒に寝た友達(とはいえ、変な意味ではありません)、つまりかなり信頼された側近であったのです。スクループもオールドカスルと同じように皇太子時代からの付き合いでした。その彼が陰謀に加わっていたのです。シェイクスピア劇ではこの陰謀の件が突然出てくるのではじめは少し混乱しました。劇ではロジャー・モーティマーの名は一切出てきません。彼が担がれたことも、彼が王に打ち明けたことも。ケンブリッジ伯リチャードら三名の動機もほとんど不明です。唯一リチャードが「フランスからの金に目がくらんだのではなく、かねてからの計画(ロジャーを王位につけること)を実行に移そうとしたのだ」と言っております。もっともフランスからお金をもらった、というのはシェイクスピアのフィクションです。スクループはなぜ友を裏切ったのでしょうか。それを解く鍵は『ヘンリー五世』ではなく『リチャード2世』、『ヘンリー四世』の中にあります。ヘンリー4世に対し反乱を起こしたヨーク大司教。彼の名を調べるとこれがリチャード・スクループ。さらにリチャード2世の寵臣の一人がスティーヴン・スクループ。共に処刑されております。特にヨーク大司教を処刑したことは世間に衝撃を与えました。高位聖職者が処刑されるなんて今までなかったからです。スクループ一族はヘンリー4世に深い恨みがあるのです。そのスティーヴンの息子がヘンリー・スクループ。ハリーの信頼厚く、会計係まで任命された男です。それでもスクループの謀反にはまだ多くの疑問が残ります。私にはよく分かりません。もしかしたら2度目の妻ジョーンがケンブリッジ伯リチャードの属するヨークにつながる家系だからでしょうか。オールドカスルに対しては改宗を期待し、先延ばしにしていたハリーでしたが、暗殺者に容赦はしませんでした。3名はその場で死刑を言い渡されます。このサザンプトンの陰謀にはオールドカスルも少なからず関与していたとも言われていますが、はっきりとわかってはいません。多分本人の意思と関係なく、反ハリー陣営のリーダー的存在に祭り上げられてしまったのでしょう。オールドカスルも脱走後数年は身を隠していましたが、ついに捉えられます。1417年絞首刑にされ、その後絞首台もろとも焼かれてしまいました。ハリーは王位につくや、親友を二人失いました。自らの手で二人を滅ぼしました。彼の態度にはさまざまな評価があることでしょう。しかしこれだけは言えます。人の上に立つ、ということは厳しいものなのであると。その厳しさにハリーはきちんと向かい合ったのだと。親友を処刑してまで彼は玉座とイングランドという国を守りました。従うものには慈悲を示しますが、反抗するものは断固として処罰する。縁故は認めない。この姿勢が国内を安定させます。父王時代にはあれほど不安定だったイングランドも、サザンプトン陰謀とロラード派を鎮圧してからはハリーを悩ませることはなくなりました。◆冒頭のセリフはウィリアム・シェイクスピア, 小田島 雄志ヘンリー五世 シェイクスピア全集 〔19〕 白水Uブックス より引用しました◆

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  • 03 Nov
    • オリヴィエとブラナー

      この映画の急所は、沙翁の「ヘンリィ五世」をロオレンス・オリヴイエがどのように解釈し、それを天然色映画の形でどのような再現を企てたか、という一点につきよう。森 岩雄 「『ヘンリィ五世』の製作閑談」(昭和23年『ヘンリィ五世』パンフレット記載) ↑オリヴィエ版のパンフレット。これによると当時の観覧料金が120円ですって! 結構高いですね。今までえらそうなことを書いてきましたが、私はじかにシェイクスピアの史劇を見たことはないのです。唯一の例外が『リチャード三世』で、20年ほど前に一度だけ見ました。『ヘンリー五世』は映画で見たことがあります。映画と芝居はまた別物ですけれど、今回は映画の話を。今私の手元には2冊の映画パンフレットがあります。一冊は昭和23年(1948年)ローレンス・オリヴィエ製作・監督・主演の『ヘンリィ五世』。映画の製作は1944年から45年にかけて。製作当時はもちろん第二次大戦中。政府の意向を受け、戦争で意気消沈している英国民の戦意高揚のために作られました。