外道 - 外道 (トリオ・レコード/ショーボート, 1974) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

外道 - 外道 (トリオ・レコード/ショーボート, 1974)
Released by トリオ・レコード/ショーボート 3A-1021, September 1, 1974
ミックス : リーゼント川崎
プロデューサー : ミッキー・カーチス
作詞・作曲・編曲 : 外道
(Side A)
A1. 香り - 4:19
A2. 逃げるな - 4:53
A3. 外道 - 2:12
A4. ロックンロールバカ? - 1:57
A5. ダンスダンスダンス - 6:26
(Side B)
B1. ビュンビュン - 2:04
B2. いつもの所で - 2:44
B3. 腐った命 - 2:38
B4. 完了 - 5:09
B5. やさしい裏切りを - 2:39
B6. スターと - 0:42
[ 外道 Gedo ]
ヒデト (加納秀人) - リードヴォーカル、ギター
マー坊 (青木正行) - ベース、ヴォーカル
良ちゃん (中野良一) - ドラムス、シンセサイザー、ヴォーカル
(Original Trio/Showboat "外道" LP Inner Lyric Sheet & Side A Label)

 このデビュー作をYou Tubeにアップした英語圏投稿者は外道を「Hard Rock/Psychedelic/Proto-Punk」のバンドとしています。日本ではハード・ロックとサイケデリック・ロック、パンク・ロックは断絶したイメージしかありませんが、英米ではデトロイト出身のMC5、ザ・ストゥージス、アンボイ・デュークスらが60年代末期にパンク・ロックの源流になるようなサウンドでサイケデリック色の強いハード・ロックを始めており、イギリスでそれに呼応したのはノッティングヒル・ゲイト一派と呼ばれるディヴィアンツ、ホークウィンドらで、ディヴィアンツからはピンク・フェアリーズ、ホークウィンドとフェアリーズからはモーターヘッドが派生しています。モーターヘッドはバイカーズ(暴走族)・バンドとしてデビュー時から絶大な支持を集めましたが、外道も70年代に東京都町田市と多摩地区の暴走族(当時の呼称ではサーキット族)を熱狂的な親衛隊につけてデビューした(ドラムスの中野良一は町田市の有力チームのヘッドでもありました)バンドで、早い話外道はモーターヘッドより早くデビューしていた日本のモーターヘッドでした。A1は観客のガヤに混じって中野が奏でるシンセサイザー(ボンゾ・ドッグ・バンドの曲「Slush」のイントロ)からバンドが入場して突然演奏が始まり、B6はバイクの排気音でバンド撤収が表現されています。町田市/多摩地区のヤンキー文化が生んだバンドとして正しくX-JAPANの先達に当たるのが外道です。

