日中、自分で書いた「40にして惑わず」について考えていました。笑
というのも、
「惑い」とは「まよい」のことで、
だってまようから良くなっていくんじゃないの?
と思ったから。
事実、「40にして惑わず」と記した大人(タイレン)の死に際は、
彼の願っていたようなものではなかったわけで。
理想の主君を求め続けて、
どんどん貧乏になり、
寂しい最期だったというのを読んだことがあるのです。
本人がどう思っていたかはまた別の問題だとしても、
そんな彼に憧れない自分は、
じゃあ彼のように「40にして惑わず」じゃないからといって、
素敵な人ではない、ということではない♡
と思ったのです。
惑いがあるから、
わたしはわたしの「今」を疑うことができる。
それは「惑う」という姿をした「余裕」なのかも。
思春期の少年少女たちがかくも惑うように、
大人だって生ある限り、
しつこく細胞分裂を繰り返す。
よりよく生きる、
よりよく理想を叶える、
そのために惑いというプロセスがあった時、
そこで初めて気付く可能性もたくさんあるから。
それは、自分で自分の「マイルール」に気付いて、
そこから解き放たれていくということ♡
だったらわたしは、
恐れずに惑い続けることを自分に赦そうと思いました。
その惑いは必ず、
「より良いわたし」を叶えてくれるはずだから♡