私事ですが、先週の月曜日、9月16日に母が亡くなりました。

 

母は親戚が多く、交友関係も広かったので、本来でしたら皆さんにゆっくりお別れをしていただくべきだったのでしょうが、私も兄も東京から秋田に帰り、たった3日間で葬儀、各種手続き、実家の片付けまで終わらせなければならなかったので、勝手ながら、近親者のみの葬儀とさせていただきました。

 

ここに、衷心より母への生前のご厚誼に感謝申し上げます。

お世話になりまして、ありがとうございました。

 

先日のブログでもご紹介したように、母は怪我や病気は多かったですが、元気でした。
亡くなった16日も、グループホームの敬老会で、みんなでお祝いしてご馳走を食べて、記念品をもらい、笑って、普通に過ごしていたそうです。

少し横になりたいと言って、16時頃に顔色が悪くなって救急搬送されて、そこからたった1時間で亡くなりました。

 

救急搬送の連絡を受けた時、「喘息の持病があるので、念のため、数日間入院させるようです」と聞いていましたし、病院の事務の方とも「祝日なので、事務手続きは明日にしましょう」と話していました。

 

電話を切ってすぐにまた電話があり、「容体が急変して危篤です。延命されるかどうかご判断下さい」と言われた時も、誰か他の人と間違えていないかと思ったぐらいです。


母の希望通り延命治療は望まず、そのまま18:05に息を引き取りました。

満87歳、死亡診断書には「うっ血性心不全」と書かれていました。

 

母は昭和12年3月16日、柴田勝家の末裔に連なる柴田家の8女、10人兄弟の末っ子として生まれました(母の実家には柴田勝家からの家系図が残されています)。

祖父は病弱で、母が5歳の時に亡くなり、記憶はほとんどないそうです。

身体は不自由だったけれども、地元では知識人として、俳人としても著名だった祖父のことを自慢げに話してくれましたが、それらは全て姉たちから聞いた話だったようです。 

 

祖母は女手一つで子供たちを育てなければならず、母のことはほぼほったらかしで、今で言う放置子だったようで、母はいつも人の注目を集めたくて、人に愛されたくて、過剰な自己アピールで人との距離感が近過ぎることもありましたが、多くの友人たちに愛された人生だったと思います。

 

高校卒業後、弘前の文化服装学園に入学しました。

毎日鈍行で大館から弘前まで通い、いつもお金がなくて、おやつや弁当を買い食いしている友達が羨ましかったそうです。

時折おばあちゃんがサツマイモの天ぷらを新聞紙に包んで持たせてくれて、それがとても美味しくて嬉しかったと話してくれました。

 

専門学校で身に付けた洋裁の技術は、その後、母の一生の仕事となりましたが、卒業後すぐには違う業種の仕事についていたようです。

そこでどういったご縁か、バス会社に勤めていた父と知り合い、結婚することになりました。

当時父は女性関係が派手なことで有名で、家族に大反対され、おばあちゃんには「どうしても結婚すると言うんだったら、この家を出て行け」とビンタされ、駆け落ち同然のように一緒になったと聞きました。

 

昭和35年に兄が、38年に私が生まれ4人家族になりました。

兄は赤ちゃんの時から身体が弱く、私は身体は丈夫だけれどお転婆なので怪我が多く、母は私たちが病気したり怪我する度に父に責められ辛い思いをしたと言っていました。

 

市営アパート、父の会社の社宅を経て、昭和45年頃に現在の家を建てました。

その頃から父は7年間にわたり十和田湖の営業所に単身赴任をすることになり、母は一人で兄と私の面倒を見ていて、大変だったと思います。

この頃はあまり両親の仲が良くなく、顔を合わせれば怒鳴り合っていたので、家は安息の場所ではないと家族の誰もが思っていました。

 

兄が高校を卒業して家を離れ、その2年後に私も進学のために上京しました。

犬猿の仲の両親を残していくのは心配でしたが、どういうことか2人きりになってからは、逆にお互いしか頼る人がないと思ったのか仲良くなったようです。

 

父がバス会社を定年退職したことを機に宮城県の会社に再就職することになりました。 

父は若いころ大阪に住んだことがありましたが、母にとっては初めて大館を離れることになり、不安な反面楽しみと話していました。

 

