令和4年(2022年)5月22日

歩いた時間  6時間     歩数 33,032歩

 

中津川駅を6:03に出て塩尻駅に7:53に着きました。

「平出遺跡」信号交差点まで戻りスタートします。

 

「平出遺跡」信号交差点       昭和電工のコンクリート塀の横を進みます。

 

 

JR線のガード下を通り5分程歩いた床に  耳塚神社

この耳塚は天文17(1548)年5月、武田信玄と小笠原長時との桔梗ヶ原合戦の時、討ち死にした将兵の耳を葬った所といわれている。

説明板によれば 「耳塚  伝説
耳塚様と呼ばれ昔は耳の病気の直ることを祈った。

桔梗ヶ原の戦いとか安曇族王に関係ありとも言われる。
明治29年先祖が野ざらしになっていた塚に祠を建て2本の剣を御神体として祀った。耳の形に似た素焼きの皿やおわんに穴を開けて奉納すると耳の聞こえが良くなると評判になり伊那地方からなど多方面から話を聞きつけて参拝した。祠は2度立て替えられ現存する祠は昭和53年建立」

どれもほぼ同じ形、大きさで、底に穴をあけて糸を通して、重ねて吊るしてあります

 

すぐ隣に大門神社があります。

大門神社

塩尻宿の京側の境に位置し、境内からは銅鐸が出土しており、10世紀頃の創建と推定されています。

大門神社由緒によれば

大門は塩尻宿の入口に位置し、北国道並びに三州・遠州筋への脇道があり、交通の要衝として栄え、農耕文化の地、更に銅鐸文化の地として栄えた。若宮八幡社は上野山の麓にある姥池の畔に水分の神として祀られたもので、今でも湧出する清水は御神水として、若宮八幡社の御神徳と共に深く尊崇されている。また柴宮八幡社は正平10年桔梗ヶ原に於いて南北朝の戦いの際、南朝の指揮所としての由緒ある地に両社共に建立された。柴宮は交通の要衝の地にあったので旅行者の参拝多く、両社とも明治5年村社の社格に列し、幣帛供進神社に指定され、拓け進み行く大門区の産土神として崇敬された。
 昭和27年両社合併の議起り氏子総会に於いて柴宮の地に若宮を奉遷して大門神社とすることと決し、昭和29年4月19日神社本庁の承認を受け、同年7月10日長野県知事より宗教法人大門神社として合併を認承されたのである。昭和50年9月拝殿及び幣殿、社務所を新築し、また若宮八幡社の跡地に天満宮を奉祀し神山天満宮と称え、大門神社の摂社と、また境内には水天宮(安徳天皇)、大峰神社(大山祇尊)、胸肩神社(田心姫命)、蛭子神社(蛭子神)、蚕玉神社(保食大神)が祀られている。

 

 

大門神社拝殿                      拝殿の扁額

 

 

境内社(水天宮、大峰神社、蛭子神社、蚕玉神社)   柴宮銅鐸出土の地碑

 

説明板によれば
「 御神徳を具現化された大欅

此の欅は樹齢三百年と推定されます。
大門神社の御祭神、御神徳は家庭圓満子孫の繁栄 子女の素直な成長
三本の御神木は父母子親子三代を表し又此の直木は子供の健やかなる成長を表わしています  大門神社 」

 

中山道に戻ります。

 

「下大門」信号交差点を右折します。   田川に架かる塩尻橋を渡り直ぐ右折します。

 

 

すぐ左に入ります。                       住宅の間を通り「大小屋」信号手前に出ます。

 

「大小屋」信号を左折します。

「大小屋」信号交差点にある石碑群

蠶玉大神、秋葉大神、庚申塔、道祖神、南無妙法蓮華経題目の石碑が5基建っています。

200m程先に

国重要文化財 堀内家住宅

旧堀の内村の庄屋を務めていました。
建物は、築200年の本棟造り、門は重厚な冠木門です。

※本棟造(ほんむねづくり)は、長野県の中信地方から南信地方にかけて分布する民家の形式です。切妻造り妻入り(屋根の三角形の面が正面を向いている)、ゆるい勾配の屋根(屋根裏空間を広く確保することができる)、雀おどしと呼ばれる棟飾り、正方形の間取りなどが特徴です。明治時代以降、屋根裏部屋を養蚕(養蚕業)のために広く使うように変化していきました。

