たかの知れた自分だけれど  社会だって たかの知れた社会なんだ | 池内ひろ美のキネシオロジー・カフェキネシ&ヤムナ名古屋Life

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キネシオロジー・カフェキネシ&ヤムナのセッション・講座で
健康迷子にならない為の心と体の健康案内人

こんばんはっ  あたし 

心と身体と魂の健康案内人池内です。

 

4月に入り 心身のバランスを整えるキネシオロジー講座が朝と夜の2講座となりました。

 

伝える側の講師をさせて頂いてますが 時間があれば 本や資料をガサガサ出してきては

講座の資料になる物を探したりしてます。 そして丁度 2年程前に受けた『TAO』の講座のプリントが出てきました。

 

受講した講座のプリントは 数年後にでも読み直したりするので大切にとってあります。 

 

 

2年前のTAOの講座で渡されたプリントは1枚 講師の方の お話をジックリ聴いていた事を思い出します。

そして 何気なく読み直した このプリント

 

『タオ–老子』 <13>

「たかの知れた社会なんだ」:加島祥造 訳

 

ぼくらはひとに

褒められたり貶されたりして、

びくびくしながら生きている。

自分が人にどう見られるか

いつも気にしている。しかしね

そういう自分というのは

本当の自分じゃあなくて、

社会にかかわっている自分なんだ。

 

もうひとつ

天と地のむこうの道(タオ)に

つながる自分がある。

そういう自分にもどれば

人に嘲られたって褒められたって

ふふんという顔ができる。

社会から蹴落とされるのは

怖いかもしれないけれど、

道(タオ)から見れば

社会だって変わってゆく。だから

大きな道(タオ)の働きを少しでも感じれば

くよくよしなくなるんだ。

たかの知れた自分だけれど

社会だって、

たかの知れた社会なんだ。

 

もっと大きな道(タオ)のライフに

つながっている自分こそ大切なんだ。

そのほうの自分を愛するようになれば

世間からちょっとパンチをくらったって

平気になるのさ。だって

道(タオ)に愛されてる自分は

世間を気にしてびくつく自分とは

別の自分なんだからね。

 

社会の駒のひとつである自分は

いつもあちこち突き飛ばされて

前のめりに走ってるけれど、

そんな自分とは

違う自分がいると知ってほしいんだ。

 

人は大なり・小なり

【自分が人にどう見られるか、いつも気にしている。】

 

この気にしている部分は人によって違ったりしますが、キネシオロジーの講座やセッションをしていると自分が

 

・人にどう見られるか

・人に何て言われるのか

 

だから 何も言えない、自由な行動が出来ない

 

そんな身体の声 (潜在意識)の声を聞きます

 

勿論、私にも…

 

でもね

たかの知れた自分だけれど

(たかが知れた自分だけど)

 

社会だって、

 

たかの知れた社会なんだ。

(たかが知れた社会なんだ)

 

たかが知れた自分 

人に何て言われようと、どう見られようといいじゃないか!

 

自分の思うままに表現し、行動したって

 

 

社会だって

たかの知れた社会なんだよ

 

人目を気にせず、人に何て言われようと

 

真実は1つ、解釈は無数なんだ

 

自分の想うように生きたっていいんだよ

 

そんな事を考えながら

『タオ–老子』 <13>

「たかの知れた社会なんだ」を何度も読み直す。