 日本ロック史の生き証人でありご意見番・近田春夫氏によると、ヴィジュアル系バンドの元祖は外道ではないか、という卓見があります。近田氏は外道結成前の加納秀人と同じバンドで活動していたこともあったそうで、外道は衣装は着物に雪駄、眉と額に剃り込み、ステージに鳥居と派手好みでしたが、それは当時流行のグラム・ロックを誤解した産物で、「でもあいつらセンス悪いから、ヤクザの若い衆が洒落たつもりで女物のシャツとサンダルで歩いているような感じ」になってしまったと指摘しています。近田氏の見解はいわゆるヴィジュアル系バンドのどこか勘違いした美意識を言い当てているように思えます。近田氏は加納秀人と外道については否定的な証言が多く、「アイツ器用な奴なんだよ。昔はファンクなんか演ってた」「プロダクションが村八分みたいなバンドが欲しくて作らせたバンド」と発言されていますが信憑性は高いでしょう。近田氏は村八分については「東京で演ったライヴはほとんど観た」うち良かったのは2、3回あるかないかでしたが、良かったライヴは本当に凄かった、と点の辛い氏にしては絶賛に近い最上級の賞賛を表明しています。村八分の絶頂期は1972年で、学園祭ライヴを中心に話題を呼びレコード・デビュー前から音楽誌を賑わせましたが、翌1973年5月5日に解散ライヴ録音の2枚組LP発売と同時に解散しました。アルバムは解散を隠してデビュー作として発売されましたが(『ライヴ村八分』1973.6.25)、日本の狭いロック界ではすでに村八分の解散は知れわたっており、すぐにリスナーにも明らかになったそうです。
(Original Trio/Showboat "JUST GEDO" LP Front Cover)
 解散コンサートのライヴ盤しか残せなかった(現在では10枚以上の発掘ライヴがありますが)伝説的な村八分に対して外道はプロ意識の高いバンドでした。村八分はライヴの告知があっても本番までバンドが来るかわからない、客とのケンカは日常茶飯、来ても2、3曲で止めてしまう、ひどい場合は演奏すらしなかったことでも悪名高いバンドでしたが、近田氏の証言の通り最高の演奏を目撃してしまうとプロ・ミュージシャンの観客すら虜にしてしまう恐ろしい魔力を備えたロックンロール・バンドだったようです。外道は村八分の解散に前後して結成されましたが、加納秀人は東京最高のディスコティークの箱バンとして名を馳せたThe M(加納加入前に唯一のアルバム『エム I』1972.2があります)の歴代ギタリスト出身であり(アルバム『エム I』時代は元ジュニア・テンプターズ~チャコ&ヘルズ・エンジェルス~ゴダイゴの浅野克己参加)、青木正行はザ・ヘルプフル・ソウルのジュニオ・ナカハラが組んだ神戸のヘヴィ・ロック・バンド、トゥー・マッチ唯一のアルバム『Too Much』(Atlantic, 1971.7.25)にも参加していました。モーターヘッドがホークウィンドとピンク・フェアリーズの脱退メンバーによるリヴェンジ・バンドだったのにも通じます。村八分は元ダイナマイツの山口冨士夫が京都のストーンズ狂の右翼ヒッピー・柴田和志と組んだバンドでしたが、バンドの成り立ちも自然発生的でビジネス意識はまったく稀薄だったため(柴田の実家が京都きっての大手右翼組織の頭目で裕福だったため、メンバーの生活が逼迫しても柴田には理解ができなかったこと、マネージャーで右翼団体の若頭だった柴田の兄がギャラをすべてピンハネしていたことが原因とも言われます)、外道がプロダクションによりプロ意識の高いメンバーを組ませたバンドだったのは、村八分の例が反面教師となっていたかもしれません。

 村八分が1971年の結成から1973年の解散まで解散コンサートの2枚組ライヴしか残せなかった、しかも契約履行のための臨時編成メンバーによるアルバムだったのに較べ、外道はミッキー・カーチスにスカウトされてからライヴ収録の10日後のスピード発売でこのデビュー作を発表しています。ジャケットはサンプル盤梱包用ダンボールに「外道」のスタンプを押しただけ。さらに当時新作LP価格2,500円が標準なのを「外道ファンのための特別価格¥2,000」とゴム印が捺されてリリースされました。片面しか印刷されていない歌詞カードには曲目、スタッフとバンドのクレジットと、A3「外道」の歌詞しか載っていません。ちなみにバンド・テーマというべきこの曲は村八分のアルバムのオープニング曲「あっ!」とリフもリズム・パターンもヴォーカル・パートの符割りもまったく同じですが(他の曲も大なり小なり村八分の作風をパクった痕跡があります)、村八分には狂気や禍々しさ、陶酔感や頽廃性、自虐的攻撃性が感じられるのに、外道は似たようなサウンドにもかかわらず全体的にはすっとぼけたユーモアを強く感じられます。「ロックンロールバカ?」は明らかにキャロルやファニー・カンパニー、外道をめぐってミッキー・カーチスとスカウト戦をくり広げた内田裕也氏へのおちょくり曲ですし、「ビュンビュン」はザ・スパイダース(かまやつひろし)の「バン・バン・バン」のもじりで、アルバム途中では観客に「三三七拍子!」と号令をかけていますが、これもスパイダースのステージでは恒例の盛り上げ方として有名なかけ声で知られていました。外道のメンバー3人はいずれも10代でグループ・サウンズのボーヤ(ローディー)から音楽業界入りしており、生粋のヒッピー・バンドだった村八分よりエンタテインナー指向が強かったのが音楽性にもパフォーマンスにも表れています。

