ケルン、ブリュール、ボンへの遠征した次の日の朝の翌日、僕の体には重くのしかかるような疲労感がたまっていた。

あれだけ歩いたのだから当然だよなあ、本当に今日ハイデルベルクまで行くような狂気に走らなくて正解だったなあ、とシャワーを浴びながら思った。

この日の起床時間は9時ごろ、ドイツへ来てから一番遅い朝である。

外は気持ちが良いほどの快晴で、僕はマーティンさんと珈琲を飲みながら、昨日の遠征のことを話した。

マーティンさんは、この日、ドイツではじめて上映される「そして泥船はゆく」を奥さんと一緒に見にきてくれるらしい。

僕が、

「あれは変な映画ですよ、べりーすとれんじむーびー」

と、言うと

「おお、それは楽しみだ」

と仰ってくれた。

しかし、「そして泥船はゆく」という映画は本当に変な映画なので、この日の夜、マーティンさんが「あんな変なものをみせやがって」と、部屋に入れてくれなかったらどうしよう、と少しだけ不安になった。

僕は珈琲のお礼をマーティンさんに言って、

「それじゃあ、行って来ます、また夜に会いましょう」

と、家を出た。

外は暑い。

日本に帰ったら湿気もすごいだろうし、うだるような暑さだろうなあ、と僕はもう初夏の気候であろう日本への帰国がちょっぴり怖くなった。

この日、僕たちはニッポンコネクションの会場であるMarienplatzで待ち合わせをしていた。

なぜMarienplatzなのかといえば、僕らは映画祭の会場にスーツを置くことにしたのである。

僕たちは映画祭という場所はちゃんとした場所なのだからTシャツにサンダルじゃまずいだろうし、私服にもセンスがないからスーツが無難なのではないか、というシンプル極まりない理由で映画祭の舞台挨拶やQ&Aの際には一応スーツを着てゆくことにしている。

ネクタイは会社員ではないからしめない。(大体僕は首が太く短いのでネクタイをしめると窒息するような恐怖感に襲われるのだ)



ちなみに東京国際映画祭の開幕の際、僕は蝶ネクタイをしめて、後日様々な方から笑いの種として素晴らしいほどの嘲笑の嵐を受けた。

「売れない漫才師かよ」

「食い倒れ人形かよ」

「腹話術師の人形かよ」

「カーネルサンダースかよ」

「お前みたいな人形がどこかに置いてあった」




などなど、そのご批判は様々であったが個人的には、「何を言うか、あの蝶ネクタイはとても似合っていたじゃないか」と世界中できっと僕だけが思っている。(ちなみに蝶ネクタイ購入の際には、何かの余興で使うのですかと、紳士服店の人は興味しんしんであった。

また僕たちが、映画祭等の場でスーツを着ることに対し、

「なんでスーツなの、もっと目立つ格好したらいいじゃん、大体似合ってないし、それに監督ならもっと態度も偉そうにしたほうがいいよ、君は監督なんだから」

と、いう人もいるのであるが、僕はそんなことで目立ったり、偉そうにしたりというポーズが心の底から大嫌いな人間なので、このようなことを本気でいうような人間のつくる映画はきっと本当にポーズだけのつまらない作品なのであろうし、きっとこの人は本当に偉そうにしている、もしくは偉そうにしたいだけの真性馬鹿なのだろうなあ、とテキトーに聞き流すことにしている。

大体なんで映画をつくっている如きのことで偉そうにしなければならないのであろうか。

いつも書いていることではあるが、僕は、破滅的人間、享楽的人間こそが映画人である、そのような生き方をしなければ映画などつくることはできない、「酒を飲め」「女を抱け」「人生の勉強のために人生を遊び尽くせ」「必要であらば薬さえやれ」なぞというような考え方やポーズが大嫌いであり、僕はそんなつまらない人間とは一滴たりとも酒なぞ飲みたくもないし、薬などやってる奴等など最も軽蔑し一言たりとも会話をしたいと思わないし、猥談に明け暮れたあげくハメを外そうと女を買いに歓楽街に繰り出す、みたいなことは全て時間と金の無駄である、と思うつまらない人間、ノリの悪い田舎者なのである。

