・・・・・・・っということで、キリスト教もイスラム教もユダヤ教も唯一の神を崇める宗教です。
だから一神教。
だから最強無敵。
だから、神のみを信じればいい。
だけども、神の意図は計り知れない。
直接言葉では伝えてくれない。
なぜなら、「言葉」を使わないからです。
なぜ神は言葉を使わないか?
それは、言葉は人間が発明した会話手段だからです。
神は言葉を使う代わりに、さまざまな形で人々に「ヒント」を与える。
自然現象とか、兆候によってですね。
それでも人間は鈍感だから神はイラつく。
仕方なしに、預言者を任命して人間世界に遣わす。
預言者のほうも大変だ。
神の考えを言葉によって伝えなくてはならない。
言葉は不完全な会話手段だから、預言者はさまざまな「比喩」を用いて神の意思を伝えようとする。
要するに、たとえ話ですね。
それでも人間は馬鹿だから、神の真意を誤解する。
預言者は神の子だけれど、人間のあまりの馬鹿さ加減にイラッとしてしまう。
言葉で伝わらないのなら、「奇跡」を起こして見せつけてやれっ!・・・となる。
そして、弟子たちは預言者の言葉や奇跡を「文字」によって記録する。
それが聖書なりクルアーンなりとして残るのです。
しかし、言葉を文字にしたものだから、結局は正確に伝わらない。
預言者の言葉は年代を経るに従って、無数のフィルターを通して伝わっていく。
その結果、ますます神の意志は正確に伝わらない。
そこで、神の意思を読み解く「解説者」が現れる。
オイラは専門家だから、神の真意を教えてしんぜよう・・・となる。
雨後の筍のように専門家が現れ、勝手な解釈を撒き散らす。
中には預言者だというものも現れ、神を騙って自分の野望を叶えようとする。
多かれ少なかれ、宗教というものはこういう経過を辿るものです。
そんな宗教の中で、面白いことが起きたのが仏教です。
仏教は難しい。
宗教というより「哲学」に近い。
仏教の真髄を極めるには、荒業をしたり、断食をしたり、座禅を組んで各個が悟りを開かなければならない。
凡人には到底手の及ぶ宗教ではないのです。
そこで、聖職者である僧侶を拝むことになるのです。
僧侶は世俗を離れ修行する者です。
自分が修行できないので、僧侶を拝むことによって救いを求めるのです。
考えてみればおかしなことなのです。
・・・・・・・
はじめに言葉ありき。
でも、言葉は不完全なのです。