 外道は町田ヤンキーとスパイダースの混じったユーモア感覚があればこそ1976年10月の解散(実際は1975年秋にレコード契約終了、解散までの1年間はレコード契約なし)まで短期間に4枚ものアルバムをリリースすることができたとも言えそうです。また解散後に1981年の一時的再結成を経て、2003年に復活キャンペーンとともにベスト盤と発掘ライヴ盤のリリース・ラッシュに平行して再活動する以前にリリースされた5は、4の後でレコード契約を失った1976年の外道の解散ライヴと1974年~1975年のライヴのベスト・テイクを集めた2枚組CDで、ライヴ収録から15年を経て発売されながらもベスト選曲&アルバム1枚分もの外道後期の未発表新曲をライヴ・ヴァージョンで聴ける、オリジナル・アルバムに数えていいものです。1976年の新曲はテクニカルなジャズ・ロック~ファンク的な新境地が見られます。また1974年8月に内田裕也の主催で郡山市で開催された「郡山ワンステップ・フェスティバル」での8月8日のライヴ6は、2013年の4枚組オムニバス盤に3曲抜粋、2017年に完全版(21枚組・38アーティスト収録)で発売されたボックス・セット『ワンステップ・フェスティバル』から外道のライヴを単体発売したものですが、フェスティバル全般を担当した加藤和彦のPA会社ギンガムがサウンドボード録音で記録していた同作は音質・分離・ミックスとも本作を上回る最高音質の上に、全10曲中8曲が本作と重複しており、本作から10日ほど前という直前の収録のために、本作『外道』の別ヴァージョンとも言えれば、ライヴのセットリストも『郡山ワンステップ・フェスティバル』の方が本作の収録された横浜野外音楽堂ロック・フェスティバルでの曲順に忠実と言われます。ミッキー・カーチスの手に渡る前に本作の原盤となった横浜野外音楽堂ロック・フェスティバル関係者による録音の未加工完全版テープが当時のファンの間では出回っており、郡山ワンステップ・フェスティバルでのセットリスト同様オープニング曲は「逃げるな」から「外道」「いつもの所で」「ダンスダンスダンス」「ロックンロールバカ?」と続き、終盤は「ビュンビュン」「香り」「完了」で締めるのが横浜野外音楽堂ロック・フェスティバルでも実際の曲順だったようです。録音から10日のスピード発売(会場・日時の記載なし)は郡山ワンステップ・フェスティバルで呼んだ話題が生々しいうちにというレコード会社(またミッキー・カーチス)の意図もあったようですが、わずか10日ほどで曲順もレコード用に練られたアルバムに仕上げられたということです。それにしても内田裕也主催のロック・フェスティバルで堂々と内田様を愚弄する「ロックンロールバカ?」を演っているのは(このフェスティバルで、タイガース時代に内田裕也に見出された沢田研二は内田裕也讃歌のオリジナル曲「湯屋さん」を披露しています)、数百人の親衛隊暴走族を従えて郡山市に乗りこんだとはいえ、実に外道らしいと思わせられます。
◎外道 - 香り (TV Broadcast from 郡山ワンステップ・フェスティバル, 1974) :  

[ 外道'70年代アルバム・ディスコグラフィー]
1. 外道 (1974年9月1日/ショーボート)
2. 外道ライブ・イン・サウンド・オブ・ハワイ・スタジオ (1975年4月1日/ショーボート)
3. JUST GEDO (1975年6月1日/ショーボート)
4. 拾得LIVE (1975年11月1日/ショーボート)
5. 外道LIVE~未発表・解散コンサート1976・10・16 (1991年4月21日, 2CD/メルダック)
6. 郡山ワンステップ・フェスティバル (2019年3月6日/SUPER FUJI DISC)

