大学へと向かう電車の中である友人とよく一緒になり、最近では駅で待ち合わせて一緒に通学時間を過ごすようになりました。そこで繰り広げられるのが表題です。
例えば先日テニスの錦織圭と卓球の福原愛ちゃんのデートが報じられた事を受けて、2人の間にはこんな会話が展開していきました(括弧が自分で二重括弧が友人)。
「いやーまさか愛ちゃんがリアル・テニプリ、略してプリケツ王子の錦織圭と原宿デートとはね」
『まーその愛ちゃんのヴァージンが奪われたかと思うと残念極まりないよね』
「愛ちゃんって事に関しては皆藤の愛ちゃんでないから然程ショックはないけども。でもまぁアレは間違いなく付き合ってるね」
『愛ちゃんに深夜の【エアーK】が決まったってことですね』
「残る興味は愛ちゃんがラケットをシェイク・ペンのどちらで握っていたかだよね」
『恐らくはシェイクだろうけども、ペンだとしたら相当遊びなれてる印象は否めないなぁ』
「修造仕込みの錦織ラケットは、ペンではしっかりとグリップできないでしょう」
『とりあえずコートがギシギシ揺れる度にサァッーサァッーっていう声が漏れたってことだけは確かだね』
……こんなことを朝一で喋ってます。
この友人Xとは高校時代からこんな感じの付き合いなので、自分ではまー普通のテンションで上記のような会話の流れになるわけです。
が、初めてコンナノに遭遇した友人からの評価は全く二分します。
1つは「そんな会話してて恥ずかしくないの?」とドン引きし、軽蔑されるパターン。
もう1つは「ちょwwwおまwwwハードコアすぐるwwwwww」と大笑いし、ごく稀に尊敬の念を抱かれるパターン。
無論、衝撃にぼー然としたり、軽ーく自分達2人に恐怖心を抱く方もいるようです。
当然です。
最近思うようになったのですが、どちらのパターンのリアクションをするかによって、その人の器の大きさが測れるような気がするんですよね。
いや、器は言いすぎかな。「懐の深さ」、って言った方が良いかもしれない。
こういった洒落心(確かに上記の例はハードコア過ぎですが)を笑って流せないような人って、自分からすると「人生楽しんでるのかなー」と感じちゃうんですよね。
いや自分が「人生サイコーッ!!」なんて青臭いことを言うつもりはないのです。
ただ「笑い」っていうのは言うまでもなく人生の余裕であり、良薬であり、劇薬であるわけで、どんなものでも美味く消化し「笑い」に変えられる人こそが、日常を楽しんでいる人なんだろうなと思います。
もちろん「笑い」には好みがありますし、上記のも褒められるような内容ではありませんけど、今言った事ができて笑い飛ばしてくれる人ってのは、腰の据わった懐の深い人なんだと勝手に考えっちゃってます。
一流出版C社部長であり、尊敬すべき編集者Hさんも言っておりましたが、結局「人生にとってエロスとは最大のテーマ」なわけですから、そこにガッチリ蓋をしてタブー視するのはどうなんでしょう。
現代の進化したモノの大半は、必ず「セックス」・「死」・「宗教」のどれかをベースに発達しているんですからね。
その何れとも関係を持たないもの、または人物は人類史上存在しないはずです。
持論ですが、僕は人生を生きるエネルギーについて「人間は自身の快楽、または他人の醜聞を自らの糧にして生きている」と定義しています。
よくmixiで【金髪豚野郎】関連の記事について、「こんな下らない事を報道するな」、「日本のマスコミは腐ってる」、「マスゴミはクソ記事書いてんじゃねぇよ」とか見かけます。
けれども、「そんなゴミ記事をムキになって叩く人間こそが腐ってるんじゃないの?」って僕なんかは感じるんですよね。こういったものを情報を笑い、「ありゃー大変だね海老名家は」とか言える人こそが懐が深い、人生を楽しんでいる人であるはずです。
結局何を言いたいのか分からなくなってきましたが。要するに「生産性のない無駄話」をしている時こそが、日常の中で最も幸せな時なんじゃないかと、そう言いたいわけでした。ちゃんちゃん。
みんな、もっと不謹慎に、俗物根性でいこーぜ!
【本日のBGM:つぼイノリオ『金太の大冒険』】