毎月第3月曜日14時~ 清瀬を元気にする情報を
ぽつぽつとお伝えしています🌻
パーソナリティは゛高P゛こと髙橋靖と
゛たかじゅん゛こと髙橋純子のタカタカコンビ🎶

2月19日の放送は「幻の清戸道をたどってみた!!」
当日は清瀬市郷土博物館から生放送📻
スペシャルコメンテーターとして、郷土博物館 学芸員の古川さんと中野さんにご出演いただき、江戸から清戸(清瀬市)に向かう「清戸道(きよとみち)」の謎に迫りました♪
 


《ご紹介したこと》
①    清戸道って知ってた?
②    清瀬市郷土博物館
③    清戸御殿跡
④    清戸道の痕跡を追って・・

 

 


**清戸道って知ってた?**
その昔、清瀬市は「清戸」という地名でした
今も上清戸・中清戸・下清戸という地名が残っていますが、下宿も清戸下宿と言われていたそうです
その清戸を目指して江戸から続く「清戸道」という道があったのをご存じでしょうか

1885年(明治18年)の『渡辺(東京)府知事管内巡回記』に、五街道の中山道並みに重要な道路として登場
『北豊島郡誌』では、1918年(大正7年)度に行われた交通量調査で、清戸道の交通量は川越街道よりも多かったとの記述がΣ(゚Д゚)

清戸=清瀬だから゛清瀬道゛ってことですよね?!
そんなすごい道があったのなら、きよせ★ジモト~クで取り上げない訳にはまいりません
これは調査開始(`・ω・´)ゞです!!

まずは「清瀬の歴史なら清瀬市郷土博物館に聞け!!」
ということで清瀬市郷土博物館へ~

 

 

***清瀬市郷土博物館***



タカタカコンビ「清戸道ってどこなんですかっっ???!!!」
学芸員さん「それが、、わからないんですよね」
「年に何回かお問い合わせいただくんですが、詳細不明ということで・・・」

ガーーーーーーーーン(ノД`)・゜・。

郷土博物館によると
江戸時代前期に武蔵野一帯は尾張藩の鷹場で、1670年代から1780年頃、現在の清瀬市中清戸に「清戸御殿」と呼ばれる藩主や近習が鷹狩の際に使用した御殿があり、尾張藩邸から清戸御殿への道が整備され、それが清戸道の始まりではないか・・・との話でした

清戸道の起点は神田川にかかる江戸川橋、そこから練馬区内までは旧目白通りということはわかっているが、練馬から先、清瀬までのルートが不明で様々な説があるとのこと

むむむむむむむむ(-“-)

これは更なる調査が必要(`・ω・´)シャキーン
行くぜ!!待ってろよ清戸道~~✨
 

 


***清戸御殿跡***
こちらが清戸御殿跡。清瀬市中清戸にある清瀬御殿山緑地保全地域にあります
 


さあ、清戸御殿跡って何かあるのかな・・・・とととと、
「立入禁止!!!!!!」((+_+))
なんとナラ枯れによる倒木などの危険性から立ち入り禁止になっていました・・

現在、清瀬御殿山緑地保全地域には清戸御殿跡の碑も説明書きもありません
練馬や文京には清戸道の説明書きに清戸御殿が登場したりしているのに、清瀬では「清戸道」も「清戸御殿」も、その存在を知る人は少ないのです・・・もったいないなぁ~
清瀬の歴史・文化・財産として市内でも多くの人に知ってもらえたらと思います

 

 



***瀬戸道の痕跡を追って***

つぎにタカタカコンビが調査したのはお隣の新座(にいざ)市

東京都道・埼玉県道24号練馬所沢線沿いの埼玉県新座市新堀2丁目におおきなお地蔵様が立っていました
しかし都道とは思えない狭さ・・・これも清戸道のなごりなのか?!

お地蔵様の台座に清戸道の痕跡が・・・??
と聞いてやってきたのですが、風化していて確認できず(._.)

 

 


こちらは新座市西堀の御成橋付近。清瀬ひまわりフェスティバルの会場やスパジアムジャポンも近所です
↓御成橋へ向かう小道は尾張藩主が御成りになった道なのか、果たして清戸道は?!

御成橋近くにも地蔵菩薩立像が・・・これは清戸道の道標なのか?!

 

 

新座市野寺の辻にある道標には、はっきりと「右ハ 清戸道」と記されていました
(新座市野火止にある「歴史民俗資料館(れきしてらす)」にもご協力いただきました!)