 このうちオリジナル・アルバムの1と4は純然たるライヴ、2も観客を入れたハワイのロック・フェスティバル出演後のパーティでのスタジオ・ライヴですし、後から発表された5、6もライヴですから、純粋なスタジオ・アルバムは『JUST GEDO』のみになります。本作とは1曲も重複のないスタジオ・ライヴの2、ライヴハウス録音の4もデビュー作に負けず劣らず面白いライヴ盤ですが、『外道ライブ・イン・サウンド・オブ・ハワイ・スタジオ』と『JUST GEDO』を聴くと外道はリアル・ライヴでないと本領を発揮できなかったバンドのようです。また『拾得LIVE』では「ヒデトの円盤が遅いじゃないか?」(UFOで会場に向かっているらしい)、「それでは皆さま、頭の天辺を開いて!ボボボボボボ……(と観客に唱和させる)」(以上中野のMC)、「外道に向かって礼!」「声が小さい!」(喝はベースの青木担当)と実にユーモアに富んだMCも外道のライヴの魅力だったのがわかります。外道の観客はバイカーを主にファンばかりだったのもありますが、やはりライヴ盤ばかりの村八分のチャー坊のMCが(客に向かって)「ウルセー!」「観客のォー、レベルが低い!」「何か言いたいならここ来れば?」「言いたいことあんならバンドやれバンド!」と露骨に挑発的だったのと好対照をなしています。また日本の'60年代~'70年代ロックは'90年代以降欧米諸国で非英語圏ロックとして再評価が進み、この『外道』もイギリス盤が発売されましたが、『ジャップロック・サンプラー』2007の著者ジュリアン・コープが「(先入観から)村八分に期待していたサウンドは、外道にあった」と記しているように、欧米諸国では村八分より外道の方が高い評価を受けているようです。また オリジナル外道最後のライヴ『解散コンサート1976・10・16』は日比谷野外音楽堂での「ロッキード・ヘヴィ・コンサート」出演で、当時はライヴハウス以上の単独バンドのコンサートは集客困難だったため、リゾート(加部正義・山口冨士夫グループ)、外道、裸のラリーズ、前年1月のデビュー作が当時驚異的な10万枚のセールスを記録するもしばらくメンバーの麻薬所持のため謹慎し、'76年7月にセカンド・アルバムを出したばかりのカルメン・マキ&OZという順の4バンドでしたが、レコード発売がなく最初の出演だったリゾートはともかく、これが解散ライヴになる外道が1時間のステージをこなすと詰めかけた外道ファンが集団ヒステリー状態になり(その様子はCDにも収録されています)、トリのマキ&OZはトップクラスの人気バンドでしたからそれまでには事態は落ちついたようですが、外道の次の出演だった裸のラリーズはサウンドチェック中からブーイングを浴びてろくに演奏できなかったと伝えられます。

 一聴するとこのデビュー作ではそれほどでもありませんが、加納秀人のギターと青木・中野のコンビネーションはクリーム~ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスの影響から発展したもので、ハード・ロックでもありサイケでもあるのはクリーム~ジミの流れです(A2のユニゾン・リフ、A5のファンク・リフなど)。ただしプロト・パンクでもあるのはクリーム~ジミ・ヘンドリックスからは出てこない要素なので、ローリング・ストーンズの独自解釈からブルース色の強いオリジナル曲を作っていた村八分からの影響が、ブルース色をあえて抜くことで、重心の低い村八分よりもフットワークが軽くソリッドなサウンドで表現された結果と思われます(A1、A3、B3、B4などがそうです)。せっかく中野良一というキース・ムーン~ジョン・ボーナム級のドラマーがいるのに、つまらないバラードB2、B5などを挟むのは当時のロック・バンドの慣習でもありましたが(郡山ワンステップ・フェスティバルではこの2曲の代わりにポップなオールディーズ風オリジナル曲「愛の寝台車」、ギャグとして「可愛いベイビー」のカヴァーを演っています)、それらを聴くと外道の場合は村八分をパクればパクるほど村八分のパクりには治まらない面白い出来の曲になり、村八分には稀にしかない(「むらさき」など)タイプの曲でスペーシーなギター・サイケ曲(本作のB4の凄まじいギター・ソロにはその予兆がありますが)を演奏するようになるのは『拾得LIVE』~『外道LIVE』の時期でした。外道は'70年代末~'80年代初頭、'90年代、'2000年代、そして現在も忘れた頃に断続的に再結成し、近年では加納秀人のソロと外道の区別がつかなくなっていますが、やはりオリジナル外道の4枚+『外道LIVE』、最新発掘ライヴ『郡山ワンステップ・フェスティバル』はどれも一長一短ながらたまに取り出して聴きたくなります。筆者の好みでは全8曲中4曲が本作と重複するも、格段にアンサンブルの密度が上がった『拾得LIVE』をデビュー作より上位に置きますが(次点は本作と解散ライヴ)、外道のエッセンスがもっとも凝縮されたアルバムがデビュー作の本作なのには異論はありません。冒頭の「関東大震災がまた来るぞ」という観客のガヤはヤラセでしょうか?