 

5分程進んだ先に

阿礼神社(あれいじんじゃ)

祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、大己貴命 (おおなむちのみこと)、誉田別天皇 (ほむたわけのすめらみこと:第15代応神天皇)です。

延喜式の中にその名をつらねる格式高い宮です。

京都より東征の旅についた征夷大将軍坂上田村麻呂は安曇平の豪族征伐のため、五百渡の峰の阿禮の神に詣で、祈願成就の上、柿沢の北、明神平の湯立ちヶ原に遷座して奥の院を建主したと伝えられています。

江戸時代初頭の中山道塩尻宿の設置に伴い、前宮のみこの地に遷移したとされています。

 

100m程先で国道153号線に合流し、さらに100m程先の右側に

塩尻陣屋跡

現在は笑亀酒造株式会社となっています。大きな杉玉の下がっています。

明治16(西暦1883)年、陣屋跡にて酒造業『嘉根満本家(かねまんほんけ)』を創業、銘酒「笑亀正宗」の醸造をはじめました。酒名を「笑亀」と改めながら、塩尻伝統の酒の味を守り続けています。

 

隣に

塩尻宿脇本陣跡

川上家の第一分家 本陣に準ずる規模でした。

本陣の西側にあったが、本陣と同じく明治15年に建物が焼失しました。

 

塩尻宿本陣跡  説明板によれば

川上家は慶長19年(1614)宿場開設時に、中条村から移り、江戸中期には高 90石余の豪農となり、酒造業や醤油醸造販売もおこなっていた。

川上家は、本陣を明和8年(1771)から99年間、明治に至るまでつとめた。

間口24間(43m)、建坪も中山道で最大であった。信仰心も厚く徳本上人を招いた記録や皇女和宮御下向の折、御座所が昼食の席になった記録もある。しかし、明治 15年(1882)中町の大火で、本陣は全焼する。再建するも安曇野から来た友人

丸山氏に、酒造業の一切を譲っている。 

塩尻宿開宿当時の本陣は、旧塩尻宿(古町)の小口家が中町に移り、問屋と兼務した。その後寛永10年(1633)番所役人兼務で吉江家に、その後を平林家、そして川上家に譲っている。享保11年(1726)以降は吉江・平林両家が上・下問屋をつとめた。

古文書に「本陣は、平林家より明和8年(1771)に川上久左衛門に譲る」とある。西隣の脇本陣は、その頃より本陣久左衛門の第一分家川上喜十郎がつとめた。

              令和2年10月吉日  塩尻中学校郷土の歴史班

 

本陣跡の斜め前(信号手前)に

高札場跡、下問屋跡

下問屋は月の下15日問屋役を務めました。

 

その斜め前に明治天皇鹽尻行在所碑と上問屋跡の石柱があります。

明治天皇鹽尻行在所(しおじりあんさいしょ)

天皇の行幸のとき、ここに仮宮がありました。

 

上問屋跡

月の上15日問屋役を務めました。

 

飛脚問屋跡

月に三度江戸への飛脚 屋号「さんどや」現小野鷹明氏宅です。

 

小野家住宅 屋号「いてうや」国重要文化財

旅籠屋を経営し、同時に農地経営を大規模に行いました。
旅籠として使われた主屋は、中山道に北面する短冊形の敷地に街道に面して建てられ、主屋の東側に庭園、その背後に文庫・味噌蔵を構え、さらに畑地をはさんだ奥に長屋門があります。
文政9年(1826年)に文庫が建設され、文政11年(1828年)の火災後に同12年から天保7年(1836年)にかけて主屋他が建設されました。
創建時の建物は、現存の主屋表屋・角屋に加え、その背後に屋敷棟を持つより大規模なものでした。
主屋2階の客室として使われた5室には絵画・装飾が施され、「桜の間」など、各室にそれにちなんだ室名がつけられています。