そういった作品に名作はあまり期待できないものですが、この映画は別。原作も名作ですが、それを映画として「見せる」オリヴィエの手法も大したものです。もちろん私はこの映画を劇場で見たのではなくDVDで見ましたし、パンフレットもネットで購入したもの。現代のようなカラー写真を使った厚手のものではなく紙もペラペラですが、中身は結構充実しています。あの淀川長治さんをはじめ数名の方の評論文を読むことができます。原文は旧仮名遣い、旧漢字で、戦後という時代を感じさせます。冒頭に掲げた文章はその一部。沙翁とはシェイクスピアのこと。急所という言葉の使い方も今とは少し違って面白いなあと思います。この映画では原作のセリフがおよそ半分にカットされています。長いセリフの多いシェイクスピアのお芝居を、芝居に比べより動的な映画のために大胆にきるべき所をきったのです。さらにこの映画は劇中劇の手法をとっています。絵画を飾る額縁のように最初(プロローグ~第二幕弟一場)と最後(エピローグ)はエリザベス朝当時の舞台で行われた芝居の実況中継風、中身は映画風に。歴史ものの映画を見る面白さにコスチューム鑑賞がありますが、この映画では17世紀と15世紀という二つの時代のコスチュームを見ることができるんです。冒頭と最後の舞台中継風のシーンは『ヘンリー五世』の初演という設定で、客席も楽屋裏も見せてくれます。観客はもちろん役者たちの身にまとう衣装も当時のレースひらひらのもので、芝居の設定が2世紀ほど前のものにかかわらず、当時の衣装のまま上演されていたのだなあとわかります。もちろん現代でもこのような現代風衣装による上演はよくされており、私の見た『リチャード三世』もそんな感じでした。リチャードはスーツや迷彩服を着ていたんですよ。各貴族の紋章や貴族が身に着けているメダルの鎖など細かなところをチェックするのも面白いです。名高きアジンコートの戦いはまさに中世絵巻といったところ。朝日に輝くフランス軍の鎧兜が美しいです。戦争シーンになるとやはり映画の方が迫力があります。当時フランスは文字通り戦場でしたから、ロケはアイルランドで、エキストラもアイルランドの人たちが協力してくれたそうです。国威発揚、戦意高揚だからといって、戦争万歳の映画ではありません。バーガンディ公の以下のセリフが戦争のむごさを訴えています。家庭の中の親や子も同様ですヒマがないことを理由に祖国に必要な学問も忘れ無学となり血を流す事だけを考える兵士のようにわめきにらみつけ反社会的になっていますこれらはどう考えても不自然です             (DVD字幕より)当時は本当に大陸では戦争が行われていたのであり、このセリフも現代の私たちが感じる以上に実感を伴っていたことでしょう。もう一冊のパンフレットはケネス・ブラナーの1989年公開のもの。 二つ並べてみると時代の差を感じますね。映画のほうもオリヴィエ版よりも動きの激しい、迫力あるものになっています。オリヴィエの再来と言われたブラナー。そのオリヴィエをなぞるかのように、初の映画作品に同じ題材を選び、監督・脚本・主演をこなしております。動きはダイナミックになりましたが、戦争の悲惨さもより強く訴えられています。戦い前夜の王の苦悩。オリヴィエは気高く演じていますが、ブラナーは涙を流し、切々と神に訴えています。クライマックスのアジンコートの戦いも、オリヴィエ版のような青空の下の中世絵巻ではありません。雨が降る中を泥んこになりながらもつれ合う人間と人間。王もオリヴィエのようなかっこよさはなく、兵士と同じように泥にまみれへとへとです。陣形や戦いの様子はオリヴィエ版の方がよく分かりますが、当時の天候や戦いの混乱の様子はブラナー版の方がリアルです。アジンコートの戦いが終わり、引き上げるイングランド兵士たち。フランス軍の奇襲により死んでしまった少年を担ぎ上げ、戦場を黙々と歩く王にかぶせて賛美歌「わが力ならず」が流れます。大音響で響き渡る賛美歌。そこに映し出される映像はたくさんの矢と地面に横たわった人馬、ぬかるみ、血で真っ赤になった水溜り、死体に取りすがる人々、王の姿を見つけて狂乱し駆け寄ろうとする女性たち。セリフもナレーションも一切なく、このような映像が延々と流れるのです。この映画はよく「フォークランド紛争(82年)後の映画だ」と言われます。アメリカのベトナム戦争でもそうですが、人々は勝っても負けても単純に戦争の正義を信じれなくなってきています。そんな現代の映画です。 ◆オリヴィエ版はこちら ビデオメーカー ヘンリィ五世〈デジタルニューマスター版〉 ◆ブラナー版はこちら ジェネオン エンタテインメント ヘンリー5世

