本日は日本の仏教哲学者、教育者である井上円了の誕生日です。

安政5年2月4日(1858年3月18日)、越後長岡藩領の三島郡浦村(現・新潟県長岡市浦)にある慈光寺に生まれました。

 


16歳で長岡洋学校に入学し、洋学を学んだ後、1877年(明治10年)に東本願寺の教師学校に入学しました。

翌1878年(明治11年)東本願寺の国内留学生に選ばれ上京し、東京大学予備門に入学することになります。

その後東京大学に入学し、文学部哲学科に進みました。

1885年(明治18年)に同大学を卒業した後、文部省への出仕を断り、東本願寺にも戻りませんでした。

そして、著述活動を通じて国家主義の立場からの仏教改革、護国愛理の思想などを唱え、啓蒙活動を行うようになります。

哲学普及を目指し、哲学館(本郷区龍岡町の麟祥院内)を設立し、その後は哲学館大学を経て現・東洋大学を設立するに至ります。

 

『真理金針』『仏教活論序論』などの著作を通じてキリスト教を批判し、仏教を改良してこれを開明世界の宗教とすることを目指しました。

このとき円了が唱えた「護国愛理」(国を護り、真理を愛する)は後に東洋大学の建学精神と見なされるようになりました。

 

また、哲学者として著名な円了でありますが、いわゆる妖怪研究を批判的に行った人物としても知られています。

円了は『妖怪学』『妖怪学講義』などでそれぞれの妖怪についての考察を深めていくことになります。

当時の科学では解明できない妖怪を「真怪」、自然現象によって実際に発生する妖怪を「仮怪」、誤認や恐怖感など心理的要因によって生まれてくる妖怪を「誤怪」、人が人為的に引き起こした妖怪を「偽怪」と分類しました。

例えるなら、仮怪を研究することは自然科学を解明することであると考え、妖怪研究は人類の科学の発展に寄与するものという考えに至ったようです。

こうした研究から、円了は「お化け博士」「妖怪博士」などと呼ばれるようになります。

彼の後の体系的な妖怪研究は、江馬務、柳田國男、水木しげる氏の登場を待つこととなるのです。

 


哲学による文明開化を志向していた円了は、様々な理由で大学教育を受けられない「余資なく、優暇なき者」でも学べる場を作るべきであるという考え方から1888年(明治21年)には「館外員制度」を設け、「哲学館講義録」を発行していました。

これは日本における大学通信教育の先駆けであり、円了は西洋のように学校教育が終了した後も自由に学問を学ぶことが重要であるとの考え方から日本全国を行脚し、各地で哲学と妖怪学の講演会を行うようになっていったのです。

それは1919年(大正8年)遊説先の満州・大連において脳溢血のため61歳で急死するまで、その活動は続きました。

哲学や宗教についての正統的な知識を伝えるために尽力した人生でした。