自己紹介の続き、第2弾です。

 

今回は、株式会社シグマでどんな仕事をしていたのか、お話しさせていただきます。

昭和58年から平成16年まで、在職していた21年間のうち、1年は経理、15年はIR・広報業務、5年はメーカー部門で営業と販促業務を担当していました。

部署だけはたくさん経験していて、ざっと思い出しただけでも、経理課、庶務課、総務課、人事課、管理本部付、総合企画室、社長室、経営企画室、IR・広報課、東日本販売部、国内販売部etc.

ですが、管理系の部署ではほとんど広報業務を担当していて、特に社内報の編集長をしていた時期が長かったです。

 

当時、シグマでは店舗や事業所が点在していたので、社内広報、特に社内報には力を入れていました。

私が担当した当初は隔月B5判8ページでしたが、昭和60年の改正新風営法施行を境に、ゲームセンター店舗の出店攻勢と、またネバダ州でのカジノ関連事業に注力し始めたことから、伝える内容がどんどん増えていき、すぐに毎月発行A4判2024ページにしてもらいました。

毎号それだけの誌面を埋めるのはなかなか大変なことで、専属は私一人、それに社内に編集委員を数名選出してお手伝いしていただいていましたが、後半は上場準備もあって専属3名+社内編集委員5名ほどだったと思います。

毎月企画を考えるのが楽しくて、社内の店舗や事業所だけでなく、取材と称してあちこちに行かせていただきました。

そこで企画力と文章力が鍛えられたのか、当時編集委員だった仲間の中には、現在、脚本家、ライターになられて活躍をされている方もいらっしゃいますし、お陰様で私も、今も文章で何かを発信するのは得意な方だと思います(話すのが苦手なので助かっています)。

今思い出しても、本当に楽しい時代でした。

 

 

そして、私が今もシグマの真鍋勝紀社長を尊敬してやまない一番の理由は、当時、シグマでは世界50カ国ほどのカジノにゲーミングマシンを輸出していて、なおかつラスベガスでカジノホテルの開設準備~オープンもあって、真鍋社長はほとんど日本にいる間がなく、とてもお忙しかったにも関わらず、社内報の「社長からのメッセージ」の原稿を一度も落とすことなく送り続けて下さったことです(昭和47年創刊1号~平成12年最終250号まで)。

かろうじてワープロはありましたが、パソコンが世に出る前で、執筆は手書きのみ、通信手段はテレックスかファックスしかない時代に、世界中のどこにいらしても、必ず原稿だけは締切日までにきちんと送って下さいました。

そこには、会社が目指す方向、それぞれの部署の社員がするべき仕事、ゲームの仕事に誇りを持つべきことなどが、明確に記されていました。

奥様とお二人、徒手空拳で会社を興し、売上300億円、社員最大1,000名、JASDAQ上場まで成し遂げたリーダーの力強いメッセージに、20年に亘り触れ続けたことが、今も私の根っこといいますが、土台を作ってくれたと思います。

そして、企業のトップが「理念」を語り、「目指すべき道」を示し続けることがいかに大事か勉強させていただきました。

たぶん、歴代の社員の中で一番多く真鍋社長の生のお言葉をお聞きする機会をいただいたのは、私だったのではないかと思います。

真鍋社長は残念ながら平成186月にご逝去され、シグマも現在は別の会社になってしまいましたが、あの時代をご一緒に過ごさせていただいたことには、今も心から感謝しております。

 

写真は、シグマに来訪された、当時のラスベガス市長と真鍋社長(撮影は私です)

 

その頃、セガさん、ナムコさん、タイトーさん、カプコンさん、コナミさんなどの広報担当の方たちと広報連絡会を作って定例会を開いたり、あちこち飛び回る仕事が楽しくて心から満足していましたが、ある日、当時の上司だった常務がメーカー部門の販売担当役員に配置換えとなり、抵抗はしたのですが、業務命令で一緒に連れて行かれることになりました。

社内報の取材などで自社製品には詳しかったものの、管理畑ばかりで商売をする部門にいたことがなかったので、戸惑いながらも、得意のカタログを作ったり、展示会の企画・設営などしているうちに、今度は、営業もできるだろうということで、いきなり営業担当にさせられました。

営業担当は全国に20名ほどいましたが、後にも先にも女性は1人もいなくて、異動になった日の朝礼で「今日から、シグマで女性初の営業担当になりました。皆さんのご期待を思うと身が引き締まる思いで、私なりに精一杯頑張る所存です。一つお願いがあります。もし私が活躍できなかった時は、女性だからダメだったのではなく、私だからダメだったと思って下さい。後に続くであろう女性の後輩たちのためにも、性別でなく、私個人として評価して下さるようにお願いします」と挨拶したことを憶えています。