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  • 02 Nov
    • シェイクスピア 『ヘンリー五世』 (シェイクスピアの史劇6)

      王の責任か! ああ、イギリス兵一同のいのちも、魂も、借金も、夫の身を案じる妻も、子供も、それまで犯した罪も、すべて王の責任にするがいい!おれはなにもかも背負わねばならぬ。この過酷な条件は王という偉大な地位とは双子の兄弟なのだ、                ヘンリー5世(第四幕第一場)『ヘンリー五世』ではフランスに宣戦布告してアジンコート(仏名アジャンクール)の戦いで奇跡の大勝利をおさめ、フランス王位継承権と美しきフランス王女を勝ち取ったハリーの活躍が描かれています。一方かつての遊び仲間であったフォルスタッフ一同のその後の様子も描かれていますが、フォルスタッフは悲しみのあまり病死したことが伝えられるのみで芝居には出てきません。そしてフォルスタッフの子分であったピストル、バードルフ、ニムそれに居酒屋の女将クイックリーとフォルスタッフの小姓、そろって元気よい活躍の場面はありません。クイックリー以外は王に従ってフランスに遠征しますが、彼らがまともに戦をやるわけがありません。「戦場にはどんじりに。宴会には真先に」をモットーにしていたフォルスタッフの仲間なのですから。そして悲しいことにピストル以外は皆命を失ってしまうのです。ニムとバードルフは盗みを働いたかどで縛り首、クイックリーは病で、小姓はフランス軍の急襲を受けて。唯一生き延びたピストルもかつての威勢の良いセリフはもはや聞かれず、自分が年をとったことを嘆き、イングランドに帰ったらこそ泥にでもなろうと言い残して舞台から去ってゆきます。これが『ヘンリー四世』であれほど輝いていた面々の、寂しいその後であります。ハリーも前作のように彼らと絡むことはなく、唯一ピストルとは会話を交わしますがそれも自分の正体を隠してのこと。前作ラストの宣言どおり、彼は彼らを自分の内から追放したのでした。この劇で描かれるハリーは実に複雑な、多面的な解釈の可能なキャラクタです。まず若き日の放蕩の衣を脱ぎ捨てたハリーの名君ぶりがふんだん描かれています。なにせ登場人物が敵味方問わずハリーを褒め称えているのです。陛下が神学について話されるのを耳にすれば、感嘆のあまり、聖職者になられたらよかったのに、と胸中ひそかに願わずはおられまい。(以下略)           キャンタベリー大司教(第一幕第一場)彼がいかに王者の威厳をもって使いの趣に耳を傾けたか、いかにりっぱな顧問官たちが周囲につき添っていたか、いかに謙虚な態度をもって異議を申し出で、同時にいかに毅然たる態度をもって最終決定をしたかということを。            フランス軍司令官(第二幕第四場)ああ、この消耗しきった軍の総大将たる国王が、歩哨から歩哨へ、テントからテントへ、みずから巡察される姿を拝するものはだれでも、「神よ、この国王陛下の頭上に賞賛と栄光を与えたまえ!」と叫ばずにはいられないでしょう。            説明役(第四幕)われわれの王はいいやつさ、黄金のような人柄で、活力あふれる若者で、名声輝く人物だ。家柄はよし、腕力はさらに強しというわけだ。おれなら王の泥靴にキスでもするね、心からかわいいあいつが好きなんだ。            ピストル(第四幕第一場)また戦場では常に兵士とともにあり、彼らの魂を鼓舞しています。アジンコートの戦いでは、5倍もの兵力を持つ敵に恐れをなす貴族や兵士たちに、これ以上援軍を望まないでくれ、なぜなら勝利するとわかりきっている戦いの名誉の分け前が減るからだ、と述べ、この劇のクライマックスである「聖クリスピアンの演説」を行い、兵士のモチベーションをあげ、奇跡の大勝利をものにするのです。