主屋の東側に取り込まれて作られた表門は、1階2階それぞれに便所が設けられ、旅籠としての機能と格式を持っています。

一般公開はされていません。

 

300m程先の左側に

十王堂跡 南無阿弥陀仏名号碑、庚申塔、男女双体道祖神などがあります。

十王とは、閻魔(えんま)大王をはじめとする、冥土で死者の裁きをする十人の王の総称で、十王信仰では、死者の罪の重さは、遺族などが死者に代わって善行を積み、供養することで軽減されるとされています。

この男女双体道祖神上町の双体道祖神と呼ばれ、男女二神が抱擁している姿が特徴的な石仏です。通常は向かって男が右、女が左ですが、配置が逆になっていて女が杯を持っています。

50m程先の日照り側に「塩尻口留番所跡」の石柱がありましたが気付かず通過しましたショボーン  米・塩・材木・女人等の取締りを行っていました。

 

右側「仲町」信号の柱の後ろに

道祖神

道の辻、三叉路、村境、峠などの路傍にあって外来の疫病や悪霊を防ぐ神です。

のちには縁結びの神 子孫繁栄の神、旅行安全の神、子どもと親しい神とされています。

 

柿沢一里塚跡 江戸まで58里目の一里塚です

仲町」信号交差点(国道153号線)にあります。

説明板によれば

中山道の一里塚は、江戸日本橋から京都までの間、およそ1里(36町 3927m)ごとに、街道の両脇に土を盛り上げ榎や松を植え、旅人の里程標にしたという。

江戸から58里の柿沢一里塚は、「天保絵図」に「この塚より塩尻村まで1町1間(約111m)」とあり、「中山道分間延絵図」にも道の両脇に記されている。しかし、明治以降の道路開発により、この塚の手がかりとなるものは、何も残されていない。

この場所は、塩尻4宿開宿400年にあわせ、江戸から57里の東山一里塚と59里の平出一里塚から、市民有志150名で向かい合いに歩いて出会った場所と、絵地図、文献や古老の話を総合的に考察し「ほぼこのあたり」として特定した。

ここに、柿沢一里塚碑を建立し後世に伝える物である。

平成26年11月 説明文作成者 塩尻中学校   街道交流事業実行委員会

長野県地域発元気づくり支援金活用事業

 

中山道を外れ、この交差点を斜め左に進みます。150m程先に

永福寺

高野山真言宗の寺院です

本尊は天平9年(737年)行基の作と伝わる駒形馬頭観音。大永元年(1521年)に源義仲の子孫と称する木曽義方が義仲の菩提を弔うため創建し、祖父の木曽源太郎豊方を開基とし、法名から長福寺とした。

元和元年(1615年)の中山道塩尻宿開設に伴って長畝村から宿場の東端に移設され、元禄15年(1702年)に現在地に移り、本堂、鐘楼、山門、仁王門、観音堂などが新築された。九代将軍徳川家重の幼名長福丸であったことから、享保2年(1717年)に永福寺と改称した。

正徳4年(1714年)に全焼したが、再建。現在の観音堂は春日造りで、諏訪立川流3代目の立川和四郎富重によって万延元年(1860年)に改築された。昭和53年(1978年)に本堂と庫裡が新築されました。

 

永福寺の観音堂

塩尻市の有形文化財です。近世の名工として名高い諏訪の大工棟梁「立川流和四郎」2代目和四郎富昌の作です。安政2年(1855)より建て始められましたが、富昌は翌安政3年11月、彫刻用材として境内の大ケヤキを切り倒す際にその枝に当たり、不慮の死を遂げました。その後、工事は3代目和四郎富重が受け継ぎ、4年後の万延元年(1860)に完成しました。

 

永福寺の仁王門

塩尻市の有形文化財です。現在の仁王門は、明治26年(1893)より着工、明治27年(1894)に上棟されたものです。

 

永福寺を出てそのまま進み岩鼻橋を渡ります。下柿沢信号の手前で中山道に合流します。150m程進むと左に

本棟造(ほんむねづくり)の民家

長野県の中信地方から南信地方にかけて分布する民家の形式です。切妻造り妻入り、ゆるい勾配の屋根、雀おどしと呼ばれる棟飾り、正方形の間取りなどが特徴です。

 

すぐ先の右側に本棟造りの民家があります。

本棟造りの民家の生垣の間に高札場跡があります。道の両側に本棟造り家が見える範囲で6軒ほどあります。なまこ壁の庫も何軒か見ました。

どんな人が住んでいるんだ!

