みなさま、こんにちは。

先日のブログの記事には多くの方がお越しくださって、シェアもたくさんしていただいて、本当にありがとうございます。

あれから、いのちについてまた少し考えていました。



母方の祖父が、私が中学生のときに亡くなったのですが、そのときもいのちについて深く感動的なことがありました。

このお話はブログでも何度かお話していますし、ホームページのコラムにも掲載していますが、改めて思い返してみると、やはり私の人生では多くのいのちが深く関わっていて、そしてたくさんのことを見せてくれたり教えていただいてきたのだなと思いました。

いのちについて深く考えたのは小学生の頃でした。
当時、「さとこの日記」とゆう本が教室にありました。
難病を抱えて生きる女の子の日記で、小学生の私にとったらそれはとても壮絶な内容で、読み終わったときには自分の人生を精一杯生きようと思ったのでした。

そして、今ここに生きていることやすべてに本当に感謝して、それを空に向かって捧げるとゆうことをしたのでした。

先日、空に現れたお釈迦さま(菩薩様)のお話をしましたが、そういった経緯があったことを思い出していました。

中学に入ってすぐに母方の祖父を亡くしました。
あまり一緒にいたことがないので記憶にないのですが、お墓に向かう際に、どこからか一匹の犬がやってきて祖母にぴったりと寄り添い、途中駆け出して一番に祖父のお墓の前に行き、座って私たちを待っていました。

私は、その時に、祖父のいのちは犬を遣ってまで何かを伝えたかったのだと思いました。

それは、祖父の願いであり祈りであり愛であったと思うし、肉体はなくともここにいるのだとゆう強いメッセージであり、奇跡を見せるようなものでもあったのだと思います。

その時のことを改めて振り返ってみると、いのちとゆうのはいつもいつも、私たちに何かを伝えたがっているのだと思います。

それは、私たち自身のいのちも一緒で、私たち自身にもいつもいつも何かを伝えているのだと思います。

私は、ずっと、そういった奇跡を見ることをとても怖れていて、奇跡とゆうのは常にあってはいけないことであったし、特別であるべきと思っていたのでした。

奇跡を簡単に起こしてはいけないと思ってきたので、目を隠すようになりました。

でも、もし、いのちが願いと祈りと愛の連続なら、奇跡は常に私たちの周りで起こっていくはずなのです。

奇跡は簡単に起こしてはいけないと思っていました。

それは、宗教的な背景から来るのだと思います。

それは、私たちの心の奥に常にあって、奇跡は簡単に起こしてはいけないもの、起きてはならないものとゆう在り方になっているのだと思います。

日常がいつも奇跡のようであったら、きっと怖いのです。

でも、祖父が教えてくれたのは、私たちのいのちは奇跡を起こせるのだとゆうことでした。

私たちの人生は、常に奇跡であっていいのです。

みなさんのなかにも、奇跡のような出会いや、出来事や、降りてくるビジョン、メッセージ、共時性(シンクロニシティ)があるのではないでしょうか?

ただ、それらを心から認めてしまえば、何かいけないような、罪のような、そんな気持ちになったことはないでしょうか。。

けれど、ひとつひとつを大事に紡いでいけば、それらはとても輝きだし、私たちに大切な何かを伝えてくれます。

奇跡は、私たちひとりひとり違います。

奇跡をどこに見出すのか、どこにどのように現すのか、ひとりひとり違います。

その人にとってのたくさんの奇跡が、輝ける世界であったらいいなと思います。





プリエール 桜岡 智子