少数であるとはいえ、われわれしあわせな少数は兄弟の一団だ。なぜなら、今日私とともに血を流すものは私の兄弟となるからだ。いかに卑しい身分のものも今日からは貴族と同列になるのだ。             (第四幕第三場)シェイクスピアは理想的な君主としてハリーを描いています。ハリーの行動は常に法と神の意思を基準としています。フランス王位を要求するときもキャンタベリーに「サリカ法」について問いただしていますし、アジンコート前夜でも兵士に戦争責任を問われ(お忍びで見回っていたのですが)、一応論破しています。彼のセリフには二言目には神、神、とでてきます。それに戦争とそれによる破壊の責任がどこにあるかも。しかしここでシェイクスピアは実に含みのある描き方をしているのです。このお芝居は教会勢力の代表であるキャンタベリー大司教とイーリー司教から始まりますが、彼らは教会財産を奪われかねない法案から王の目をそらすためにフランス侵攻への多大な寄付の申し出をすることをはっきりと述べています。つまりハリーが戦争の正当性を論じる前に、その根拠である神と教会の下心を描いているんですね。これでは彼の主張する正当性にハテナマークがついてしまう。もっともこれは現代的な解釈なのでしょうけれども。現代的な解釈ついでに。ハリーの持ち出す戦争責任論も、取りようによってはものすごく胡散臭いものに聞こえます。彼は自己の正当性を常に主張し、責任は相手にあるのだと言い切るのです。そしてその砲弾とともに飛びきたって破壊をもたらす復讐にたいしては、ひとえに彼(フランス皇太子)の魂が痛恨の責めをおうべきであると。             (第一幕第二場)さあ、返答を聞こう、いさぎよく降伏してそのような惨禍を避けるか、それとも防戦という罪を犯して破滅を招くか?             (第三幕第三場)バーガンディー公、もしあなたが平和を望まれるなら――それが失われたため、今あなたが言われたようなかずかずの不都合が生まれているわけだが――その平和はわれわれの正統な要求を全面的に受け入れることによって買いとられるべきだろう。             (第五幕第二場)つまり戦争を起こしたくて起こしたのではない。フランスが自分の王位継承を認めないから、皇太子が自分を馬鹿にしたから、ハーフラーの住民が自分に降伏しないから。だから戦争が起こり、破壊と殺戮が行われ、豊かな大地は荒れてしまうのだと。なんとまあ、ヒトラーも真っ青の自己正当化であり、好戦家ではありませんか。ある批評家はそんな彼を「モンスターだ」と評しています。しかし――ここでもう一度しかし、とつなげますが、彼のこの正当化は常に家臣や兵士を前に、敵を前にしてのことです。リーダーとしてこのふてぶてしさはやはり必要なのでしょう。善悪は別にして。そんな彼もアジンコート前夜、お忍びで野営地を見回った時には一兵士に罪(宗教的な罪)を抱いたまま死んでゆく魂の責任は王にある、と問い詰められます。もちろん相手は王を目の前にしているとは思っていません。思っていないからこそ、ずばずば言っちゃうんですね。こんな勝ち目のない戦につれてきた王の責任を追及するんです。ハリーは一応は論破しているものの、その後独りになったときに冒頭のセリフを述べるのです。そしていかに王の責任が重いかを述べ、父王の犯した罪の許しを神に請うなど、孤独な王者の悩みを語ってくれます。この王の姿は今までの王たち(ジョン王、エドワード3世、リチャード2世、そしてヘンリー4世)とはあきらかに異なっています。彼は自分の責任の重さに苦しみますが、リチャードのようにその弱さ苦しさを人前には見せませんし、自己陶酔もしません。父の罪におののきますが、父のように弱気から体まで弱くすることもありません。曽祖父エドワードのように女性にうつつを抜かすこともありません。ハリーはフランス王女キャサリンに求愛をしますが、それはロミオとジュリエットに見るような純粋な愛ではなく、フランスを得るための、政治的な求愛なのです。彼は自分を捨ててまで王女を得ようとはしませんし、継承権のないただの女性として王女を娶ろうともしないのです。またジョンのようにころころと立場を変えたりはしません。この劇でハリーはフランス王座へまっすぐに突き進んでいます。