仙台では、父も母も周りに知人がいない中、仕事に没頭するしかなく、父も仕事で認められ、母もまた洋裁の仕事で事業主として活躍する道を拓き、2人ともこの時代が一番人生を楽しんでいたのではないかと思います。

結局、仙台には26年超にわたり住むことになりました。

 

母には娘が生まれてから1年間、保育園に入園するまで東京で来てもらいました。

私は仕事漬けの母に孫でも見て少しゆっくりしてもらいたいと思いましたが、母は退屈だったようで、ある日、私に相談することなく帰ることに決めたからと、強引に仙台に帰ってしまいました。

その後、父が交代で娘のお世話のために上京し、約10年夫婦離れて暮らしましたが、かつての不仲が嘘のようにお互いを思い合い、そのぐらいの距離感が2人にとってはちょうど良かったのだと思います。

 

2011年に東日本大震災があり、仙台の家が住めなくなったので、引き上げて東京に移り住んできました。

兄家族、私の家族、両親と、何十年間ぶりに家族が揃い、このまま穏やかな人生を送ると思っていたところ、ある日、両親から「人生の最後は生まれ育った大館で過ごしたい」と言われました。

当時父は脳梗塞を発症し介護認定を受けていたので心配でしたが、お前たちには迷惑をかけないからといって、またも無理やり帰ってしまいました。

 

ただ、2人の生活はあまり長く続かず、すぐに父は施設に。

母は1人になったものの、何十年ぶりに旧友たちと大館での生活を楽しむこともできたようです。

 

令和2年2月9月20日、父を看取り、その頃から母も認知症となり、一昨年からグループホームにお世話になることになりました。

ホームでの生活は母らしく、自分にも何か仕事を言いつけてくれと、しょっ中職員さんに話しかけ、洗濯物たたみなどでは水を得た魚のように活躍していたようです。

 

母の人生を一言で言うと「働くために生まれてきた人」だと思います。

私が覚えているだけでも、電話交換手、タッパーのセールス、化粧品のセールス、健康食品のセールス、学研の配達員、洋裁師、洋服のリフォーム、縫製工場の下請けと、常にいくつもの仕事を掛け持ちし、とにかく、早朝から深夜まで、働きづめの人生でした。

家にいても、テレビを見ながら常に内職の手仕事で手を動かし、休みの日は道端にある瓶を拾い、それを酒屋に持ち込んでお金に換えていたほどでした

 

今思えば、母にとっては働くことがまさに自分が生きている実感を得られる唯一の手段だったのではないかと思います。

 

休日も勤務時間も関係なく働く両親を見て、普通のOL、サラリーマンになりたいと願っていましたが、気づけば私と兄も事業主になっていて、両親と同じようにワーカホリックな人生を送っています。

母さん、間違いなく私たちはあなたの子供です。

私たち家族、次に生まれ変わる時は、この貧乏性から脱却して、貴族みたいに何もせずに優雅に座っていられる性格になりましょうよ。
 

あまりにも突然のお別れとなり、葬儀が終わった今も心の整理はつきません。

亡くなって1週間が経ち、ふとした瞬間に寂しさがこみ上げて涙が落ちることもあります。

ただ亡くなった最後の日まで、ご馳走を食べ、笑って過ごせたことで、そんな人生の終わり方は、何より幸せだったのかなとも思ってます。

 

小さい時、青森の恐山に行ってきた母が「イタコに声を掛けられて、あなたの寿命は88歳と言われたよ」と言っていたことがありました。

1歳足りなかったと思って母の葬儀日程表を見たら「享年八十八」と書いてあり、そうか、秋田では数えで年を表すんでしたね。

 

とにかく今は少しでもゆっくり休んで、そして天国では喧嘩しないで父さんと仲良くして下さい。

母さん、ありがとう。生んでくれて育ててくれて、心から感謝しています。

 

 

下矢印母の遺影は数年前にデイサービスで撮っていただいた誕生日の写真です

 

 

下矢印2015年6月に大腸がんで手術した時、麻酔で寝てても手を動かす母を見て、最初は笑っていましたが、途中から涙が止まらなくなりました悲しい

 

 

 

下矢印同じく2015年、母の手を見たら、長年の手仕事ですっかり指が曲がっていましたタラーこの手で仕事して、私たちを育ててくれたんだよね泣