この日、Marienplatzに到着すると、何だか駅のまわりが賑やかであった。

この日は祝日でMarienplatzではお祭りが行われていたのである。



大人から子供までが、何だかとても楽しそうにしている。

たくさんの屋台が出たり、ライヴステージが設置されたり、小さな子供用の観覧車が設置されたりと、町の様子がまるでちがう。

僕はこのような雰囲気はとても素敵だなあ、とまたもドイツの人たちの生活に感動してしまい、さらにドイツの人々がすきになったような気がした。

Marienplatzでうひょんと雄司と合流した。

すると、雄司と一緒に、彼のホームステイ先のホストであるギュンターさんの姿がある。

ギュンターさんはこの日、僕たちのことを連れてフランクフルト市街を案内してくれるという。

僕たちは、まず映画祭の事務所にスーツを置かせてもらい、ギュンターさんとともにフランクフルト市街へ向かった。

電車から降り、マイン川沿いを歩く。



ギュンターさんは、僕たちと一緒に歩きながらフランクフルトに関する色々なことをとても丁寧に教えてくれた。

ギュンターさんは体格がよく、とても陽気で、優しく、知的な、本当に素敵な紳士である。

雄司の話だと、ギュンターさんはクラシック音楽や芸術文化にとても精通していて、食事の時の会話がとても楽しく勉強になるという。

「なんだか俺たちは本当に良い経験をさせてもらってるなあ」と僕は言った。

「本当だね、ありがたいよ」と、雄司が言う。

「あんなにいい人はいないね、いないよあんなにいい人は」と、うひょんがつぶやいた。





僕たちはギュンターさんと楽しく話をしながらフランクフルトを歩き、映画博物館に到着した。

この映画博物館には、僕たち三人、坂本監督と四人で既に二回も訪れているわけなのであるが、どちらとも閉館間際で入館が叶わず、三回目の来訪で漸くきちんと入館することができた。

そして僕たちは、まるで映画にはじめて触れる人間のように、なんだかすごく楽しみながらこの映画博物館を観覧した。

なんだかんだで映画の博物館に行った経験などこれまで生きてきた中で一度も無いのである。

この施設はとても工夫されていて、映画の歴史や技術、そしてその素晴らしさや愉しさを、小さい子供から楽しめるようなつくりになっている。

「映画っていうもんはすごいものなんだなあ」

「本当だなあ、映画っていうのは面白いもんなんだなあ」

「これみて!!キネトスコープがある!!

「おお!!キネトスコープだ!!はじめてみた!!

「中のぞいてみ!!きれいだから!!」

「おー!!綺麗だねこりゃ!!」

などと、僕たちは自分たちが一体何をしにドイツに来ている人間なのかもすっかり忘れて大はしゃぎ、映画博物館の観覧に没頭してしまったのである。



僕等がドイツへ訪れた際には、ちょうどライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの特集展示がされていて、その作品にも触れることができた。

ブースごとの作品の上映や、脚本や絵コンテの展示などとても興味深い。

ギュンターさんは、

「ファスビンダーはとてもドイツ的な映画監督なので、彼の作品の全てを理解することは難しいかもしれない」

と仰った。

果たして僕もそう思ってしまったのだが、ファスビンダーの特集展示にはドイツの大人から若い人、そして小さな子供までが次々と訪れてきているのをみて、やはりドイツという国の文化レベルの高さを思い知らされるような、そんな気がした。

映画博物館を観覧したあと、僕たちはザクセンハウゼンのレストランのテラスで昼食を食べることにした。



僕以外の三人はハンバーガーを食べ、僕はギュンターさんに薦められたスープを食べた。

このスープが、いままで食べたことがない味である。

ギュンターさんが

「ワサビに似ている」と仰っていたのだが、ワサビ風味の白いスープに、緑色の肉団子のようなものと、牛肉が浮かんでいる。(料理名は忘れました)



何となく珍味で、かなりクセが強い味で、最初はこれ全部食えるかなあ、と思ったのであるが、一口々々ちょびちょび食べているうちになんだか矢鱈うまく感じはじめ、だんだんガツガツ食うに至り、けっきょく僕は余裕でこのスープを完食した。

また余談だが、この時ぼくたちの後ろの席に家族連れのお客さんが座っていたのだが、その家族の赤ちゃんがニコニコしながら僕たちのことを興味深そうにジッと観察していた。

子供というのはどこの国でも天使のようにかわいいなあ、と僕はなんだかその荒んでいる心が癒される心持がしたものである。



昼食を食べ、フランクフルトの街中をギュンターさんとさらに散歩する。

ギュンターさんは本当に、丁寧に親切にフランクフルトの街を案内してくれ、僕はこのドイツでの滞在がホームステイという形だったということをすごく幸福なことだなあ、と改めて思った。

特にギュンターさんは、フランクフルトという街を愛し、ドイツのクラシック音楽をこよなく愛する人だったので、音楽を生業とする弟の雄司にとっては本当に素晴らしい滞在になったことだろう、と思う。