こうして見るとやはりシェイクスピアはハリーに理想の君主像を見たのでしょう。17世紀のイングランドでは神の名による行動は正当なものでしたし、国教会(プロテスタント)の天下となったその頃であればカソリック勢力であるキャンタベリーの腹黒さを描いてもさほど不思議はありません。それでもなお現代のわれわれはこれを単なる英雄賞賛、戦意高揚の芝居とは取れなくなっています。ハリーを徹底したマキャベリストとしてとらえることもできますし、まじめで有能な君主ととってもいいでしょう。小説は読者によって自由な解釈が可能です。芝居は演出家や役者によって自由に解釈され、それを見る観客がさらに自由に解釈してゆきます。どんな名作も駄作になりうるし、駄作も磨けば光る可能性がある。このような解釈を許すところが芝居のおもしろさであり、シェイクスピアの魅力なのでしょうね。◆本文中のせりふは ウィリアム・シェイクスピア, 小田島 雄志 ヘンリー五世 シェイクスピア全集 〔19〕 白水Uブックス より引用しました◆

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  • 01 Nov
    • 父と子 (ヘンリー5世 その4)

      許しは神に乞うがいい、わしも祈る! だが、ハリー、どうにもわからぬのはそなたの心のありようだ、父祖たちの道とは別の方向へ飛んでいこうとしておる。       ヘンリー4世(『ヘンリー四世 第一部』第三幕第二場) ヘンリー4世(ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵)**前回の記事の訂正**ハリー(後のヘンリー5世)と親友ジョン・オールドカスルの出会いはウェールズ遠征中のことと思われます。確かな記録として残ってはいないのですが、オールドカスルもウェールズ遠征に参加しており、そこでハリーと親交を交わしたようです。前回はウェールズ遠征直後、としておりましたが誤りでした。もうしわけありません。このオールドカスルをはじめとしてハリーには「親友」と呼べる人物が何人かいます。私の読みが狭いからかも知れませんが、この時代――陰謀と叛乱、戦争と疫病の時代の話を読んでいて親友とか友情という言葉が出てくるとひどく新鮮に感じます。これもハリーの武功と、そして人当たりのよさによるもの。シェイクスピア劇でもハル王子として庶民の間に溶け込んでいたハリーでしたが、実際にも身分の上下関係なく広く人気のある王子でした。「プリンス・ハル伝説」、皇太子(ウェールズ大公)時代に放蕩にふけっていたという伝説はハリーの生前からすでに見られます。実際の彼は16歳で軍を指揮し、また叔父ヘンリー・ボーフォート(ジョン・オブ・ゴーント庶子。後ウィンチェスター司教、枢機卿)からオックスフォードできちんとした教育を受けています。それでも彼の気さくさは人々に好かれました。それは父王ヘンリー4世が嫉妬するほどであったといいます。ハリーは英語史にとっても重要な人物です。彼の属するプランタジネット家はフランス系。名前(ヘンリー=アンリ)もフランス系。当時のインブランド宮殿ではフランス語を話していましたし、後に妻として娶った女性もフランス王女。自身フランス王とならんという野望を持っていました。そんな彼ですが、ロンドン市長にあてた手紙は英語で書いています。イングランド王が英語で書いた文書の最初の例に属するものです。彼は英語を大切にした王様でもあったのです。ですから、これも後の話になりますが、フランスと講和条約を結んだとき(1420年)にも通訳を連れて行ってます。だからといって、先ほど申しましたように彼は決してフランス語が話せなかったわけではないのです。にもかかわらず通訳を連れて行ったのは、自分はイングランド国王として英語を大切にしている、いわばそこにアイデンティティを見出している、そういったあらわれなのです。彼は歴代の王と異なりイングランドの国民性を大切にした、庶民派の王でした。そして彼の死後200年たったシェイクスピアの時代にはひとりシェイクスピアのみならず、多くの歴史家から「王の鑑」、「キリスト教徒の王の見本」と絶賛されるようになるのです。