 

結果、一年でトップセールスになり、その後、産休に入って営業を離れるまで、その座を維持することができました。

でもそれは、元々社内報の取材で社内をくまなく回り、また、入社日には必ず私が社内報掲載用の写真を撮っていましたので、社員で私を知らない人はいなくて(よく「社長の顔を知らない人はいても、小笠原さん(旧姓)を知らない人はいない」と言われていました)、そんな社員たちも、また、お付き合いのあった業界の方たちも一生懸命後押しして下さっていたからで、他の営業社員に比べたら、だいぶ下駄を履かせてもらってのことでした(汗)。

とはいえ、嫌々させられた営業のスキルが生きて、後に起業することになったのですから、人生は面白いものです。

そして、経営者になった今、上場会社でほとんどの管理部門を経験したことが、たとえ、門前の小僧レベルの知識だったとしても、ものすごく生きています。

自分で仕事を選ばずに、来たものには何でもチャレンジすることで、引き出しが増えて、その後の自分を作ってくれるのだと思います。

もし今、「こんな仕事やりたくない。こんな仕事するぐらいなら辞めたい」と思う方がいたら、「たとえ嫌でも、とりあえず一年は頑張ってみて下さい」と言いたいです。

 

ちなみに、シグマで思い出に残っていることBest 5です。

 

  1. ラスベガスに行かせてもらったこと

→昭和62年のカジノホテルのオープンと、平成10年のG2Eショーの2回です。街全体がエンターテインメントで、初めてあのキラキラに触れた時に、私の第二の故郷にしようと決意しました。一昨年から行けていませんが、それまでは年に一度は帰る(⁉)ようにしていました。

 

 

  1. シグマ会の会長をしたこと

 →シグマにはシグマ会という、社員全員が入会する組織がありました。平成2年に選挙で選ばれて、この会長を女性で唯一させていただきました。

 

  1. ICビンゴの開発プロジェクトメンバーになったこと

 →メダルゲームの究極の遊びと言われたビンゴゲームを自社開発することになり、当時社員専用のビンゴゲーム専門店『シグマ・ビンゴクラブ』の常連だった私もメンバーに入れていただきました。

 

  1. シングルメダル開発に携わらせていただいたこと

 →当時、シングルメダル機はシグマの独壇場でした。シングルチームの皆さんとは、本当によく一緒に仕事させていただきました。中でも、『CAT’S HOUSE』と『MONJIRO』は、私の企画アイデアから生まれたスロットマシンです。20年以上経った今も現役で稼働しているのを見ると、本当にうれしく、ありがたい気持ちになります。

 

 

  1. 新卒女子事務系一般職から管理職試験合格第一号になったこと

 →昭和60年に男女雇用機会均等法が施行されましたが、まだまだ女性には厳しい職場環境でした。当時、女性社員には●始業時・10時・15時に職場全員分のお茶くみ●お昼の電話当番●年齢問わず一律制服着用●来客時のお茶出しと片付け●コピー●ワープロ打ちなどの細かい雑務があって、自分の仕事どころではなく、また、名刺も待たせられなかったので、取引先と会っても自分だけ相手が名刺をくれなかったり、商談中一度もこちらを向いて貰えなかったりということがあって、いつか必ず!という気持ちがありました。店舗や中途採用の方で管理職になられた先輩女性社員はいましたが、27歳の時に管理職試験に合格し、新卒女子事務系一般職から総合職の管理職への合格第一号になれた時は、まさに天にも昇る気持ちでした。即日制服を返却し、名刺と肘付きの椅子を貰い、私服を着られるのが何よりうれしかったことを憶えています。


シグマでの21年間は、社会人としての自分の根っこを育て、成長させていただいた、本当に素晴らしい楽しい時間でした。

社長、役員の皆様はじめ、真面目で個性的な先輩たちに可愛がっていただき、同じ釜の飯を食べた仲間たちは、今も家族と思っています。

あの頃の自分は未熟で生意気で、思い返すだけでも恥ずかしいですが、そんな私を温かく見守っていただいた皆さんに、心からの感謝をお伝えしたいです。


さてその後、シグマは買収されて、他の会社と合併して社名も変わり、メーカー部門もなくなりましたので、ご縁があって平成16年に株式会社日本システムに入社させていただきました。

次回、自己紹介第3弾は、日本システムでのお仕事についてご紹介させていただきます。


※この回は当時の雰囲気を出すため、年代を元号表示にしております。