私のような海外移住者のケースって、あまりないのかもしれない。
 
 もともとは男女差別もあまりなく一生働ける教員志望だったのに教育実習で教員に失望し、大学を出てからは財務のスペシャリストを目指し、経理の仕分けから始まったキャリアも予算作成や財務分析までこなし、多少とも経営幹部たちに意見するようになった。
 そこまでたどりつくには、もちろん多くの我慢と犠牲がある。
皆が旅行だ合コンだと楽しそうにしている同僚の傍らで、私は眠い目をこすりながら必死で勉強していたから。 

 一生独身で男性並みの昇進を見ざして頑張っているつもりが、働いても働いても、どんなに業績を上げても、そして40歳過ぎても自分はトップにはなれない現実に立ち向かうことに疲れきったとき、私はベルギーに来た。正直私は自分の夢をやり尽して燃え尽きたのだと思う。

 そのころ既に私の同年代の多くが離婚経験者だった。離婚騒動の泥沼化なんてものもよくみていたから、結婚が人生のゴールだという考えは全くなかったし、甘い夢など見なかった。私は逆に国際結婚を軽蔑さえしていた。それでも私は国際結婚した。それは10年かけて相手を見ているうちに同志のように思え共感し、理解しあえたからだと思う。
相手はたまたま外人だったが、それはたまたまそんな日本人に出会えなかったからだと思う。

 相当な覚悟をしてベルギーに移住したつもりだったが、現実はさらに厳しかった。
1年目は様々にリサーチし、自分のキャリアが使えないことを知り、またこれから死ぬまで働けるフリーランスの仕事としてフォトグラファーになるという目標を定めた。
贅沢な生活より自由でクリエイティブな仕事を一度はしたかったからだ。

 そして自分の年齢の半分の学生とオランダ語学校に通い、深夜まで勉強して、大学に入学するという夢に向かって励まし合った。
なんとか美大に合格すると、そこでは全員白人のベルギー人と私との生き残りをかけた壮絶なレースが始まった。80名入学が1年後には40名になり、2年生ではさらに25名を下回った。
大学にとっては出来るだけ多くの人数を入れ、学生から集めた学費で最新のものを備えていくことが目的だったのだ。
 こんなに勉強したことはないというくらい勉強していたなかで、毎日必ず何かしら新しいことを学べる幸せを感じ、さらに明日も頑張ろうと思えたものだった。

 そんな大変な生活の中でも苦しみ磨きながらも歯をくいしばって勉強した私の姿に影響されて、大学に戻ったという30歳過ぎのベルギー人女性との出会もあった。

 だから私は少しだけ何かを知っていると思う。少しだけ余分な経験があるのだろうとも思う。
少しだけ何か言えるものを持っているとも思う。
もちろん私にも山のように愚かな失敗もしてきたし、自分が優秀だななんて思いもない。

 私にも知らないことはたくさんある。自分は並の人間だが、それでも必死でなにかをつかもうと努力しているだけだ。
だからこそ、自分は頭が悪いからとか、自分はもう年だからなんて言い訳をして、自分をごまかしたり甘やかしたりして、なにもしない理由を見つける人たちに怒りさえ感じるのだ。


 会社で煩いばばあと呼ばれ、あんな仕事が生き甲斐だけの行き遅れにはならないでおこうと若い女性の悪い見本にされた私は、ベルギーでも馬鹿にされっぱなしだ。
ベルギーに来てあまり経験も無い日本人たちにとって、たいした成功もしていない私は愚かな人間の代表でしかないのだろう。

 あんなふうにはなりたくない、人は他人の表面だけを見ていつもそう思い、そして年をとっていくのだろう。