楠母神社跡にいってきました。






楠母神社とは楠妣庵観音寺より徒歩5分くらいのところに“あった”神社です。

http://s.ameblo.jp/fist-history/entry-11975095824.html

楠母という名前のとおり、楠木正成の妻、久子夫人をご祭神とした神社でした。







楠母神社の創建のいわれです。

/////////////////////
楠母神社
大阪府南河内郡東條村矢佐利。
この地は贈正一位橘朝臣正成公夫人誕生の地なり。
楠公父子の誠忠古今を貫くも楠氏一門の節義天地を照らすもこれ偏に夫人内助の功に基づく。
真に夫人は日本婦人の亀鑑たり。
依って紀元二千六百年を期しこの聖地に神社を建立し永久に淑徳を讃仰し奉る。
/////////////////////





現在はこのような状態。廃社となっております。

道を地元民に尋ねたところ、地元民ですら「気持ち悪い」「薄気味悪い」と近寄る人も少ないと言います。

一部の篤志家が草の手入れなどを定期的にしているそうですが、尋ねても存在を知らない人もおり、不思議な気分でした。

神社の創建は皇紀二千六百年。つまり昭和15年。楠木正成を妻として支えた久子夫人の功績を讃えるため創建された神社でした。

終戦後もしばらくは戦争未亡人や戦災孤児たちの心の支えとなっていたようですが、後継者がなく、昭和50年代に取り壊されました。

神社の跡地には公園ができるという話も出ているそうですが、財政難で計画は宙に浮いたまま頓挫しています。












離れたところに碑文が立っています。

//////////////////////
皇紀二千六百年を記念し府下女学校生徒国民学校女児童は楠母神社本殿を大日本国防婦人会関西本部管内会員は拝殿を寄進し奉り、又茲に名誉本部長李王妃殿下の御歌を永への御訓へとして謹録す。
昭和十六年五月十日
大日本国防婦人会関西本部
/////////////////////



大日本国防婦人会関西本部の人たちが寄進し、建立された神社であったことがわかります。

/////////////
こくぼうふじんかい【国防婦人会】

正称を大日本国防婦人会といい,満州事変後,銃後の固めを急ぐ軍部の指導でつくられた軍国主義的婦人団体。地方,農村から組織化が始まり,1932年10月に全国組織の発会式をあげた。会の幹部には陸海軍大臣など現役将官夫人が就任し,軍部の勢力を背景として家庭婦人,労働婦人を急速に組織し,結成当時50万の会員は41年度には公称1000万に達した。その事業として,出征兵士の慰問や家族の援助などの軍事援護のほかに,〈日本婦徳〉の鼓吹を掲げ,一般女性の精神強化に尽力した。
/////////////





同碑には「李王妃殿下楠母会へ賜える御歌」が掲げられています。

/////////////
李方子
イバンジャ

[生]1901.11.4. 東京
[没]1989.4.30. 大韓民国,ソウル
朝鮮李王朝最後の皇太子妃。梨本宮守正王の長女として生れる。学習院中等部在学中に日本に留学していた朝鮮王朝の李垠 (イウン) 皇太子と婚約,1920年に結婚するが,実は日本が朝鮮支配のために画策した政略結婚だった。
/////////////










本殿跡らしき場所です。

倒れている銅像は、おそらく久子夫人と楠木正成の長男・正行、次男・正時の銅像ではないかと思われますが、詳細はわかりません。

もしかすると入口付近で倒れていた子供らしき像が三男・正儀で、これらが一対で並んでいたのかも知れませんが、当時の写真がないためわかりません。






完全に荒れ果てた状態となっています。

楠木正成の妻、久子は甘南備の豪族南江備前正忠の妹で、元享3年(1323年)20歳で大楠公に嫁ぐまで、この地で兄正忠の厳格な家庭教育を受けたと言います。

久子夫人は楠木家に嫁ぎ、正行、正時、正儀、正秀、正平、朝成の六男を産み、正成不在の留守を守ります。

正成が湊川の戦いで戦死した後は、敗鏡尼と称し、楠木一族の菩提を弔いつつ、故郷に戻って隠棲生活を送りました。


この地に来て、「神社が滅びる」ということは、こういうことなのかと慄然としました。

改めてこの地に、楠母神社を再建することは難しいでしょう。否、再建することは資金さえ投じれば簡単にできますが、これを維持するのは至難の業。

ならば前述したようにこの地が公園へと整備されることが、久子夫人の御霊の為にも最適であるように思えます。

ただ公園となったとき、石碑はどうなるのか。現状のまま保存されるのか、はたまた破壊されるのか。

破壊されるのであれば、看過するわけにはいかず、どこか楠公の所縁の場所へ移築するため、運動を展開しなければならないかも知れません。

そんなことを、つらつらと考えていました。