 

本棟造りの家

 

ゆるやかな上り坂が続きます。この坂を永井坂と呼ぶそうです。

 

高札場跡から200m程進んだ所に四辻があります。左側に

柿沢の男女双体道祖神

案内板には

「柿沢の双体道祖神  年代不明

 おぼろな造形は、かなり古い型 一度他地区よりご縁想されたが、とりかえしたと伝えられる。」

 

ご縁想とは、江戸時代において、道祖神の御縁想や嫁入りとも言われ、「道祖神盗み」が、村の若者によって行われていました。

繁栄している村の道祖神を盗むことによって、その繁栄にあやかるために行われていたそうです。

 

四辻を右に100m程進み左折し畑の中のみちへ

のどかな景色に見入っていると突然飛行機の轟音。松本空港に着陸するため高度を下げて飛んで行きました。

首塚胴塚

天文17年(1548年)武田信玄と長野の小笠原長時が戦った、塩尻合戦の戦死者を葬ったところです。碑は小笠原長時の子孫、海軍中将小笠原長生の書です。

首塚・胴塚の由来碑によれば

今を遡る事、434年前、歴史上戦国時代と言われる天文17年(1548)7月19日甲斐の武田信玄軍と松本林城主小笠原長時軍とが永井坂において交戦し数時間に及ぶ激戦の末、戦いは小笠原軍の敗れる所となり多くの戦死者を残して退却をした。
 武田軍は家臣の戦功を賞する為、首実検を行った後、戦死者の遺体を放置したまま引き上げて行ったので、柿沢の村人はこれを哀れに思い、ここに埋葬したのがこれら首塚胴塚である。
 その後、戦国時代も終わり、世は豊臣・徳川の時代となり平和が続くにつれて何時しかこれらの塚の存在も忘れられて長い間訪ね弔う人もなく、塚は夏草の生い茂るに任せる惨めな状態にあった。
 昭和10年(1935)に至り柿沢の熊谷善蔵氏はこの有様に大いに無情を感じられて多くの有志者と共に寄附金を集め小笠原氏支流の末裔である小笠原長生子爵の揮毫を得て首塚・胴塚の碑を建立し哀れな戦死者の追善供養を行い冥福を祈ったのであります。
 御来訪の方々におかれましても、この悲惨な戦死者にご同情下され、一掬の涙と共にその亡き御霊のご冥福をお祈り下さい。
 (柿沢ふるさとづくり推進委員会)

 

中山道戻ります。

長い坂道500m程進み長野自動車道の上に架かる橋を渡りさらに1km程先の林の中に

 


新茶屋立場跡の説明板があります。 

「中山道分間延絵図」に載る新茶屋立場の場所である。

太田南畝は壬戌紀行で、「大木なし。人家あり。立場なり。是より塩尻峠へ24町のぼるといえど、つまさき上がりというものにて、さのみけはしからす。左にいの字山というあり。げにもいの字の形したり。

芝山なり。一里塚をこえて小流あり。板橋をわたりて立場あり。左の山に浅間の社の鳥居建て里)と綴っている。 塩尻中学校郷土の歴史班」

 

そのすぐ先の左側斜面に

牛馬守護神

牛馬安全の守護神として祀られています。

さらに林の中を進みます。

タラの木が群生しています。

 

国道20号に合流します。直ぐに左の中山道に入ります。

 

犬飼の清水跡

江戸時代お公家様の愛犬がこの清水で元気を取り戻したそうです。

今は枯れています。

 

少し進むと右側に国道20号線に架かる大きな歩道橋があり左に登る道があります。

中山道の←案内に従い進みます。

200m程進むとY字路になります。右に進みます。

Y字路から150m程進むと

左から半僧坊大権現馬頭観音、馬頭観音

 

