例えば私は我が国の防衛政策などもメンションすることがあり、「ならばコイツは地獄が確定だな」とニタリとされる時もあるでしょう。
しかし、神の愛で許されていてなお、「あれを言ったら地獄行きかな、これを言ったら地獄行きかな」と緊張ばかりしているならば、どこが御心の天になるごとく、地にもなさせたまえになるか首を傾げます。
そもそも、神様は人の不完全さを、今ではなく、遙か昔から存じていて、その上で許す人は許す、許さない人には硫黄の盃と炎と仰せられているのです。
そもそも被造物の人が、「俺があいつを地獄行きに決めたから、あいつは地獄行き」と、勝手に決められるでしょうか。
大前提ですが、誰かが地獄に行くか、天国に行くかを決めるのは、人ではなく主イエス・キリストのはずです。
だから、私も主のご意志によって天国に入れられる時は天国に行きますし、主のご意志が地獄行きと望まれているならば、今からどうあがいても地獄行きです。
そもそも地上の誰かが決めたり変えたり出来ないのですから。
私も、私自身が天国か地獄かを決めることは出来ません。
もちろん「だから好き勝手やれるぞ」というのは曲解ですが、しかし、せっかく聖書に学んでいて「これを言ったらダメなのかな、あれを言ったらダメなのかな」と怯えて緊張して怯えてばかりならば、なぜクリスチャンの喜びが得られるでしょうか。
自衛隊法についても、戦争するぞという人間の奢りの議論ではなく、今現在の地上の、己の国の国政についての真面目な議論です。
戦争したいから防衛政策を論じるのではなく、戦争が続いたら嫌だから、その危機を早く少なく終結させられる(そもそも危機が起きないようにする)ような備えを持つという議論です。
しかも、多くの改憲論者も、改憲と自衛隊のみによって戦争の危機を回避出来るとは考えていません。
数多くの方策のひとつに自衛隊や改憲を論じているだけです。
病院の医師が病気を治す手段は手術のみとは考えずに、多くの複合的方策を行うのと同じです。
そもそも最初に答えが決まっていて、そもそも議論すること自体が間違いならば、それはスコラ哲学と同じになります。
私が天国か地獄かは、主イエス・キリストのお決めになることです。
もし私が地獄行きならば、私が表の言葉だけをどういじくっても、私は地獄行きなのは変わりません。
それが信仰というものでしょう。
自分の怯えで緊張しているならば、そもそも神様がこの私一人の為だけに世界を地獄にしたりしないだろう。そもそも天国か地獄かなんて人や自分が決めるのではなく神様(一般的には「結果は結果が」)が判断することだ、神様のことは神様が決めるのだ(俺でも誰かでもない)、と考えてみましょう。