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ムーミンパパの無駄話と食前の飲み物の追加注文で、すでに運ばれていたスープからすっかり気がそれていたのは、偽ムーミンには偶然の幸いでした。熱い状態でのそれは、おさびし山の岩をも溶かし、海水浴場にまけばあらゆる水中生物の息の根をとめる猛毒だったのです。それはかつて水爆実験の余波でよみがえった巨大で凶暴な古代生物すら数分で白骨化させました。これを俗に、
・毒を持って毒を制す
といいます。
それほどの猛毒が冷めるとただのスープになるのは、無視されるとそっぽを向く若い娘のような性質だからでした。ですが冷めてしまうと意地でもおいしいスープになって食客を堪能させようという一面もあり、ムーミンたちの知らない世の果てではこの現象を、
・ツンデレ(死語)。
と、呼んだ時代もありました。また重ねて幸いなことに、このスープは例によって強烈な悪臭を放ちましたが、外部には臭わず、熱いうちに飲んだ当人だけに猛烈に臭う、というしかけがありました。でもどっちみち冷めてしまったのだから関係ないのです。
ムーミンパパが黒ビールを飲み干してじーっと(偽)ムーミンを見つめ、ムーミンママもやはり目を細めてじーっと(偽)ムーミンを見つめ、その気配からスノークとフローレンも(偽)ムーミンをじーっと見つめ、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士もじーっと(偽)ムーミンを見つめ、ヘムル署長とスティンキーも(偽)ムーミンをじーっと見つめ、トゥーティッキとモランとフィリフヨンカもじーっと(偽)ムーミンを見つめ、ミムラとミィの35人姉弟も(偽)ムーミンをじーっと見つめ、トフスランとビフスランもじーっと(偽)ムーミンを見つめ、見えないスニフはあえて(偽)ムーミンから目をそらしてじーっとこらえ、スナフキンはじーっとテーブルクロスを見つめ、ニョロニョロはただニョロニョロしていました。
(偽)ムーミンは自分に集まった注目にたじろぎながら、思い切ってスプーンを手に取ると、冷めたスープの皮を破ってひとくち、すすってみました。ん?
どうだねムーミン?
おいしいよ。何のスープかわからないけど。
レストランじゅうがホッとしました。どれどれ、とムーミンパパ、そしてママ。
ムーミン!これのどこがうまいんだ!
……ムーミンパパは蒼白でした。スープはやはり心変わりしていたのです。
しかもまずいことに偽ムーミンは利き腕をまちがえていました。
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ん?もう一度言ってくれないか、とスノークは言いました。どうもお前はお嬢さんぶって話すから聞き取りづらい時が多いな。本当のお嬢さまは威圧的なほど明晰に話すぞ。だからといって威圧的に話せとはいわないが。
トイレに行ってくる、とムーミンパパ。あら、あなた早いわね。うむ、なにしろ黒ビールなど久しぶりだからな。気をつけて行ってらしてね。あのなあ、トイレに行くだけなのだぞ。
あら、ミィがいないわ、とミムラねえさん。みんなどこに行ったか知らない?知ーらない。困ったわね。
ご一緒してもいいかね、とヘムル署長。私はかまわんよ、あなたとヘムレンさんは本家分家だし、私とあなたは官吏仲間だがスティンキーくんは窮屈じゃないかね?あっしなんぞは光栄のいたりです。では合席も狭いからウェイターを呼んでテーブルを寄せようか。
トゥーティッキはモランが苦手でしたがモランはフィリフヨンカを警戒し、フィリフヨンカはトゥーティッキに劣等感をいだいていました。女性の三人組はなんとなく一人対二人の構図になりがちですが、人間の価値観でトロールを見てはいけません。
あら、もう済ませたの?いや、こんなものが入っていたのだ。ムーミンパパはシルクハットを裏返してみせました。な、私は寝る時以外脱がないのに、どうして入り込んだのだろう?とにかくこれでは男子トイレに入れん。そいつを返しておいてくれ。
スニフはもうそろそろつらくなってきていました。こうしているあいだも道には小銭やビール瓶の蓋がキラキラしているにちがいない。でも今ここにいる人と、
・いない人
がムーミン谷の全員だし、食事を終えた組が出ていかないかぎり誰もそれらを拾えないはずだ。
トスフランはまだかなビフスラン、と夫婦仲良く料理の到着を待っていました。
おお、来たぞウェイター。ヘムル署長とわれわれのテーブルを合わせてくれ。できますが、よろしいのでしすか?われわれ四人はそうしたいが、何か問題でもあるのかね?合わせると♥のかたちになりますが。
お探しじゃない?すいません、とミムラはムーミンママからシルクハットを受け取ってぶんぶん振り回しました。参った、降参、と目を回したミィが落ちてきました。あんた、どうやって入ったの?
そして小用から戻ったムーミンパパの頭にはアホ毛がひっそり三本生えていました。(偽)ムーミンは内心の動揺を必死で抑えました。
次回第五章完。