500m程先に

道路案内板

すぐ先に

東山一里塚

説明板によれば

東山一里塚は、東山地籍(犬飼清水と茶屋本陣の中間)にあり、古図には道を挟んで2基描かれているが、南側のみが現存している。
 この塚の大きさは、幅12m、奥行13m、高さ3mの塚である。
 慶長19年(1614)に、中山道は牛首峠経由(桜沢口~牛首峠~小野~三沢峠~諏訪)から塩尻峠経由(本山~洗馬~塩尻~下諏訪)に変更され、この一里塚もその頃につくられたものと推定される。
 市内には、東山・柿沢・平出・牧野・日出塩・若神子・押込・橋戸・鳥居峠の9か所に築かれたが、現在は、ここ東山と平出・若神子の一里塚が形を残しているだけである。 (塩尻市教育委員会)

 

500m程先に雀踊りの棟飾りをつけた建物があります。

茶屋本陣(上条家) 説明板に「大名、旅人の小休所。お公卿様も休憩された。非公開」となっています。

御膳水碑の向かい側にあります。

「明治天皇塩尻嶺御膳水」碑

すぐ後ろには今も井戸が残されています。

右隣に句碑があります。

山口青邨の句碑

「野沢菜の 紫ならんとして 冬に」

 

さらに200m上り塩尻峠の頂上に着きました。

 

 

 

塩嶺御野立公園 展望台

ここが塩尻峠の頂上(標高1055m)です。明治天皇御野立所碑,明治天皇行幸記念碑があります。

 

句碑 「大帝の 龍駕の峠 さくらうう」

明治天皇が甲州東山道巡幸の際に塩尻峠を通られたことを記念して詠まれたもの。

頂上は4差路になっています。後で知ったのですが、この画像の奥に進むと、諏訪湖、八ヶ岳、富士山、北アルプス(日本三高峰)の絶景が広がる、「関東の富士見百景」を眺められる展望台があります。ショボーン  もう疲れてしまって・・・えーん

公園を左に見ながら直進します(画像では右の道です)

舗装道路ですが驚くほど急な坂道です。

 

下り坂で元気を取り戻しました。

ここにもミツバチの巣箱があります。

 

大石

この巨石は昔から『大石』と呼ばれている。「木曽路名所図会」にも、「大石、塩尻峠東坂東側にあり。高さ二丈(約6m)ばかり、横幅二間余(約3.6m)」と記されている。
伝承によれば、昔この大石にはよく盗人が隠れていて、旅人を襲ったと言われている。ある時のこと、この大石の近くで旅人が追いはぎに殺され、大石のたもとに埋めれれた。
雨の降る夜に下の村から峠を見ると、大石の所で青い火がチロチロと燃えていたという。また、この辺りは昔よくムジナ(タヌキやハクビシンなど)が出て、夜歩きの旅人を驚かし、そのすきに旅人の持っている提灯のローソクを奪ってたという(ムジナはローソクの油が大好物という)。

巨石と聞いていたが意外と小さいので残念でした。

この急な坂道に転げ落ちずにある事の方が驚きです。

※「ムジナ」とは、主にアナグマのことですが、タヌキの異称として使われる地域もあります。アナグマが掘った同じ穴をタヌキが利用することから、一見関係ないように見えても実は同類である、特に「悪巧みをはたらく同類」を意味することわざ「同じ穴のムジナ」の由来にもなっています。

 

諏訪湖が見える!!

 

石船観音

本尊馬頭観音が、船の形をした台石の上に祀られているところから石船観音と呼ばれ、とくに足腰の弱い人に対して霊験あらたかであるといわれています。
境内を鳴沢清水といって、豊富な清らかな水が流れていて、参拝者の喉をうるおしています。

石垣の上に石船観世音菩薩碑

 

 

石船観音を過ぎ道を下り左折します。

山の中から一気に現代の街中に飛び出した感じです。江戸時代からタイムスリップ。

4差路を直進します。 右に「マルイチ山田機工」さんがあります。

 

ガードレールのところで左に進みます。    

岡谷ICの上の橋を通ります。

 

石船観音からは殆ど案内表示が無いので要注意。

後は道なりに進みます。

 

