1.  河井継之助「八十里こしぬけ武士の越す峠」

 

 司馬遼太郎「峠」の主人公、河井継之助は越後長岡藩の家老で戊辰戦争のとき東軍にも西軍にも属さず中立を保ち、和平交渉を進めようと・・・

 

 1868年正月、鳥羽伏見の戦いで始まった戊辰戦争は、関東、東北、越後に拡大し、東軍は苦しい戦いを余儀なくされました。河井継之助は、事を平和に解決しようと東奔西走し、西軍の岩村精一郎と談判したのですが決裂。その結果長岡藩は東軍相手に参戦に踏み切り、河井継之助はその総督として善戦したのですが、7月25日の戦いで負傷(銃弾が膝下を貫通)してしまいました。
 継之助は会津で再起をはかるため、千数百名と共に八十里越を会津に向かいました。山越えは困難を極め「八十里こしぬけ武士の越す峠」と自らを自嘲するような歌をよんだと言われています。その後、山中に一泊したのち8月5日只見の目明し清吉宅に着き、傷の手当てを受け7日間滞在しました。
8月12日幕府医師、松本良順のすすめで会津若松に向けて出発、途中塩沢、矢沢宗 益宅に投宿したのですが、傷口の化膿がひどくその夜(8月16日)亡くなりました。

 

 吉田松陰とともに気になる河井継之助とはどんな人物なのか?昔から越後と会津を結ぶ「八十里越」が、現在も点線国道のままなのはなぜなのか?そんな疑問を解明すべく昨年の「越後編」に続き、「会津編」の準備に取り掛かりました。

 

 

2. 入叶津から国道289号へ

 

 前回は新潟県側の鞍掛峠で折り返したので、今回は会津側から行ける所まで行こうと思い、国道289号を新潟県に向かって進みました。河井継之助が傷を負いながら通ったといわれる古道は、すでに廃道となっており、明治28年に開いたといわれる新道を目指しました。

 

 

 除雪が終わって開通したばかりの国道252号(六十里越)から、国道289号に入りましたが、いきなりすごい土木構造物が現れました。これは叶津スノーシェッドで、なだれ防止用ということですが、山と離れたところにあるので何かすごく違和感があります。

 

 

3. 古道を少し

 

 河井継之助が命からがら通ったといわれる古道を山神杉まで歩きました。この道は浅草岳頂上に向かう登山道になっており、周辺にはスミレが咲き乱れていました。その後、叶津川の眺めを楽しんでから新道に戻りました。山神杉から先の沼の平以降の「八十里越」の古道は完全に廃道になっているらしく、冬~春の積雪期でないと通行は困難なようです。来年以降のお楽しみにしておきましょう・・・

 

 

 

4. 点線国道289号の今

 

 国道289号の工事はゆっくりと進んでおり、国道291号清水峠と違って実線国道になりそうです。開通すれば現在、冬期に通行止となる252号にかわり新潟県と福島県を結ぶ重要な道路のひとつとなるということです。関越道や冬期通行可能な三国峠が近くにある清水峠とは少し事情が異なります。

 

【国土交通省の国道289号八十里越再評価資料】を抜粋してみました。

この地区の課題

 八十里越の歴史は古く、明治後期までは会津地方と越後の交流を支える重要な街道として利用さ
れていたが、鉄道の開通や車社会へ時代が移り変わる中で、急峻な地形を極め日本有数の豪雪地
帯でもある八十里越は、現在も19.6kmに及ぶ通行不能区間のままとなっている。
①只見地域と最も隣接する主要都市である三条市との新たなネットワークの構築により、経済活動
の活性化のみならず孤立危険性の解消など、地域住民の日常生活の安心確保が急務である。
②現道の通行不能区間だけでなく、並行路線である国道252号の冬期通行止区間の存在により、
三条市方面へは大幅な迂回を強いられている。
③只見地域には高度医療施設が立地しておらず、緊急時は遠方の救命救急センター(会津中央病
院、長岡赤十字病院)への搬送が必要であるが、最短ルートの国道252号には2箇所の事前通行
規制区間、また、冬期通行不能区間が存在し、搬送は天候や季節に大きく左右される。

 

事業の目的
 通行不能区間の解消及び 安全・安心な暮らしの支援などを目的とし、一般国道289号の新潟県三条市大字塩野渕~福島県南会津郡只見町大字叶津間において権限代行により改築事業を行うものであり、現在、全線供用に向けて事業推進中である。

 

 工事用ゲートを抜けて、工事中の289号を八十里越の新道に向けて歩きます。このゲートから先は工事関係者及び地元住民のみが通行可能となっています。

 

 

 立派な土木構造物が出来上がっています。

 

 

 この直線気持ちよさそうですが・・・歩くにはちょっとつらい。次は自転車を持ってこよう~。

 

 

これはスノーシェッド?なんでしょう・・・

 

 

 延々と工事用道路を歩くと、ようやく「八十里越旧街道」の石碑があらわれました。しかし、これが新道の入口かと思うのですが、地図を見るとまだ先のようです。

 

 

 5.八十里越 新道

 

 石碑からしばらく歩くとようやく、新道の入口があらわれました。ここからはダブルトラックなみの広さの道が続きます。ブナの森を楽しみながら木の根峠を目指します。但し、今日は時間がなく適当なところでUターンすることにしました。ここは、公式では土砂崩れのため通行止となっているようです。次回は計画と装備を充実させて木の根峠を越えて鞍掛峠まで足を運びたいと思っています。

 

 

 ブナと残雪、本当に癒されます。天気は雨ですが、ブナ林はやっぱり雨がいいですね。

 

 

 今回は土砂崩れで道が寸断されているところで折り返しました。時間的に木の根峠までたどり着けないので、早めに切り上げて河井継之助記念館に行くことにしました。

 

 

6. 河井継之助記念館(只見町)

 

 山を降りてから、只見町の河井継之助記念館を訪ねました。2回ほどリニューアルされており、長岡の

河井継之助記念館より展示がわかりやすくいい印象を受けました。会津の人にこれほど尊敬されている人物とはどれほどの人なのか?ますます興味が湧いてきました。

 

 河井継之助は、越後長岡藩に生まれ、幼少の頃より聡明にして豪胆神童と云われたようです。司馬遼太郎の「峠」で表現される継之助は、師の言うことを聞かず一見ハチャメチャで、自分の思うがままの信念を貫くことが災いして「変わり者」扱いされていたようですが、記念館では「文武に秀で、陽明学を修め水練、馬術、槍術に長じ特に砲術の研究を深めた」と表現されています。
 27歳の時江戸に行き、斎藤拙堂、古賀茶溪に師事すると共に福地源一郎らとの交流を深め、佐久間象山の門をたたくなど勉学に励んだのですが、山田方谷の教えの影響が大きかったと思われ、その後横浜、長崎等に遊学して広く世界の動きを見聞し、独自の考え(今後の藩はこうあるべきだ、そして日本はこうあるべきだ)を醸成していったと思われます。
 1862年8月、藩主牧野忠恭が京都所司代および幕府老中となったときには、内外の情勢を説いて献言したが入れられませんでした。1865年39歳の時、郡奉行となりその非凡な才能は多くの人の注目を集め、御番頭、町奉行、御年寄役を歴任し、その後は家老上席となり政務を担当することになりました。
継之助は、この間大いに藩政を改革し、藩財政を確立すると共に兵制を改革するなど、長岡藩をして奥羽の雄藩としての基礎をつくりあげたということです。

 

 私は、司馬遼太郎「峠」での山田方谷との出会いが印象に残っています。