*当時イングランド、フランスという国家意識があったかといえば、はなはだ疑問です。ジャンヌ・ダルクが救おうとしたのも「フランス」ではなく、ヴァロア王家。豊かで広いフランスには王に匹敵する大貴族が割拠しておりました。彼らの頭の中にあったのはフランスではなく自分たちの所領だけでした。ただ、フランスよりも貧しく狭いイングランドは(あくまで比較の問題ですが)まとまりがややよかったようです。それに自身各地の叛乱を武力で平定した経験のあるハリーは、政治的必要性もあって「イングランド」というまとまりを演出し、その道具の一つとして英語を大切にしたのでしょう。「ハル伝説」を構成するもうひとつの要素が父との不和。シェイクスピア劇でも父ヘンリー4世はハルに頭を痛めており、理解しきれぬようです。それでも廃嫡しないのはどこか器の大きさを感じるからだ、といっておりますが。実際にも先ほど書きましたように父が嫉妬するほどの軍事的実績と人気がある息子であったハリー。ここで学者たちの意見は二つに分かれます。「不和であった」という見解と、「政治的意見は異なっていたが、不和ではなかった」という意見と。どちらにしても政治的な対立はあったのです。シェイクスピア劇で描かれているようにヘンリー4世の晩年は病気との闘いでした。彼はハンセン氏病と思われる病気にかかり、その苦しみのため、陰鬱になっておりました。最後には歩行すらままならなくなったといいます。陰鬱な王と溌剌な皇太子。ハリーは1410年頃から叔父ヘンリー・ボーフォートと共に議会を支配しておりました。病気の王に代わって政治をとるようになっていたのです。ところが国内外の政策で王と対立。ことに対フランス外交では完全に王と反対の立場をとっていました。もちろんハリーは対フランス強硬派です。このような父子の対立に信仰問題も絡んできました。父が顧問としていたキャンタベリー大司教や法院長といったカソリック勢力に不満を感じていた一派(ロラード派と呼ばれる、ピューリタンのはしり)がハリーを後押しします。ついに1411年、ハリーは父より議会から追放されてしまいます。そんな彼の許に賛成派の貴族たちが集まり、父を廃してハリーを王位につけようという計画があったともいいます。幸か不幸かそれが実現する前に父王が崩御し、ハリーは正当な継承によりイングランド国王となるのですが。ヘンリー4世は力で奪った王座を安らかに息子に渡すことができました。1413年3月20日ヘンリー4世崩御。享年46。しかし彼の治世は内患外憂という言葉がそのまま当てはまる、波乱に富んだものでした。ヘンリー4世の生涯を思うとき、私はいつも足利尊氏を連想します。彼もまた前政権担当者後醍醐天皇の不人気から、たくさんの武士の支持があり将軍となったのでした。しかし彼が将軍となっても争いはおさまらず、彼を支持した大名たちに背かれ、実の子である直冬(ただふゆ:庶子であったので弟直義の養子となった)にも背かれ、後醍醐天皇に罪の意識を感じながら、背中にできた腫れ物が原因で1358年に54歳で亡くなりました。二人とも病と罪におののきながら死んでいったのです。ヘンリー4世とハリー。父子の対立は政治上のものだけだったかどうか。ハリーはやはり新しい世代の国王でした。先ほどの英語の件をとってもそうですが、後の対フランス外交やロラード派など反乱分子に対する対応を見ても実に現実的です。また彼は父や祖父、曽祖父とは異なり、自分の結婚すら徹底して政治に利用しています。決して色恋におぼれることなかったのです。長生きしていたら別だったかもしれませんが。。。祖父や父は王冠の栄光、十字軍の名誉を求めてスペインやリトアニアに遠征した騎士でした。ホットスパーと同じく、騎士道を大事にした古い世代の人間でした。そんな価値観の違いも父子の対立にはあったのではないでしょうか。そしてこの種の不和というものは現代の私たちの家庭でも大なり小なりあるものでしょう。父と子、このテーマも男女の愛と同じく永遠のものであります。◆冒頭のセリフはウィリアム・シェイクスピア, 小田島 雄志ヘンリー四世 第一部 シェイクスピア全集 〔15〕 白水Uブックス より引用しました◆

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