 


練馬区・豊島区・文京区では、農作物を神田市場に運んだ道として歴史に刻まれていました
小中学校で郷土史を学ぶための副読本にも必ず「清戸道」がでてきます
石碑も街道沿いに点々と・・・

 

 

 
いずれも練馬区教育委員会が設置した「清戸道の碑」
四面塔稲荷神社境内、練馬区三原台の庚申塚脇、練馬区立総合体育館前、練馬区貫井の須賀神社下

 


練馬区高松の庚申塔の横、宮田橋敷石供養塔は1807年、清戸道に敷石を並べて交通の便を図ったことを記念してつくられたもので、寄進した清瀬の方のお名前も彫られていることがわかっています

↑上清戸の庄治郎さん、中清戸の伝治郎さん、野塩村の彦三郎さんが寄進したとあり、中里らしき文字も、、

練馬区では、特産品の大根を神田市場に運ぶための重要な道としてなくてはならない道でした
練馬で清戸道がこんなに注目されていたとは!!

 


文京区でも清戸道の痕跡がっ( `―´)ノ

 

 

文京区の看板に「中清戸(現、清瀬市)」の文字がっっ(*’▽’)
ふぅー、びっくり・・・


豊島区でもかなり研究されている・・・・
池袋にある「豊島区郷土資料館」ではこんな展示が!!
 
 

 

おおおお?これはもしや戦国時代・・・

清瀬市中清戸の清戸御殿跡から新座や東久留米、練馬、文京、豊島まで旅をしてきたタカタカコンビ

各所の資料館で得た情報を整理すると・・・
清瀬市郷土博物館では
「清戸道は尾張藩の鷹狩の際に使われた清戸御殿に来るための道」
豊島区立郷土資料館では
「江戸城から練馬城・石神井城を抜け、滝の城、そして川越城に続く道」
練馬区立石神井公園ふるさと文化館では
「清戸を抜け、清瀬橋を渡り、所沢・飯能・秩父に至る道」
新座市歴史民俗資料館(れきしてらす)では
「清戸方面に向かう道は、みーんな清戸道なのでは?!」
とのお話が((+_+))

その中で髙橋Pは次のような仮説にたどり着きました
・江戸川橋から大泉学園までは、旧目白通り
・大泉から清瀬までの「所説あり」という地域では、時代によって目的地が違い清戸道が変化したのではないか?

時代とルートは主に次の3つ
① 戦国時代
清戸番所があった清戸下宿(現、清瀬市下宿)に向かう道としてメジャーな存在に
清戸道と言われる所以は「清戸番所」がルーツなのでは?
② 江戸前期
鷹狩りの際に使用された清戸御殿がある中清戸に向かう道として整備された
③ 江戸後期以降
農家が江戸に傷みにくい農作物や薪などの木材を運ぶ道として発展
「東京都道24号・練馬所沢線」がその名残りではないか

その後、大正13年(1924年)に武蔵野鉄道(現、西武池袋線)清瀬駅が開駅したことで道の必要性が低下し、その役割を終えたのではないか

そして今、現代の清戸道が次々と建設中( `―´)ノ
都市計画道路「放射7号線」とか「新東京所沢線」と呼ばれる道
完成後は新しい都道24号線。清瀬橋から先は埼玉県道として既に完成しており、東所沢駅の脇を通り、圏央道の狭山日高インターまで抜け飯能や秩父方面へのアクセスが良くなります

清戸御殿跡に向かって真っすぐに伸びる道も建設中です

↑清瀬御殿山緑地保全地域の裏から撮影

 


 
↑清瀬市郷土資料館企画展示「清瀬六村絵図」

今回ご紹介したのはあくまでも高Pの仮説ですが、清戸道はこれからも時代とともに変わり続けていくということかもしれません・・・

清瀬市郷土博物館のHPはコチラ↓

清瀬市郷土博物館ホームページ─概要─ (museum-kiyose.jp)



2024年は清瀬駅開業100周年でイベント続々(*’▽’)注目してね~

清瀬駅開業100周年記念|清瀬市公式ホームページ (kiyose.lg.jp)




<番組から>
お聴きいただいた方、メッセージいただいた方、ありがとうございました✨
聞き逃した方、もう一度お聴きになりたい方、
再放送は3月2日(土)朝7時~
(再放送は予告なく変更となる場合があります)

取材の様子はたかじゅんのインスタグラムで~
動画や写真で詳しくご覧いただけます↓

髙橋純子(@takajuuunfm854) • Instagram写真と動画


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