このあと、雄司はギュンターさんとともにゲーテハウスへ向かい、既にゲーテハウスをみていた僕とうひょんは駅の近くのデパートでお土産を買うことにしていったん別れた。

「ギュンターさんは本当に素晴らしい人だな、うひょん」

「あんな素晴らしい人はいないんだ、雄司はドイツに来てほんとうに良かったじゃないか」

「うひょんもホームステイしてたことあるんだよね、アメリカで」

「ああ、あるよ」

「その時はどうだったの?」

「毎日が戦いだね、バトルだよ、サバイバルゲーム、ふはははは」

うひょんがアメリカでどんな経験をしてきたのかはあまり僕の知ることではない。

しかし、今回のドイツの滞在で僕たちをホームステイさせてくださった、マーティンさん、ギュンターさん夫妻、ダグマさん一家には僕たちは本当に感謝しているし、あの懐かしい、ドイツに生きる素晴らしい方たちとは、遠く離れた国に住む生涯の友人でありたいと心から願っている。

さて、僕とうひょんはデパートに行ってショッピングをすることにした。

うひょんはなんだかお姉さんに色々と買い物を頼まれているらしい。

「それ買わないで韓国帰ったらどうなるの」

「怒られるんだ、何やってんだお前って」

「こわいね」

「こわいなありゃ、ふはははは」

僕とうひょんはまずお土産のお菓子を物色した。

相当な種類のお菓子が並んでいる。

うひょん曰く、

「空港でお土産買うと高いからね、ここで買っておけば無問題よ」

なので僕もうひょんの言葉に従いここでお菓子を購入した。

「あとは何が必要?」

「甥っ子におもちゃを買うんだ」

「おもちゃか、いいね、探そう」

僕らはデパートの上の階にのぼり、おもちゃ屋さんを物色した。

僕はおもちゃ屋さんというのが子供の頃から好きで、なんだか子供の頃から銭もないのに足繁くおもちゃ屋さんに通っていた思い出がある。

しかし、故郷大田原にかつて存在したマンネンヤやハローマックなどのおもちゃ屋さんは時代とともに消えてしまい、なんだかとてもさびしいような気持ちになる。

ネットで注文すれば翌日に欲しいものが届くような利便性はそれはそれで素晴らしいことなのだろうけど、やはりどこか味も素っ気もない感じだ。

そんな懐古的郷愁に誘われるようになるなんて僕も年を食ったものであるが、僕はドイツのおもちゃ屋さんで矢鱈にハイテンションになった。



「これテディベアじゃねーか!! かわいいーねー!!」

ドイツの名産、テディベアを手に取り、その愛くるしさにあっというまにやられてしまった僕は、すぐにテディベアをお土産として購入した(自分への)。



「めっちゃかわいーなこれ!!これはもう生きてるみたいだね、魂が宿ってるよ」

と、歓喜する僕をみてうひょんは、

「これメイドインチャイナでしょ」

と、怪訝そうな表情でテディベアを手に取り、

「あ、これメイドインフランクフルトだ、俺も買おう」

と、やはり僕と同じ型のテディベアを購入した。

「よかったね、これで甥っ子へのお土産ができたじゃないか」

と、僕がうひょんに言うと、

「いや、これは俺のものよ、俺はこいつと一緒に韓国で映画を見るんだ」

と、答えた。

なかなか子供じみたおじさんである。



このあと僕とうひょんは、手一杯になった荷物を置くため一度家に戻り、木漏れ日が美しくさしこむカフェでゆっくりと珈琲を飲んだ。

「いよいよ泥船が上映されるなあ」

「ふはは、俺はあれはドイチュの人も笑うと思うね」

「どうかなあ、ドイツの人があの映画をコメディ映画として受け入れてくれればうれしいけど」

「あ・れ・は・わ・ら・う・ね」



うひょんが妙に自信たっぷりに言うので僕は逆に緊張して来た。

ドイツの人たちは「そして泥船はゆく」をみて本当に笑ってくれるだろうか。

大体、お客さんは来てくれるのだろうか。(宣伝もせず観光していたのに)

これまで「そして泥船はゆく」という映画は上映するたびに各地で賛否両論が起こってきた。

この映画には特に映像的にもストーリー的にも、昨今もてはやされているような過激な表現があるわけでもないのだが、面白い面白くない、気に入った気にくわないというような意見がハッキリと別れる映画となっているのである。(創り手としてこれほど光栄なことは無い)

もう何度も言っていることだが「そして泥船はゆく」という作品は誰かに求められて誕生した映画ではない。

「そして泥船はゆく」という映画は、

「映画を撮らなければならない」

という、自分のみが勝手に抱いたある種の狂気、妄想めいた使命感で銭を貯め、企画をぶちあげ、周囲の人間には馬鹿にされ、コケにされ、無理だ無謀だという嘲笑さえ受け、それでも諦めることなど考える余裕すらなく、関わる人たちに迷惑が掛かることを承知でつくった作品なのである。

制作スタッフは4人。

予算など無いに等しい。

徹頭徹尾完全なる自主映画。

制作体制だけで考えればそこには苦しみしかない筈だった。

しかし、本気でひとつの作品に立ち向かってくれた、スタッフ、キャスト、悪友たちや、家族、劇団三十六計の方々との作業は苦しみを乗り越えるだけの狂熱と楽しさに満ちていた。

