子どもの頃から、私は本を読むのが好きだった。
 社会人になり仕事が忙しくなっても、出張先ですら本屋が目に入ると吸い寄せられるように入ってしまい、いろいろ物色してしまうことは止められなかった。
でもそれは私だけでなく、多くの同僚や上司もそうであったようで、度々会社近くの本屋で社内の誰かを見かけては、こっそり隠れてみたりした。
 あるときどうしても、アメリカ本社の幹部と連絡を取らなくてはいけなくて、電話をかけたところ、「今本屋でコーヒー片手に新刊をチェックしたところなのよ」なんて、いかにもニューヨークのシングル女性らしい答えがかえってきたこともある。彼女の楽しみもまた本屋での本の物色だったのだ。
 スターバックスあたりでコーヒーを片手に真新しい本を読む時は、幸福感でいっぱいになった。
ベルギーに来ても、新しい本がアマゾンから届くと、まずはコーヒーをいれて本を開くという儀式は変わらない。
実は我が夫も本が大好きで、実家の彼の部屋は本があふれている。初めて彼の部屋を訪れたときはあまりに私と同じ状況で吹き出してしまった。
しかも今この極小アパートにも本があふれ始めている。

だから人はなぜ本を読まなければいけないのかなんて、考えたこともなかったのだ。
 

 ベルギーに来てから私は様々な人に出会った。驚いた事に漫画は読んでも本を全く読まないことが自慢になることを、私は初めて知ったのだった。
 彼らの多くに共通するのが、自分の感情には非常に敏感であるけれど、他人の感情には全く無関心なのだ。
様々な状況でいつも優先されるのが自分の関心事であり、自分の感情であり、自分のプライドなのだ。一方で他人がどんな思いをしているかなんて、全く無頓着。
だから普通は自分の胸の中に納めておかなければいけないようなことでも、躊躇せず口に出してしまえるのだ。
 自分の関心事以外では、自分や他人が何を言ったかなんて全く覚えていないことも多い。
何に対しても常に主観的な考え方しかできず、正直に言うといつまでも薄っぺらで未熟なのだ。あるいはあえて成熟を拒否しているのかもしれない。

 しかし、少なくとも小学校から国語の時間では「このときの主人公の気持ちを考えましょう」なんてそれぞれの場面での問いかけが毎回あったはずなのだ。
 小説のなかで、想像力を働かせて、主人公に感情移入して共感したり反発してみたり、現実にはあり得ないような疑似体験を楽しんだり、あるいはさりげない言葉や動作の描写の中で人情の機微に触れて、人々の複雑な感情に触れる。
 また、愛情とは上っ面であからさまな言動ではなくて、見過ごしてしまいそうなささいなことであったり、あるいは言葉に出さなくても相手を丸ごと受け止める優しさであったり、時には突き放したり手厳しい批判をしてくれる厳しさであったりすることに気がつくのだ。
 そして、それぞれの人物が一様に同じような反応をするのではなくて、それぞれの事情により反応が違いまた表現も違うのだ。

 本を読まない人というのは、だから表面的な事だけで物事を判断し、他人の心の痛みに対して無頓着であったりあるいは残酷になれるのだろうと私は思う。


 延々と感情を剥き出しにして子ども時代のおやつを取られたという姉妹喧嘩の話を続ける日本人女性の横で、私は困り果ててしまった。
困惑する私の横で彼女はさらに声高に話を続ける。30代でなおも東大合格者を輩出する進学校にいたことが自慢になる彼女は本を読んでいたのだろうか?

 そして、私はふと虐めている子ども達の家にも本がないのだろうかと考えてしまった。
いじめを無くすにはまず良質な本を読む事で、他人の感情に触れるトレーニングが必要ではないだろうか?

 うーん、何だかまとまりの無い文章になってしまった‥。