中山道の道標

「右しもすは 中山道 左しほじり峠」と彫られています。

自分の歩いている道が間違いなく「中山道」と分かり安心しました。

 

茶屋本陣跡(今井家)

江戸時代、中山道塩尻峠の東の登り口にあった旧今井村は交通の要衝であり、ここに幕府の要人や参勤交代の大名などが休憩するための「御小休本陣(おこやすみほんじん)」が設けられました。

尾張徳川家をはじめとする西国諸大名が利用したほか、文久元年(1861年)には皇女和宮が徳川将軍家へ降嫁する際に、明治13年(1880年)には明治天皇が巡幸の際に御小休になられた場所です。

江戸時代の姿をほぼ継承している点が貴重であるとして、主屋、表門、中門、水車小屋などを含む複数の建物が、平成11年(1999年)に国の登録有形文化財に指定されています。 

 

すぐ先の右側に

今井番所跡

徳川幕府は江戸防衛の為、街道の要衝に多くの関所を設置して、特に入鉄砲・出女・咎人等の検察に当たりました。今井番所は、食料となる米などの穀物の藩外への輸送を規制し、塩などの搬入を監視するために高島藩が設置した施設です(穀留番所)。また、通行手形や人別帳の確認も行われていました。

今井の集落は、中山道の「間の宿」として発展しました。間の宿とは、幕府が指定した宿場ではないものの、宿場と宿場の間で自然発生的に発展した集落のことで、物流や人々の休憩場所として重要な役割を担っていました。現在の今井番所跡に残る建物は、1864年(江戸時代末期)に再建されたもので、当時の面影を残す貴重な建物です。

ここから中山道を道なりに進みます。道路案内が大変分かりにくいので要注意です。

 

 

横河川の橋を渡り 700m程進んだ高圧線鉄塔のある駐車場入り口に一里塚跡があります。      

  左に「東堀の一里塚跡」 江戸まで56里の一里塚です。

 

すぐ先の「出早口」信号交差点で国道20号を横断しうどん屋じん兵衛の前を通り→「長地中町」信号交差点を直進し→二股に分かれる道を右に入ります。

 

セメント工場の中まで進み細い橋を渡り右に曲がり住宅街へ

 

 

住宅街を抜けローソン下諏訪店の前に出ます。

横断し、ローソン左隣の住宅の左側の細道を通ります。

 

 

細道を抜けた所で中山道が消えていますので、左に曲がり国道20号に出ます。「富士見橋」信号交差点を右折し直ぐ川沿いに右折します。

 

道が二又に分かれるので左に入ります。500m程先に

右側に魁塚(さきがけづか)の看板が見えます。

 

 

魁塚(さきがけづか)           

魁塚石塔群

説明板によれば

史跡 魁塚(相良塚)  薩摩藩の西郷隆盛の指示で武力倒幕のため兵を集め下準備をして、維新政府軍の先駆けとし活躍した人物に相良総三と同志がいます。新政府になれば年貢が半減になるという旗印を掲げ、中山道を東へと兵を進めましたがその途

中に新政府軍から偽官軍の汚名を着せられてこの地で処刑されました。1868年(慶応4)3月3日の事でした。

魁塚には相良総三と7人の赤報隊幹部、道中で命を落とした隊員4人、相良と親交のあった諏訪高島藩士の石城東山(一作)をまつっています。新政府に裏切られ汚名を着せられ、処刑された相良と同志の最後はいたましいものがあります

その後、名誉回復がされましたが、その半世紀も前にかつての相良の同志と地元の人達は魁塚を建立し、それ以来、毎年命日に慰霊祭を開催してきております。

平成三十一年三月三日 相良会」

 

中山道に戻り20号線に合流します。

下諏訪駅前」信号交差点を右折します。

下諏訪駅に着きました。   時刻14:00

 

電車の時間まで近くを散策します。

 

新鶴本店で塩ようかんを買いました。   

 

時間があれば温泉にも入りたかったけど・・・・・今回はパス。

 

次は「中山道歩き 下諏訪宿から和田宿まで①」です。

つぎはいよいよ中山道最大の難所和田峠越えがあります。