なのでこの映画をつくった時には、どこかの映画祭に出品されることなど誰も期待すらしていないし、まさか海外で上映されることになるとは誰一人夢にも思わなかったはずである。(東京国際映画祭から出品決定の電話をとった僕の母親は、詐欺師からの電話だとさえ思ったらしい・・・失礼な話ではあるが・・・・)

あの時の僕たちにとって重要だったのは、ひとつの作品をつくりあげること、ただそれだけだった。



今、自分たちはドイツに来て、「そして泥船はゆく」という映画が一体どのようにドイツの人々に受け止められるのか緊張しながら上映の瞬間を待っている。

それはとても光栄なことだし嬉しいことなのではあるが、それ以上になんだかとても不思議な感覚なのだ。




「そして泥船はゆく」という映画は東京国際映画祭出品を皮切りに地元の大田原や東京の新宿ゴールデン街、フィンランドのヘルシンキにも招待され上映された。

応援してくれる人もいれば、そうでない人たちもいた。

意味不明、理解不能な顰蹙やヤッカミや批判にさらされたことも少なくは無いし、この映画をつくったこと、ただそれだけのことによって得たものもあれば、それ以上に失ったものが多くあるのも事実だ。

ある人は言う

「お前たちは自分たちのしたいことだけやっている、それはプロではない」

僕は答えるだろう

「俺は別にあんたらが居丈高に仰るプロになりたくて映画をつくっているわけではない」

自分たちがやりたいことをやる、創りたいものを創るという行為に苦しみが無いと考える人間の考え方というのは、あまりにも短絡的であり、理不尽であり、愚かとしかいいようがない単純極まりない、幼稚でくだらない奢り高ぶった高圧的な考え方だろう。

僕たちは自分たちの創りたい映画を、自分たちがゼロから考えた方法でやっているからこそ苦しいのであり、その苦しみを乗り越えるために試行錯誤し、努力することが面白く楽しいのであり、創作への意欲やイマジネーションが失われることは僕たちが世界から滅びるまでないのである。

それがプロで無いと言うのならば、僕は別にプロで無くてよいし、プロでありたいとも思わないし、プロというレッテルを冠する必然性も必要性も感じない。(大体彼等の定義する所謂プロの資質が僕に無いと言うことは自他共に認めるところである)

むしろ僕は専門的知識や専門的技術で利益や褒章を獲得し、イマジネーションをがんじがらめにされ、不自由な創作活動を強制されるプロなどであるよりも、何者にも縛られず制度やルールから逸脱し自由に観念や価値を追及するアマチュアでありたいと思う。

大田原愚豚舎という映画制作集団はそのために生まれたと言っても過言ではないのかもしれない。

つまり創作という純粋行為にレッテルや看板などは無用なのである。(そんなものには所詮処世の潤滑油程度の働きしかない)

プロだろうがアマチュアだろうが天才だろうが馬鹿だろうがつくりたいという思いと、リスクを背負う覚悟があれば映画をつくることができるはずだし、つくるべきなのである。

かつて僕の敬愛するある映画監督は言った。

「映画が分かる魚屋がいてもいい」

僕は思う

「映画を創ることができる魚屋がいてもいい、今はそういう時代だ」と。



珈琲を飲み終える頃には、もう夕刻だった。(日は相変わらず高い)

「そろそろ、行こうか」

僕たちはカフェのお姉さんに会計を頼み、席を立った。

「いよいよ上映だな」

「緊張するなあ」

「会場行ってシューツに着替えないと」

「最近またきつくなってきたんだよな、あのスーツ」

「少し痩せて。そんなんじゃ映画の現場で動けないじゃないかお前」

「すみません。痩せます」

「ま、べちゅにいいけど!!」

いつもの馬鹿話をしながら、僕とうひょんは地下鉄に乗り込んだ。

町にはなんだか人の数がとても多く、電車の中や電車のホームがこれまで見たことの無いような人出である。

「なんだろう、町中すごい人だなあ」

「まちゅりにいくんじゃないの、みんな」

「ああ、そうか今日は祭りだったな」

「まちゅりだよこれは、絶対にまちゅり!! みんなまちゅりはすきなんだ」

果たしてMarienplatzの駅前は、フェスティバルを楽しむ人たちで、午前中とは比べ物にならないほどのものすごい賑わいをみせていた。

「このお祭りに来た人たちの中から二、三人でいいから僕たちの映画をみに来てくれないかしら」

と、僕は切実に思いつつ、いよいよ「そして泥船はゆく」が上映される映画祭の会場へトコトコ歩いていった。



→ドイツ阿呆紀行 次回、感動の最終回。